実験機として零号機が建造され、シンジをテストパイロットに色々な実験が、幾度も繰り返し行われていた。実験の主たる物はエヴァのコントロールについての部分で、パイロットの安全を確保しつつシンクロしエヴァを制御するというのは簡単にできることではなかった。
エヴァは独立した意思を持つ。スタッフにさえ公にされていないが、現場は気づいているだろう。ヒトのような明確な思考や人格といったものかはわからないが、エヴァは自律可動、つまり勝手に動くモノであることは明白であった。それをヒトの意思で制御するのだから、そこには軋轢が生じる。
制御を退けシンクロを弾きエヴァがコントロールから外れることは、特に初期においてままあった。だが実際にパイロットを搭乗させてからはそれほど大きなものは起こっていなかった。
だからそれは油断といえば油断だった。
エヴァとシンクロする手技自体はほぼ確立され、実験機ではなく実践機体としての初号機が建造されてはいた。だがまだ零号機でさえ、まともな可動試験は行えていなかった。
その日はシンクロテストから連動して可動試験を行う予定で進められていた。本試験は可動試験であり、シンクロテストには重きを置かれていない。
そんな中で零号機はシンクロを拒否、暴走する。
「パルス、逆流!」
モニタにはアラートが表示されエヴァとパイロットを繋ぐラインはあちこちで切断、一部は侵食を示し始めていた。シンクロ失敗自体は今までもなかったわけではない。リツコを初めとしたスタッフは的確に処理をしていた。
「コンタクト停止、6番までの回路を開いて」
「ダメです、信号が届きません」
「零号機、制御不能」
パイロットが命じなければ動かないはずの零号機が身もだえ拘束を引きちぎる。ここまでの異常事態は初めてだった。零号機は『勝手に』動いていた。
「実験中止、電源を落せ」
ゲンドウの指示にリツコが非常電源を落とす。しかし今日は可動試験も予定されていたため予備電源に充電があった。エネルギーが供給される限りエヴァは可動できる。
頭を抱え苦しむように全身を戦慄かせ、零号機はよろめく。
「完全停止まであと35秒」
ふらりと制御室に向かって体を傾けた零号機はその流れのままに拳を振るう。振動。破壊音。壁が凹み歪みガラスが割れる。飛び散らないよう設計されているが破片は鋭く室内に切り込んだ。
「オートエジェクション、作動します」
再び頭を抱えてふらつく零号機の背中でハッチが飛ぶ。エントリープラグが飛び出し天井の隅をなめる。そのまま奇妙なバランスで角を突く。元々それほどの距離を飛行するためではないジェットは数秒しか持たない。
「特殊ベークライト、急いで」
壁から赤い流動体がどぼどぼと放出される。ふらついていた零号機の足が止まる。壁に手を着いた零号機は激しく壁に頭をぶつけ始める。
燃料が切れたプラグは最上部からそのまま落下した。
プラグが零号機に踏み潰されるといった事態にはならなかった。しかしかなりの高さから落下した衝撃は、LCL程度では緩衝しきれるはずもなく、パイロットであるシンジは重症を負っていた。
緊急員が駆けつけ救出を試みるもプラグは高温になっておりそのままでは触れることもできなかった。消火設備を稼動させ大量の水をかけ漸く脱出口が開いたときには、落下からかなりの時間が経っていた。シンジに意識はなかった。スーツのためか外傷はわからないが出血はしているようだった。何度も呼びかけるが反応することはなく、緊急入院となる。
その様子をゲンドウはひしゃげた制御室から見下ろしていた。パイロットが生存していることを確認すると、後の処理をリツコに任せて背を向ける。
詳しい原因は未だ解明されていない。
初号機が建造され、ドイツでは弐号機の建造も始まっていた。巨大な予算も動いている。この状況で原因もわからない『暴走』など知られるわけにはいかなかった。公式文書からは実験自体が削除され、零号機は『パイロットの問題で』凍結となり、ネルフは暴走の後始末に追われた。
もう何度も繰り返した手順。最初の頃ほど緊張もしないけれど、慣れることもできていない。シンクロ率は起動指数ギリギリでテストを繰り返しても思う様には上がらず、いつも多少の気を張っていた。
けれど。この時シンジの頭にあったのは全く別のことだった。
”碇司令の子供が、パイロットとしてネルフに呼ばれる”
前日にぼんやりと聞こえたそのことが、ずっと頭から離れなかった。気にしているつもりもなかったけれど、どうしてか消えないままで。
シンジはその子を知らなかった。ただ、養女に出されて「碇」ではなくなっているらしい。
別にシンジには何の関係もないことだ。
パイロットが増えようと、それが誰であろうと、自分はただ言われた通りにエヴァに乗ればいい。
そう思うのに。
どうしてそのことが頭から離れなかったのか、シンジ自身にはわからなかった。
「もっと、慌てるかと思いましたわ。以外に冷静でしたね」
壊れた制御室は非常灯しか点いておらず、赤く暗く静かだった。ベークライトの台座に埋まる零号機をゲンドウは眺めていた。その背に向けてリツコが言う。
「何を慌てる必要がある?」
「かわいがっていらっしゃるようでしたから」
もしかしたら子供の元へ駆けつけたりするのではないかと、リツコは思っていた。だがゲンドウは一歩も動くことはなく、ただ見ていた。
「別に、あれが特別なわけではない」
「でも、あの子が駄目だから私を呼んだのでしょう?」
「・・・それは嫉妬か?」
薄い、けれど純度の高い嘲笑。リツコは頬に血が上るのを自覚した上で声を抑えた。
「そう言うつもりではありませんけれど。見舞いにも、行かれないつもりですか?」
「行く必要はないだろう。報告ならいつでも聞ける」
そう言うとゲンドウは身を翻し、リツコを一瞥することもなく制御室を出て行った。
零号機暴走による怪我は思ったよりもひどく、シンジは治癒までかなりの期間を要した。運良く、と言っていいのかわからないが、使徒侵攻に対してはレイが間に合い、初号機を持って殲滅することに成功している。
初号機も、初戦で暴走と呼んでも良いほどの、コントロールを逸脱した動きを見せた。零号機の事を知っている人間には冷や汗モノであったが、その後問題なく、というよりは予想以上の可動を見せている。
ここで改めて暴走のリスクのある零号機を再配備する必要があるのか? という意見がまったくなかったわけではないが、戦力は必要だった。初号機だけではいずれ間に合わない事態が発生するだろう。
凍結されていた零号機の再配備準備は順当に進み、シンジの再シンクロテストはあっけないくらいにあっさりと成功した。不安がないわけではないが、零号機は初号機と同じく実践配備、となった。
その日のテストは珍しく初号機・零号機ともに同じ空間で行われた。可動実験ではない。レイはただ初号機に乗っているだけだった。このようなテストでは正直何が行われているのか、レイにはまったくわからない。データ採集のようだ、というのはわかるのだが今更何のためのデータなのかわからない。
ただ、こんな風に色んなテストが行われるとその度に違う場所が指定され、正直レイはとまどっている。未だネルフの造りに慣れていないレイでは指示された場所へ一人で行くこともできなかった。
それが侵入者撃退の意味も込めてわざとされていることだというのは知っていたけれど、これでは何かあったときに自分は何もできないと思う。
レイに対してではない、データ処理のための指示が背景のように流れていく。レイはただぼんやりと次の指示が出るのを待っていた。これで終わりなのかどうかもわからない。
目の前には零号機とシンジが見える。プラグを外からいじっていた。エヴァやプラグの構造、物理的・工学的な面でのエヴァの知識はシンジに一日の長がある。レイには何をしているのかわからないが、何か調整をしているのだろう。
その様子をぼんやりと眺めながら、不思議な少年だと思う。
ごく普通で、他のクラスメイトと何も変わらないように見えるのに、どこか自分達とはまったく違うところに立っているような、そんな印象を受けることがある。
距離は近いのに、手を伸ばせば届くはずなのに、そこには海と陸ほどの違いがあって側に寄ることはできないような。
今ではもう包帯も全て取れ、怪我は完治している。ただ、プラグスーツのせいもあるのか、細い。最初の、包帯だらけで血を滲ませて苦しげな呼吸をしているシンジが印象に強いせいだろうか。
今まで知る男の子とは違うな、と思って見ていた。
何かに気づいて振り返ったシンジにつられて視線を動かしたレイは、そこにゲンドウの姿を見た。
急いでプラグから駆け下りるシンジ。微妙な距離を置いて止まるとゲンドウを見上げる。
音は聞こえない。ゲンドウの口は、今まで見たことがないほどに動いて、長く、何かを告げている。表情は相変わらずなかったけれど。
何を話しているのだろう? 手がかりになりそうなものはなかった。
ぽつりぽつりと答えるシンジの表情は硬かった。
事務的な、エヴァがらみの話題だろうとは思うけれど、そんなことさえもゲンドウは自分には話さない。
言い終えてゲンドウが素っ気なく立ち去る。
その時。
ゲンドウには見えなかったはずだ。彼が振り返って、完全に顔が向こうに向いてから、シンジは顔を変えた。
僅かな変化。望遠で見ていたレイだから気づいたほどの変化。
一瞬の事ですぐにシンジはプラグへと入ったけれど、その顔をレイは忘れることができなかった。
それがシンジのイメージとなってしまうほどに、忘れることはできなかった。
「悪いけどシンちゃんの更新カード、届けてくれる?」
ウインクと共に頼まれたのは、どうしても自分がしなければいけないことではないと思えた。けれど断るほどの理由もなかったのでレイは引き受ける。
渡されたメモの住所は合っているはずだ。けれどこれが人の住む場所なのだろうか。あまりの寂れっぷりに首を傾げながら目的の号室を見つける。確かに表札は「碇」だった。
『碇』
そういえばそうだったな、とレイはしばらく表札を眺めた。碇の姓を名乗っているのに、ゲンドウと暮らしているわけではないようだった
新聞受けはいつのころからのもかもわからないチラシでいっぱいだった。チャイムを押してみたけれど、中で音が鳴った様子はない。何度か押してみたが人が出てくる気配もない。
この時間はまだ部屋にいるはずだと聞いていたからドアノブをまわしてみると、それは簡単に回った。小さくドアを開けそっと覗き込むようにしてレイは中に声をかけた。
「碇くん…?」
返事はない。
もしかしたら眠っているんだろうか? それにしても鍵もかけないなんていくら男の子でも不用心だと思いながら、レイは中へと入った。
明かりは点いておらず薄暗い。キッチンがあって奥に一部屋あるようだった。行ってみるとベッドと小さな棚、パイプ椅子があった。けれどシンジはいない。打ちっぱなしのコンクリートにタイルが敷かれた床はどこか冷やりとしていた。エアコンが効いているというだけではないだろう。
"行き違ったのかしら"
視線を彷徨わせて漸くそれが目に入った。
楽器ケース。
入ってすぐの隅に立てかけてあったから頭を巡らさないと見えなかった。チェロだとわかるのは、レイもヴィオラを弾いていたことがあったからだった。
シンジが弾くのだろうか。
レイは想像しようとしたけれど、姿は思い浮かんでも音は浮かばなかった。どんな音を奏でるのかわからない。
無意識にケースへと手がのびる。
「綾波?」
不意にかけられた声に、大げさなくらい反応してレイは振り返った。
シンジが立っていた。
「!」
その姿を見るや否やレイは視線を外した。シンジはバスタオル1枚を頭に被っただけの、ほぼ裸だった。他人の裸など、ましてや男の子の裸など見たことはない。
”なんで?”
そんなことを思いながらレイは固まった。
「どうしたの? 何か用?」
そんなことを言いながらシンジが近づいてくる。レイは大きく1歩逃げて、
「服…着て」
小さく告げた。シンジは少し考えたようだった。そうしてようやくレイの言っている意味を理解したらしく、スタスタと部屋の奥へと向かうと服を手に取り始めた。
「ごめん。普通はあんまり人前で裸にならないんだったね」
レイはそれを聞いて、一人で暮らしているとそう言うところがどうでも良くなるのだろうかと思う。でも鍵も掛かっていないのに。男の子はそういうことを考えないのだろうか。
「でどうしたの? こんな所に来るなんて」
シンジに問われてレイは思い出す。
「葛城さんに更新カードを届けて欲しいって頼まれたの」
そう告げると服を着終わったシンジが
「そう、ありがとう」
そう言って手を出した。
普段と何も変わらない笑顔だった。別に悪い事をしたわけではないのかもしれないけれど、ちょっとあれは失礼なんじゃないだろうかと思っているレイは、ちょっとだけムっとした。
「はい」
少し強い口調でぺし!と音を立ててカードを渡す。くるりとシンジに背を向けさっさと部屋を出た。見送るシンジがぽかんとした表情になっていることには気づかなかった。
行き先が同じである以上道程も同じわけで、結局シンジはレイに追いつきその後ろに付く形でネルフに向かった。どうもレイが怒っているらしいとはわかるのだけれど、どうしてかがわからない。何か言ったほうがいいんだろうと思うものの、何を言えばいいのかわからず、ただ黙ってレイの後ろを歩いていた。
レイはレイで無言でついてくるシンジに最初は少しイラっとしていた。ちらり、と振り返ってみるとシンジは戸惑った顔で下を見ている。それを見ると、こんな風に怒ることではなかったかもしれないと思えた。
立ち止まってシンジを振り返る。シンジはびっくりしてレイを見る。何を言われるのだろうと構えているのがわかる。表情の質は全然違うのに、少し、ゲンドウに似て見えた。
「・・・あの人、あなたにとってもお父さんなのよね」
零れた言葉は思っていたものではなかった。
シンジは言われた言葉の意味がわからないようだった。少し首を傾げるのは可愛いかもしれない。
「養子になってるんでしょう。姓は違うけど、私達兄弟ってことになるのよね」
誰の話かわかったらしいシンジはそれでもあまり表情を動かさなかった。
「名前だけだよ」
「一緒に暮らしたりはなかったの」
「何で?」
その言葉に、自分だけじゃないと少し安心しそうになって、レイは薄く唇を噛んだ。
「お父さんのこと、嫌い?」
「好きになれるの?」
シンジの問いに間を置かずに返した声は自分でも冷たいと思った。あの人の事は振り切ったつもりだったのに。
「・・・好き、とは違うかもしれないけど」
「家族をほっぽり出して平気な人なのに」
「でも僕には、司令だけだし」
ほんの数ミリ、口の端を上げたそれは笑みと呼べるもののはずだったけれど、レイにはそう思えなかった。
ロッカールームでプラグスーツに着替える。
今日はシミュレーターでの戦闘訓練だ。レイの模擬戦中にシンジは零号機の実験を行うと聞いている。だから今日はほとんど顔を合わせないだろう。
実戦経験は、レイの方が上だった。エヴァの搭乗時間は遥かに上のシンジだが、怪我があったのでまだ実戦を経験していない。実験機・試作機と言われることの多い零号機と、実戦機として造られた初号機。その間にどのくらい戦闘力の差が生じるのかはわからない。けれどそういう機体の差、パイロットの差を含めて、自分が期待されていることをレイは感じていた。
けれど。
”せめてシンジ君が治って、動けるようになるまではここにいてくれないかしら”
ミサトの言葉を思い出す。結局、流されている。このまま黙っていても、ミサトはもちろん、誰も何も言ってくれないだろう。
嫌だと思うのなら自分が言わなければいけない。
どこか、もうすでに慣れてしまってこれが普通になっているのは確かだった。自分がやらなければという気持ちも、ないわけじゃない。
ただ、”戦闘”訓練をこなすほどに、自分は何をしているのだろう、と思うのだ。自分以外の全てのネルフの人は、自分の意思で、戦うことを目的に、ここにいる。
シンジが”戦うこと”を目的にしているかはわからない。けれどエヴァの開発初期から係わっていることもあってか、何もかもを当然のように受け止め、こなしている。
自分はただここに居る。今でも、正直言えば怖い。あれからまだ使徒は来ていないけれど、そのことにどれだけ安堵しているか。
「・・・パイロットを辞めることはできますか?」
無人のロッカールームで、レイはただつぶやいてみた。
そして、使徒が現れる。