「え〜では転校生を紹介する」
月並みな台詞と共にその老教師はボードに名前を書き付ける。
”綾波レイ”
それを見ながら、やっぱり慣れないな、とレイは思う。戸籍上はその名前なのだから仕方のないことなのだけれど。
「アヤナミレイです」
小さく呟くようにそう言った。
レイがあの巨人、エヴァのパイロットであることはすでに殆どのクラスメイトが知っているようだった。機密とか問題がないのか一度ミサトに聞いてみたが
「ああ、あの学校、ほとんどうちの職員の子供なのよね〜」
で終わってしまった。
学校は退屈だった。以前居た所と変わらない。
人と話すのは得意ではない。口数が少ないとそれだけで周りから人は減っていく。静けさを取り戻すのに1週間もあれば十分だった。
ほとんどのクラスメイトがレイに関心を払わなくなっても一人だけ、睨むような視線を送る者が居た。けれどレイは特に何もせず、他への態度と同じようにしていた。
数日がたって、レイはふと思い立ち屋上でお昼を食べていた。日差しは強く、あまり長時間居るような場所ではない。だからか他の生徒の姿はなかった。
足元に影があったので見上げると、そこにはいつもレイを睨んでいる少年が立っていた。
「自分、あのロボットのパイロットってホンマか」
パイロットであるという事実自体は無理に隠さなくても良いと言われていたので、レイは小さく「ええ」と答える。
それを聞いた少年が一瞬形相を変える。レイはそれを見て何かが彼の気に障ったのだ、とはわかった。しかし”何が”なのかは判らない。だから黙っていた。
少年は俯き握りこぶしを震わせながら、
「・・・自分の、お前のせいでうちの妹が怪我したんや」
搾り出す様にそう言った。それでレイは納得した。つまりは八つ当たりだ。
「使徒のせいで、でしょう」
そう返したら手が伸びてきた。たぶん胸倉でも掴もうとしたのだろうその手はレイの目の前、中途半端な所で止まる。そして握られると戻った。
「女やなかったらっ!」
少年がそう吐き捨てる。八つ当たりするくせに変なところには遠慮があるんだとレイは思い、
「別に、殴りたければ殴ればいいのに」
それで相手の気が晴れるなら、と素直に思ったまま答えた。
「何ぃ!」
その台詞に少年が声を荒げる。そして再度手を伸ばそうとした時
「トウジ?」
少年の向こうから聞き覚えのある声がした。
シンジだった。
少年も振り返ってその姿を確認する。
「綾波? とトウジ? どうしたの」
そう言ってシンジはまだ包帯だらけの格好でつかつかと近づいてきた。トウジと呼ばれた少年の隣に立つとシンジは小首をかしげて少年の顔を見る。
「何でもない」
少年はシンジと視線を合わせることなく俯き、小さくそう言うと走り去った。
シンジはそれをしばらく見送り、それからゆっくりとレイに視線を向ける。
「トウジと何かあったの?」
「別に」
「・・・そう。え、っと。非常召集がかかってるんだ。綾波にも声掛けて来いって。
で、その、一緒に行く?」
どこか遠慮したような、それでも笑顔で声をかけてくる。それを見てレイは”この人はどうして笑うんだろう”と一瞬思い、それから一人ではたぶんネルフに辿りつけないと気づく。
学校の近くにネルフヘの直通路があるとは聞いていたけれど、実際に通ったのは初めてだった。
こんな風に第3新東京市中にネルフヘの通路があるらしいけれど、レイは全てを把握はしていなかった。家の近くと通学路、それと学校近辺の通路をマークしたデータは渡されたし「ちゃんと確認しておいてね」と言われてはいた。けれど、しばらくは普通に正面ゲートからの入場ばかりだったので確認していなかった。
シンジは慣れた足取りで進んでいく。その後を追いながら、一緒で良かったとレイは安堵していた。
入り口はこれで覚えたし、今の所は通路はそれほど複雑ではない。たぶん次からは一人でも大丈夫だとは思うけれど、今一人だったら絶対に辿りつけなかっただろう。わからないなら通常のルートを使えば良いだけのことではあるが、やはり時間が違う。
高速エレベータ内でぼんやりとシンジの背を眺める。腕を釣る三角巾の結び目が見える。黒々として丸い後頭部には白い包帯が巻かれている。制服で良く見えないけれど、たぶん体中がまだ包帯だらけのはずだった。
「あの時はごめんなさい」
ふとそんな言葉が出てしまう。
「え?」
言葉は驚いて、でも降り返るシンジには表情がなかった。
「あの時、私がすぐに乗らなかったから、傷、開いたんでしょう」
そう言うと意味がわかったようだった。それに対してシンジは小さく笑って
「ああ、違うよ。あの前にもう出血はしてたし。君が謝るようなことは何もないよ」
そう答えた。本当にごく普通の、何でもないような笑顔。どうして笑えるんだろうと思うと言葉が零れる。
「怖くないの?」
レイの台詞にかぶる様に、ポン、と音がしてドアが開いた。二人はとりあえずエレベーターを降りる。そこからは発令所はすぐで、もう迷うことはない。
聞こえなかったのか、タイミングを逃したからか、シンジは答えを返さずにそのまま発令所へと足を向ける。レイも特に何も言わずにそれに従った。
発令所のドアが開くと騒然とした空気が押し寄せる。二人を見てミサトはいきなり
「レイ、初号機で出撃ね」
そう言った。わかっていたつもりで覚悟もしていたつもりだったけれど、レイは面食らう。
ミサトはレイに考える余裕を与えたくなかった。恐怖を感じてしまえば動きは鈍る。それでなくても現状では実戦で勝てるなどと言いきれない。”ぶっつけ本番、やってみて”だ。
加えて基地司令である碇ゲンドウは副司令と共に不在だった。司令がいなくてもネルフを采配すること自体はできる。けれど感じる責任の重さは違う。作戦だけに集中、というわけには行かないだろう。
そんな状況でもあり、ミサトは内心では少し焦っていた。それがレイへの態度にも出る。畳み掛けるように指示を与える。
「シンジ君は待機。で、モニターではまだ遠くてはっきりしないんだけれど、これが今回の使徒。恐らくこれがコア。狙うのはここよ。武器はガトリング型回転銃を出すわ。練習でやったわよね。実戦も同じようにすればいいから。落ちついてね」
わかったようなわからないような指示にとりあえず頷き、レイは出撃準備をする。
プラグに入ってしまえば、あとは前回と同じだった。この時間が一番落ちつかないかもしれない。声は絶え間なく聞こえるのに、どこか切り離された感覚が強い。不安が、じわりと頭をもたげる。
レイは軽く頭を振って頭の中でシュミレーションを思い出す。基本的にすべて”センターに入れてスイッチ”を押せば良かったから大丈夫。そう言い聞かせる。
気がつくと周囲はすでに起動終了しており、モニターには外の景色が映っていた。出撃の声がかかり射出される。
第3新東京市の市街が見える。ゆっくり呼吸をする。心拍が早い。緊張しているのがわかる。
”大丈夫、落ちついて。落ちついて。練習したから、できる。大丈夫”
リツコの声がする。
「よくって。敵のATフィールドを中和しつつ、ガトリングの一斉射。練習通り、大丈夫ね?」
「はい」
返事をしながら一度目を閉じる。それから一息吸って、銃を構えてビルの影から出た。
敵が動く前、すぐに照準をセンターに合わせると引鉄を引いた。
ガトリングが回転し、何発もの銃弾が発射される。
弾は当たってはいるようで煙りが周囲へと広がっていく。それが使徒の姿を隠していったが、レイにはそれが危惧すべきことだとわからない。
「弾幕で見えない!」
ミサトの声に青葉の声がかぶる。
「残弾数ゼロです」
「やっぱり緊張しているか」
レイは”残弾を残して備える”と考えることもできなかった。指に力が入って抜けない。全て撃ち尽くしてしまっても、しばらく引鉄を引いたままだった。息も荒い。
煙りは少しずつ薄れてはいるようだが、まだ使徒の姿は見えない。
”見えない”という事実に気づいて不安を感じたレイは気配を感じて身を伏せた。光る何かが頭上ギリギリで閃き、銃とビルが瞬時に崩れる。
攻撃された、そう思った瞬間もう逃げることしか考えられなかった。
何が起こっているのか、どう攻撃されているのかもわからないまま兎に角その場を離れる。その動きは恐らく今までのどのシュミレーションよりも良い動きだった。
ミサトから「予備を出すわ」と言われたが、逃げることに気を取られて予備から離れる動きをしてしまう。
予備を取りに行かなければ、と頭を掠めるけれど実行できない。逃げるだけで手いっぱいだ。飛んでくる触手は間一髪程度でしかかわせていない。
だがアンビリカルケーブルは動きがずれる。ついにはビルと一緒に切断されてしまう。
モニターが内部電源に切り替わった事を告げる。
「あ」
そちらに意識を向けた隙に触手は初号機の足を掴み放り投げた。
回転しながら市外の山に叩きつけらる。
着地のショックで一瞬気が遠くなる。けれど頭を振って意識を戻す。
ふと視線を向けた先に人がいた。頭を抱えて震えている、男の子が二人。
有り得ない光景。
「え?」
その画像は発令所のモニターにも映されていた。
「レイのクラスメイト?」
「なぜこんな所に」
一人はレイにも見覚えがあった。さっき会ったばかりだ。屋上で会ったトウジとか言うジャージの子。もう一人の眼鏡の子には見覚えがない。
どうしよう、と思ってから”つぶしていたかも?”という事実に思い当たる。
さっと血が引いた。
前の戦いでも怪我人は出たと聞いてはいたし、さっきだってこの少年に言われた。けれど実感はなかったのだ。
自分が戦うことで、確実に人にも被害が出る。
視界の端で、触手がひらめくのが見えた。とっさに手を出して触手を握る。手を動かしたら二人を傷つけるかも、などと考える暇もなかった。
けれどこれ以上動けば、恐らく二人は無事では済まないだろう。
幸か不幸か敵はそれ以上の攻撃はしてこない。触手を押さえている内は時間が稼げるかもしれない。けれどそれもいつまで持つか。
掌はじくじくと痛むけれど、まだ我慢できた。ミサトが回収確認をしているのが聞こえた。
「一番近いのは荒川隊ですが、それでも10分はかかります」
「・・・仕方ないか。敵に他の攻撃手段はないわね」
「恐らくですが」
「レイ、二人を回収するわ。初号機は現行命令でホールド、その間にエントリープラグ排出。急いで」
モニターが暗転する。手の痛みが遠退く。背後から弱い光がさし込み、水音がした。
ぱちぱちと瞬くようにして、再度モニターが外を映す。音声も回復した。
「リエントリースタート」
手の痛みが復活する。モニターはちらつき続けていた。
「神経系統に異常発生」
「異物を二つもプラグに挿入したから、神経パルスにノイズが混じってるんだわ」
聞こえる言葉に何らかの障害が生じていることは理解できた。それでもエヴァを操縦する感覚は戻っていた。背後に人の気配はするが、振り向いている余裕はない。
レイは触手を利用して逆に使徒を投げる。ミサトの声がする。
「レイ、一時退却、出直すわよ」
この場から逃げられると思うと嬉しくてホッとした。けれど
”出直すわよ”
そのままエヴァを降りられるわけではない。もう一度、戦わなければならない。
シュミレーションはしていた。けれど、所詮訓練は訓練だったのだ。
こんな恐怖や不安は、シュミレーションではなかった。
たぶん。
今逃げ出したら、撤退したら、もう一度あの使徒の前に立つことはできない。
レイはそう思った。
怖くて。
こわくて逃げたくて。
でも、怖いからこそ、逃げたらそれで終わりだと思った。
「ダメ」
自分に言う。装備はレクチャーされている。それで良いか、勝てるかなんてわからなかったけれど、でも「今」やらないとダメだ。だからプログレッシブナイフを装備した。
山を走り降りる。触手が見えた。食らうと思ったけれどなりふり構っていられない。そのまま前進する。
ズン、と重い衝撃が腹部に来る。一瞬足が止まる。けれどレイは足を進める。
”怖い”という思いをそのまま乗せて、コアにナイフをつきたてた。
周囲の音はもう聞こえなかった。心臓の鼓動だけが耳元でうるさい。自分は声を出しているのだろうか。それさえも知覚できない。アンビリカルケーブルが切れて活動限界が近いのだということも、すでに意識にはなかった。
「初号機、活動限界まで、あと30秒」
発令所では伊吹がカウントダウンしていく。
エヴァの活動停止が早いか、使徒の崩壊が早いか。予測できるものはいない。
「5、4、3、2」
コアに亀裂が走った。
「1」
使徒から血飛沫のようなものが飛び散る。直後にエヴァの電源が落ちた。
「エヴァ初号機、活動停止」
伊吹に続いて青葉が「目標は完全に形象崩壊しました」と告げる。
プラグ内は予備の非常灯で赤く沈んでいる。モニターは外を映さず、発令所からの音も届かない。
今のレイには外の様子はわからなかった。だから使徒が確実に倒せたかもわからなかった。
荒い息を止めることも出来ずに目を閉じる。
敵からの攻撃と思われる衝撃はこない。恐らく、倒せたのだろうと思う。
そう思うだけで精一杯だった。