「どうして命令を無視したの」

ロッカールームに併設されたシャワースペースでミサトとレイは向かい合っていた。長椅子に座っているレイはタオルをかけているものの未だプラグスーツのままで、髪も濡れていた。ミサトは腕を組み厳しい表情でレイを見下ろしている。
ミサトの声は感情を押さえている、とわかるものだった。実際”怒られている”または”厳重注意”といった状況なのに、レイの頭の中は妙に冷えていた。逆にそういった状況だからなのかもしれない。怒鳴りたいのならば怒鳴ればいいのにと思いながら「すみません」とだけ口にする。
あの時思ったことを口にしてみようかとも考えた。けれど、何をどう言った所で通じない気がした。
明確な「軍」ではないかもしれないけれど、ここはほぼ「軍隊」だ。だからミサトがこういうことを言わなければならない事も理解できる。一人が勝手をすることはたぶん許されないのだ。だからレイは謝った。例え自分がどう思っていようとも、それは言い訳にしかすぎない。
必要とされているのは、命令通りに動く「コマ」。 それは納得できないことはなかったから、大人しく返事を返す。

「そんなことをしてたら命がいくつあっても足りないわ。すぐに死ぬことになるわよ」

自分を心配するミサトの言葉。それが嘘ではないこともわかっている。どちらにしろ何も言うことはないし、言えるとも思わない。
ただこうして黙りこんでいる態度は、それはそれでミサトは気に入らないのだ、ということも感じられた。空気がそう言っている。
ミサトが口を開く。そこで動きを止めてわざとゆっくりと言葉を吐いた。

「そうやってとりあえず従順にしてたらいいと思ってるの?」

どうしろと言うのだろう?
コマとして最低限の働きはするつもりはある。だから”これでいいじゃない”と投げやりに思っていた。濡れたプラグスーツは皮膚と擦れて不快感をもたらす。早く脱いでさっぱりしたいのに、ミサトがいるとシャワーも浴びられない。早く切り上げて欲しい。

「どうすれば、ミサトさんの気が済むんですか?」
「気が済むって」
「自分のしたことは理解しているつもりです。だから謝りました。特に言い訳することもありません。だから黙っている。それではいけませんか」

顔を上げずに、レイは言い放った。ミサトの手がぐっと握られるのが見えた。
”ああ同じだ”
レイは学校の屋上で同じような手を見た、と思い出す。
”殴りたいなら殴れば良いのに”
あの時と同じ事を思う。

ミサトが大きく息を吐く。ため息というよりは自分を落ちつかせるための呼吸だとわかる。

「わかったわ。反省しているならいいの。以後十分注意するように。
今日はこれでもう帰っていいわ。ゆっくり休んで」

そう言うとミサトは踵を返す。踵を鳴らし、大股で出ていくその姿は、いまだ感情が収まっていないことを如実に現していた。
空圧が抜ける音がしてドアが閉まる。ミサトが居なくなってようやくレイは体の力を抜く。
長椅子に横になる。灯りが少し眩しくて、腕で目を隠す。
息を吐く。

”乗りたくない”
そう正直に言ったら、ミサトは、もう乗らなくてもいいと言ってくれただろうか。
考えて、有り得ない、と口の端で笑う。

「疲れた」

呟いて目を閉じた。

目が醒める。窓の外はすっかり明るくなっている。時計を見ると9時を過ぎていた。遅刻だ。それでもレイは体を起そうとはしなかった。ベッドに突っ伏してため息をつく。ごろりと寝返りを打つとタオルケットを被った。

次に目が醒めたのは午後になってからだった。レイは同じように時計を見、それから天井を見つめる。
それからまた寝返りをうつと目を閉じた。
数時間置きに目を覚ます。けれどベッドからは出なかった。
食事をしにいく気にはなれなかった。それほど空腹ではない。ただ寝ていたかった。眠いわけではなく、何も考えたくないから、眠っていたかった。

時折遠くで携帯が鳴っているような気がした。インターホンも鳴ったかもしれない。けれどレイはずっとベッドに篭もっていた。

ひやりとした感触で夢から醒める。

「熱があるわけではなさそうね」

ミサトの声がした。目を開けると目の前に少し心配げな表情をしたミサトがいた。
どこかまだぼんやりとした思考でレイはどうしてミサトがいるのかを考える。ここは自分の部屋で、鍵はかけていたはずで。ああ、でも合い鍵くらいは持っていて当然か。

「2日続けて学校を休んでいると連絡があったから、様子を見に来たの。倒れているんじゃないかと思って。携帯も出ないし」

ゆっくりとレイは体を起す。ずいぶん寝ていた様に思うけれど、まだ2日目でしかないらしい。でもそれでもうミサトが来るのか。

「すみません。なんだかだるくて」
「病院へ行った方が良さそう?」
「いえ、そういうのでは。ただだるいんです」
「そう」

レイはミサトを見ようとせず、ミサトも視線を合わせようとはしない。

「学校は少しくらいさぼっても大目に見るけれど、ネルフはそうはいかないの。昨日1日は戦闘直後、ということもあって黙っていたけれど、今日は来てもらわないと困るわ」

ミサトが静かに言う。
レイが返事をしようと口を開く前にミサトが続ける。

「ちゃんと、来る気はあるのかしら」

開いた口を閉じる。息を飲みこむ。すぐに返事をすべきだった。けれどできなかった。出来なかったから、口を開けなくなる。

時間経過はわからない。かなり経った様に感じられる。なんだかノイズが聞こえると思っていたけれど、雨音のようだった。昨日は晴れていたと思う。雨の割には窓からの光は明るい気がする。さっきから何か匂いがすると思っていたけれど、それもどうも雨の匂いらしい。ミサトが連れてきたのだろう。
そんな事を考える程度の間を置いて、ようやくレイは

「行きます」

そう口にした。
ミサトは笑いもせずに、ごく普通にその言葉を聞く。

「わかったわ。じゃあ、学校が終わったくらいの時間でいいから。待ってるわ」

そう告げて立ち上がると部屋を出ていく。レイは視線だけを追わせた。

人が出ていってドアが閉まる音がする。それからずいぶん経ってから、レイはベッドから出てシャワーを浴びに行く。
食欲もないし空腹なつもりもないけれど、訓練があるのならご飯は食べないといけないな、と考えていた。

結局、そのまま翌日には学校へも登校した。ネルフから何か連絡があったのか、休んだことについては何も聞かれなかった。

「休んでいた間のノートは、誰かクラスの子に見せてもらってください」

老教師にそう言われたけれど、レイにはそんなことを頼めるクラスメイトは思い当たらなかった。2日くらいの内容、わからなくても何とかなるだろう。そう思っていたら、お昼休みにクラス委員長だという洞木ヒカリがノートのコピーを渡してくれた。

「碇君が、休んでいた間のノート見せてあげて欲しいって」

言われたからというだけでなく、多分性分として人の世話を焼くことが好きなんだろうと思わせる子だった。
今まであまり気にしてはいなかったけれど、改めて見れば洞木はとても委員長らしい委員長で、細かい所まで気がつくし、男子相手でも言うことは言っていた。

洞木に一緒にお昼を食べないかと声を掛けられたけれど、レイはそれを断わり屋上へと向かった。
この学校は街の中でも割と外れのやや高い所にあり、屋上は日差しがあるものの、風が通って心地よかった。
日陰を選んで座ってコンビニ弁当を広げる。

「綾波」

もう食べ終わろうかという頃に声を掛けられる。見上げるとシンジが少年二人を連れて立っていた。
あの時の二人。トウジと眼鏡の少年。

「えっと、顔はもう知ってると思うんだけど、こっちが鈴原トウジ。でこっちが相田ケンスケ」

そう言うとシンジは少し身を引く様にする。トウジは今日もジャージ姿だった。制服を着てこなくても怒られないのだろうか。ぼんやりとその姿を見上げる。
トウジは居心地悪そうに少し身じろいだ後、顎を上げて胸を張る。

「すまんかったな」

レイが、何についての言葉かを考えていると隣のケンスケがフォローを入れる。

「それじゃ全然わからないよ。もっとちゃんと言わなきゃ。
 この間の戦いのとき、僕らが邪魔しちゃっただろう。いいだしっぺは僕で、トウジは付き合わされただけなんだけどさ。
 考え無しだったって反省してる。あの後ネルフの人にも凄く怒られたんだ。
 綾波さんには直接助けてもらったし、お詫びとお礼をと思ってシンジに頼んだんだよ。
 あの時は迷惑かけちゃって、本当に申し訳ない」

そう言って頭を下げた。それを見てトウジもどこかしぶしぶといった風に頭を下げる。
レイは、二人を眺めながら改めて、あの時下手をしたら二人を殺していたかもしれない、と考える。二人を見つけた瞬間の、胸の裏がぞわりとする感覚が思い出される。

「別に、気にしていないから」

そう言葉にはしたけれど、顔は強張っているような気がした。普段からあまり表情が出ない方で良かったと変な風に考える。自分が思うほどは違いはないだろう、たぶん。
ケンスケとトウジはどこかホッとしたような顔をした。
シンジだけがじっとレイを見ていた。

それからしばらく、使徒の侵攻はなかった。
ヒカリが時々様子を見て色々と声を掛けてくれるようになった。一緒に行動する、ということはしなかったけれど、レイはヒカリは嫌いではなかった。彼女には、ちゃんと返事を返す。
クラスメイトに興味はなかったけれど、シンジとトウジとケンスケにはつい目をやってしまう。
ごく普通の仲の良いクラスメイト。シンジは3人で居る時も良く笑う。
怪我も良くなってきたようで、頭に巻かれていた包帯はもうない。眼にはまだガーゼが当てられているけれど、腕のギプスもとれていた。

今の自分の性格をどうこうしようとは思わない。けれど、あまり笑わない自分と、普通に笑うシンジと。この違いはどこにあるんだろう。
時々そんなことを思いながらシンジ達を眺めたりしていた。

ネルフで行われる訓練は実技ばかりではなかった。ネルフという組織や、作戦行動時に必要な事項、またエヴァについての様々な知識などの講義も行われる。恐らくシンジはすでに習っているような事項ばかりだろうに、レイと一緒に講義を聞いていた。実技はまだ許可が下りていないから、講義にでも出ないと何しにネルフに来ているのか、ということもあるのかもしれなかった。
講義は基本的にリツコが受け持っていた。ただ実戦的な内容になるとミサトに変わることも多い。ミサトが忙しいといって日向が担当することもしばしばだった。
その内容はやはり「軍」としてのものだと言えた。ただレイはまだ未成年で、基本的には言われた通りに動くだけの立場なので、それほど詳しいことや厳しいことは言われない。
学校の授業とも違い、人数が少ないこともあってか雑談に近いものになることも多かった。
一度リツコが

「一番うるさい人がいないから、平和ね」

とゲンドウの事を言ったことがあった。ゲンドウはレイにとって殆どイメージのない存在のままだった。父親ではあるが、父親としてのイメージはない。けれど「基地司令」と言われてもそのイメージもまだなかった。偉そうにふんぞり返っているだけの存在だったりするのだろうか。
そういう疑問を口にすると、レイとしては意外なほどに、皆ゲンドウを司令として認める言葉を並べた。
文句も出るけれどそれは本当にどうしようもない枝葉な問題で、根本的な所でゲンドウは司令としての信頼を得ているようだった。

レイにはそれを素直に受け入れることができなかった。

自分は知らない。見たことがない。ここに来ても、数えるほどしか顔を合わせていないし、まともな会話はしていない。
人から聞く姿ばかりでは、レイの中にある偏っているであろうゲンドウの形を変えることができない。

恐らく、ネルフの誰もがレイよりよほど父親を知っている。

”自分もここにいてパイロットを続けたら、あの人を上司として認められる日が来るのだろうか”

そんなことをペンを回しながら考えた。

心のむこうに’

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