小さな湾を抱えるその村は、山が海際までせり出し、そこここに坂がある。漁師達は夕暮れ、疲れた体を引きずって坂を登り、我が家へと帰る。
冬が長いこの辺りでは、漁ができる時期も短い。採れるときにたくさんとって、それを足しに冬を越す。だのにこの数年、取れる魚は減る一方で、村人の生活はかなり苦しくなっている。それでも皆、毎日海に出て、一匹でも多くの魚を捕ろうと船を漕いだ。
漁師達さえもういないような時間に、老人が坂を登って行く。鉛でも引きずるような、重い重い足取りで。
この老人は魚を捕らない漁師として村では知られていて、毎日毎日海に出るのに、魚は一匹も捕ってくることはなかった。それは彼がまだ随分若い頃からずっとのことで、今では変人として村の者は話もしない。
坂の一番奥にあばら屋のような家が一軒立っていて、老人はそこへと歩いて行く。空はもう暗く星が輝いている。家にはそれでも明かりが点いていて、老人の帰りを待っていた。
「おかえりなさい」
無言で戸を開けた老人に、少年が声をかける。老人はそれに答えず、テーブルにつくと大きく息を吐いた。
少年はまずお酒を一杯老人の前に置き、自分を見ようともしない彼の前に、粗末だけれども湯気のあがった料理を置いた。
老人はやはり何も言わずにそれを食す。その向かいに座って少年は、老人がちゃんと食べるのをじっと見ていた。やがて老人がぽつりと
「お前も食べなさい」
そういうと、やっと少年は自分の分の料理を並べて口をつけた。
それは毎日のことで、老人がそう言わなければ少年は食事をしようとはしなかった。
食事が終わり、テーブルの上を片づけた少年は、やはり向かいに座ると、小さく尋ねた。
「今日は何処へ行ったの?」
老人は答えなかった。いつものことだ。わかってはいても少年はやはり寂しさを隠せない。コップを弄び、視線を上げられずに手元を見る。
やがて老人は、がたん、と立ち上がると奥へと消える。
「後片付けをして、さっさと寝るんだ。明日も早いのだからな」
そう言って。
そして少年はコップを片付け明日の朝の用意をすると、自分もベッドに潜り込んだ。
少年は海を漂っているところを老人に拾われた。夏とはいえ北の海は冷たい。少年の体は氷のように冷えきっており、心臓は止まりかけていたけれども、老人の介護で何とか息を吹き替えした。
少年は何も覚えてはおらず、なぜ海を漂っていたのかも、自分の生まれたところも、名前さえも忘れていた。
村は貧しい。老人にも子供を養うような余裕はなかったけれども、他の村人もそれは変わらない。ましてやどこの誰とも知れぬ子を引き取るような者はおらず、結局は老人が少年を引き取った。
老人の家に引き取られてしばらくして、彼が少年にぽつりと話したことがある。
その話を少年はとても気に入って、よく話してほしいとせがんだりもしたけれど、最近ではもう、話してくれることもない。
ただただ疲れていく老人を少年は黙って見続けた。
それでも、以前話してくれたその話は少年の心をとらえ、彼の心を彼方へと飛ばす。
老人の大事な大事な思い出。古い、宝物のようなむかし話――――
この数日魚は一匹も採れず、漁師は今日こそは、と思って海に出た。波が荒く、天気が悪くなるだろうことは予想が付いたけれど、このままでは明日の飯にも困ってしまうと、無理をして漁に出た。
空は思ったよりも早くに崩れ、港に戻る間もなく嵐になった。
持ち上げ、叩き落とす波に、漁師の船などすぐに砕けた。
ようやく手にした船の欠片に必死にしがみつき、波をかぶって溺れそうになりながらも彼は耐えた。
嵐は止む様子もなく、風も波もますます強くなっているようだった。
漁師は駄目かもしれないと片隅で思い、それでも木片にしがみつき続ける。
やがて腕も足も痺れて感覚が無くなっていき、意識もふうと途切れた。
ぱちぱちと火の爆ぜる音と、額に触れる柔らかい感覚でゆっくりと意識が覚める。
塩にやられたのか、目を開けてもしばらくはぼやけて見えない。ただ、人影だということはわかった。
ここは?と問う漁師の声に答えたのは、若い女の声だった。
浜辺に流れ着いた漁師を彼女が見つけ、家まで運び、手当てをしてくれたのだという。
土地の名前を聞いても、漁師にはさっぱり分からなかった。随分遠くまで流されてしまったようだった。
彼女は真水で目を洗ってくれ、ようやく漁師は彼女を見ることが出来た。
優しい微笑みの、きれいなひと。
漁師は一目で心を奪われる。
彼女はとても甲斐甲斐しく世話をしてくれ、漁師は元気になっていった。起き上がれるようになると、家の手伝いもした。
彼女は独りで暮らしているようで、力仕事も自分でしていた。漁師はお礼だといって、それを代わった。
彼女も漁師を気に入ったようで、いろいろと細かく気を遣ってくれる。
漁師の言葉に時折頬を染めることもあった。
漁師はその村で客人として歓迎され、いろいろな人たちから世話を受けた。食べるものを分けてもらい、服を作ってもらい、酒場へ誘われて一緒に飲んだりもした。
漁師も自分のできることは何でもしたし、彼らが漁に出ると言えば、一緒に船に乗ったりもするようになった。
北の地の夏は短い。太陽は命の象徴、巡りつづける季節と永遠を司るもの。
太陽を奉り、太陽に祈る祭りが始まる。
大地を踏み締めて踊る村人。その力強さに漁師はただただ圧倒される。
漁師の村でも夏祭はあった。太陽を崇める意味も同じだけれど、これほどまでに命を感じさせるものではなかった。
大人も子供も笑う。声を上げて笑い、共に歌い踊る。
皆力の限り歌い踊った。
漁師は、これ程迄に生きている命を感じたことはなかった。生きている喜びを感じたことはなかった。
そして、自分はその輪に入れないと感じていた。
自分はこれ程迄に生きたこともなければ、生きようとしたこともなかった。
ずっとずっとただそこにいた。
自分は彼らとは違う。違いすぎる。
漁師は泣きながら、踊る村人達を見ていた。
肩に手を置かれて顔を上げる。
彼女が其処に立っていた。とても心配げな顔をして。
どうしたの? と問う彼女に、漁師は何でもない、としか答えなかった。
彼女の腕に緩く掴まり、漁師はただ静かに泣きつづけた。
彼女はそんな漁師を抱き締めた。
何も言えずに泣くだけの漁師を、彼女もまた抱き締めていた。
その夜から、漁師はここで暮らしたいと願うようになる。
ここでなら、彼女の傍でなら、自分は生きられると思うのだ。ここの人たちのように、大地にしっかり根を張り、太く育つ木々のように生きられると。
けれど彼女は、漁師のそんな言葉を聞いても喜ぶことはなく、秋を飛び越して冬へと向かう景色のように沈んでいった。
やがて、雪が舞い始め、初めはそれでも土の色をしていた大地が白くなり始めた頃。
彼女が突然別れを口にした。
彼女たちは長い長い冬の間、長い長い眠りに就くという。漁師はともに眠ることができない。だから、今のうちに元いた村へ帰るように。そう言った。
漁師は彼女を必死に引き止めた。自分も連れて行ってくれと、共にいたいのだと、この村のものとして迎え入れて欲しいと。
だが、彼女も村の人も、悲しそうな顔で首を振るだけだった。
そして降りしきる雪の中、彼らは去って行く。眠りに就く為の場所へと。漁師は追いかけたが、雪に足を取られてしまい、滑るように進む彼らに追いつくことはできなかった。
時折振り返り、自分を見た彼女の顔がいつまでも残像のように残ったけれど、確かなものは何もかも、足跡さえもが雪に白く覆われていった。
彼らを見失い、置いて行かれて、漁師は悲嘆に暮れながら、それでも結局は船を出した。村へ帰る為に。
生きたいと願ったのならば、この村のものになりたいと願ったのならば、生きてください。
彼女の残した言葉があったから。
波の荒い冬の海だというのに、不思議と漁師は凍えることもなく、ほんの数日で故郷の村へと帰り着いた。
村ではもう死んだものと思われていたから、酷く驚かれ、どこにいたのだとうるさく聞かれたけれど、彼は一言も話さなかった。
それからしばらくは、漁師は変わらずに暮らしていた。日々魚を捕り、船を直し、道具の手入れをした。
だが、夏がすぎた頃から、彼は魚を捕らなくなった。
毎日毎日船を出すのに、皆とは違う何処かへ行き、何も取らずに帰ってくる。
生きて行くのに必要な分だけで暮らす。
誰も漁には出ない冬でも船を出し、村人に止められたけれど、彼は聞かなかった。
そしてそのうち、誰も彼を気に留めなくなった。
そして長い年月が経ち、白髪の、皺の入った老齢になっても、彼は海へと向かう。
その理由を知るのは、少年だけだった。
変人と噂される老人の思いを、少年だけがわかっていた。
毎日ただ海へ出る老人のために、少年は漁を教えてもらっていた。
老人に少しでもちゃんとしたものを食べて欲しくて、村人に頼んで漁に連れて行ってもらっていた。
老人はそれを知っても何も言わなかったけれど、少年は一生懸命いろんなことを覚えた。
それは自分の為でもあったけれど。
いつか、いつか、きっと僕も、老人の行ったという場所へ行くんだ。
少年はそう思いつづけていたから。
しばらくたって、嵐が来た。
老人はやはり海へ出て、二度と帰らなかった。
たぶん、辿り着けたのだろうと少年は思う。
そして改めて思う。
いつか自分も、老人に会いに、彼らに会いにそこへ行くんだと。