ゆっくりと、レイは目を開けた。

「・・・どこ?」

見たことのない天井にぼんやりと問い掛ける。蛍光灯とカーテンレール。距離感がつかめない。しばらくそうして天井を眺めてから、レイは体を起こした。

部屋にはレイの寝ているベッド以外に何もなかった。いっそ気持の良いくらいに。ベッドの様子と匂いで、レイは病室のようだと理解する。
そう思えば、天井も保健室に似てるかもしれない。
着ていた服はたっぷりと汗を吸い込み、ぺたりと肌について気持が悪い。何か夢を見ていたような気もしたが、すでにレイの頭からは消えてしまっていた。
そのまま、ゆっくりとベッドから降りる。どこかが痛いとか動かせないといったことはなかった。怪我はしていないらしい。
ただ、どこかふわふわしていた。ちゃんと歩けているのに、まるきり重力を感じていないような、力が要らないみたいな感じだ。

そのまま廊下に出てみる。長い廊下には人の気配がない。病院というのはこんなに静かなものだろうか。
窓の外で鳴く蝉の声だけが響いているが、うるさいほどなのに不思議とどこか遠く聞こえた。
まるで世界にひとりきりのような感覚。

しばらくそんな違和感を感じていると、急に音が飛び込んでくる。見ると廊下の向こうからストレッチャーが来る所だった。
ああ、人がいたんだ。
そうレイは思ったけれど、その音さえ何かフィルターでも通したような音に聞こえる。自分の耳では聞いていないような。

そのままストレッチャーがレイの後ろを通り過ぎる。その上には少年が横たわっていた。

"この子、知ってる"

そんな言葉が浮かぶ。
すれ違う時、少年は視線をレイへと移した。何の感情も読み取れない、静かな視線。
レイも頭に何も浮かべることなく少年を見送る。
見送りながら、自分が本当は存在しないのではないかと考える。まるで幽霊のように。もしかしたら、本当は死んでいるのだろうか?

しばらく誰もいなくなった廊下を眺めていた。ただぼんやりと。

ポンと肩をたたかれて大げさなくらいにびっくりする。声はあげなかったけれど、本当に心臓が止まるかと思った。
こわごわゆっくりと振りかえると女の人が立っていた。

「ああ、ごめん。驚かせちゃった?」

レイは一瞬考え込む。頭が凍結している。誰かわからない、でも見覚えはあって・・・
ああ、そうだ。たしか。
レイは頭の中で手を叩く。

「葛城さん」

思い出した名前をつぶやくように口にする。
葛城ミサトは"にぱっ"と笑った。

「ミサトでいいわよ。私もレイって呼ばせてもらうから。体のほうはどう? 何かヘンなところ、ない?」
「特には、ないです」

なんだか急に夢から覚めたみたいに現実感が戻ってくる。さっきまでの違和感は消えていた。音も空気も、いつものように感じられる。

「本人に異常がなければ退院OKって聞いてるから、よかったら送ろうかと思ってきたんだけど、どうする?」

レイは俯いていた顔を上げる。

「え、ああ、はい。お願いします」

とりあえずそう返事をする。
病室に戻って着替える。特に荷物もないから着替えるだけでよかった。
病室を出て歩きながらミサトが説明を始めた。

「医者が言うには外傷はなし。脳波やMRIも異常は認められなかったって。よかったわね。でも何かあったらすぐに言うこと。ちょっとしたことでも遠慮しないで言ってね。
それからっと、とりあえず住むところはこっちで準備したわ。荷物はそっちに届けてもらったから。あたしと同じマンションなんだけどね。
お父さんとは一緒じゃないんだけど、そこはいろいろあるんで我慢してね」
「別に、構いません」
「・・・一緒に住みたいって言えば、何とかなるかもよ?」
「一人でいいです」
「そう? でも・・・」

ちょうどエレベーター前に着いたところだった。
タイミングよく開いた扉の中にはゲンドウが立っていた。ゲンドウはちらりとレイを見ると、何も言わずにその横を通りすぎていく。リツコも一緒だったが、彼女はミサトを見て微笑んだだけだった。
そんな父を見送るようにしているレイに、ミサトが声をかける。

「気になるんなら、言うだけ言ってみたら?」

ミサトの声にはっとしたように振り返ると、レイは

「いえ別に」

そう言って、一度閉じたドアを開けてエレベーターに乗り込んだ。

レイが案内されたマンションは大きい割にはがらんとした感じがした。部屋は5階の一番奥。綾波の表札がかかっていた。

「荷物は全部届いてるわ。すぐに住めるようにだいたいのものは揃ってるから」

ミサトがドアを開ける。部屋の空気はどこか冷たい感じがした。誰も住んでいない場所だからだろうか。実際に気温が低いわけではないだろうけれど。
廊下の隅には荷物が詰まれていた。その数を見て、こんなにあったかしらとレイは思った。少ないと思っていた荷物も、こうして積み上げられると多く感じるのかもしれない。
そのまま玄関でミサトがレイにあれこれ渡す。

「鍵はこれ、んでこれが携帯。使い方はわかるわね。ネルフ関係の番号はもう入ってるし、私のも入ってるから何かあったら掛けて。あとこれはネルフに出入りするときのセキュリティカード。これがないと施設に入れないわ」

次々と説明される言葉を聞き流しそうになりながら聞く。
ふと思いついたことをたずねてみる。

「ここ、誰も住んでいないんですか?」
「この真下にあたしが住んでるけど、それだけね。セキュリティの問題もあってね、下手な人と同じ建物はまずいってことになってるの。寂しい?」
「いえ、そういうわけじゃ」
「一見無用心だけど、住んでる人がいないってことは知らない人は怪しいってことね。分かってるとは思うけど、確認しないでドアは開けないこと!」
「はい」
「とりあえず、こんなとこかな。学校へは一応明後日から通えるようになってるわ。明日1日しかないけど、部屋の片付けとかに使ってね。明後日は帰りにネルフに寄ってちょうだい」
「はい」
「何かあったら、電話するか下に来てね。じゃあねん」

そう言ってミサトが出ていくと部屋は急にしんとして、妙に息苦しかった。
部屋に上がって灯りをつける。居間にはテーブルも椅子もある。蛇口を捻れば水もお湯も出た。ひと通り部屋を見て歩いてどこに何があるのかを確かめる。寝室になる部屋には、すぐにも寝られる状態のベッドがあった。ミサトが用意してくれたんだろうか、と考える。カーテンも可愛い柄のものがかかっている。ほんとうにすぐに住める状態だった。
ふと見ると壁に時計がかかっていて、もう良い時間を示している。

「寝よう」

何となく口にして、とりあえずお風呂に入ろうとダンボールを開ける。中身を出したままその辺に散らかして、目的の着替えとタオルを手にする。出したものはどうせ明日片付けるのだからとそのままにした。
先ほど見た時にシャンプー、リンス、ボディソープなどが置いてあるのは確認していた。一応自分が使っていたものを持ってきてはいたけれど、出すのが面倒くさかったので備え置きを使うことにする。

湯船につかりながらぼおっとする。何も考えたくなかった。それでもレイはぼんやりと思考する。

結局、何しにここへ来たんだろう。何もかも周りが勝手に動いている。いつのまにか住むところまで決まってて。確かに引越しするつもりだったけど。全部が自分のいないところで決まってしまっている。転校も、どんな学校があるのかもぜんぜん知らないのに。

ぐるぐるといろいろ浮かんでくるのがイヤで、バシャン!と水をかぶると、さっさとお風呂から上がる。
適当に髪を乾かして、ピンと張ったシーツが敷かれたベッドに横になる。

疲れているはずなのに、目を閉じていても眠れなかった。意識がない状態というのも「寝ている」と体は認識するのだろうか。
ぼんやりと天井を見る。病院とは違うけれど、やはり知らない天井。前の家とは、当たり前だけど違う。

"眠ってしまいたいのに・・・"

寝返りを打って無理矢理目を閉じると、光が目の奥で知覚される。

"えっ?"

目を開ける。見えるのは薄暗い部屋。だけどその薄暗さがスクリーンのようにそれを映し出す。

巨大な得体の知れないもの。得体の知れないロボット。「操縦」する不思議な感覚。
痛み。痛み痛み痛み。恐怖。
ゲンドウの言葉。ミサトの言葉。リツコの言葉。
暗転。
赤い空間。
痛み。恐怖。
赤。
途切れている記憶。

・・・結局、眠ることなどできなかった。

何度も寝返りをうって眠ろうとしていたけれど、うつらともできないまま気がつけば外が明るくなっていた。大きくため息をひとつついてレイは体を起こした。
頭がすっきりしないので熱いシャワーを浴びる。
冷蔵庫を覗いたら牛乳や卵とちょっとした食材があったので簡単な朝食を摂ると、荷物の片づけを始める。とりあえずダンボールを開けているとチャイムが鳴った。覗き窓から見るとミサトが立っていた。

「おはよう! 片付け手伝おうかなって思ってね」
「・・・葛城さん、仕事は?」
「今日は後始末だから私は必要ないの。まぁいいじゃない。一人よりは楽でしょ?」

そういってずかずかと上がり込んでしまう。
ミサトは手よりは口が動くタイプらしく、作業の手が止まることはあっても、口が止まることはなかった。話の中身は当たり障りのないことだけれど、よくもこんなに話せるものだとレイはちょっと感心する。
そんな手でも二人ですれば仕事は早い。元々そんなに多くない荷物は午前中には片付いてしまった。

「女の子の割には荷物少ないわね。服とか処分しちゃったの?」
「いえ。そんなに持ってなかったから」
「私の部屋なんて溢れかえっちゃってるんだけどねぇ」

時計を見ながらミサトが言った。

「ちょっと早いけど、何かお昼食べに行きましょうか。晩御飯の材料とかもないんでしょう? 帰りにどっか寄ったげるから、買い物もついでにしてけばいいわ。お店とか教えるわね。ええと、買い物は基本的にカードできるんだけど、一応お金下しておく?」
「はい」
「じゃあ銀行も寄ってと。行こっか?」

ミサトの車はまだ応急処置のままだった。レイはちょっと不安を感じたが問題なく動き出す。
ファミレスに行って昼食を摂った後、ミサトはいろいろと連れまわした。これを買うときはここ、あれを買うときはそこ、ここの店は何がおいしくて、あそこの店は何が便利だ、とあれこれ教えてくれた。どことなく、自分では何もしなくてもいいようなお店ばかりな気がする内容だったけれど、知らない街だし、教えてもらえること自体はありがたかった。

大体の用事が済むと、ミサトは"ちょっと寄りたい所がある"とレイを誘った。
車は高台のパーキングで止まる。展望台のようになっていて街全体を見下ろすことができた。時間は丁度夕暮れ時で、沈もうとする夕日の中の街並みは少し寂しげに映る。いずれは首都になると聞いていたけれど、思っていたより閑散とした印象を受けた。

「見てて」

ミサトが言う。サイレンが鳴りわたると、そこここにある空間に次々とビルが生えていった。手すりに手をかけてレイは、身を乗り出し気味にそれを見ていた。

「す、ごい・・・」

そんなレイの傍に立って、ミサトも同じように手すりに寄りかかる。

「戦闘時には地下へ避難させているの。これが本来の第三新東京市の姿。昨日はあなたのお陰で被害も少なくて済んだわ。ろくな説明もない状況で無理矢理戦わせちゃってごめんね。でもありがとう。乗ってくれて」

ミサトの言い方にレイは少し身構えるようにする。

「そんな風に言われるようなことは、してません」

覚えているのは一方的にやられた記憶だけで、気が付いたら終わってた。それをそんな風に言われてもレイはどう応えればいいのか分からない。
それに、あれにのるのは、恐い。

「もう、エヴァに乗るの、嫌? 叔父さんの所に帰りたい?」

聞かれて思わずミサトを見る。そしてレイは俯いた。

「正直、恐い、です」

そんなレイの反応を見て、ミサトはなるべく重い調子にならない様に言葉をつないだ。

「昨日も言ったと思うけど、あのエヴァを動かせるのは今の所あなたと、シンジ君、昨日の子だけど2人だけなの。で、シンジ君はまだしばらく動けないわ。
だけど使徒、昨日の怪物だけど、あれはあいつ1匹だけじゃなくてまだ次が来るというのがネルフの予想なの。
だからエヴァは必要なの。それを動かせる人もね。
だから、あなたには引き続きエヴァに乗って欲しい。それが私たちの希望なんだけど・・・」
「・・・」
「せめてシンジ君が治って、動けるようになるまではここにいてくれないかしら」

ずるい言い方だと、レイは思った。嫌だと言った所で丸め込まれるのが落ちだろうし、そうやって丸め込み続けて結局はずっとここにいるようにするのだろうと思う。
でも、拒否するなら今が最後だとも思った。

昨日の男の子。これからもあの子一人であんな風に傷つきながら戦うのだろうか? あんな怪我を私もするのだろうか? どうして私なのだろう。私じゃなきゃいけないんだろう。恐いし嫌だ。
でも今までだって思った通りに事が運んだ事はない。流されるままにただそこにいた。帰っても、ここにいてもそれは変らない気がする。
だったら、ここにいたほうが誰かの為にはなるんだろうか。少なくともあの子の為にはなるのだろうか。

もし今拒んだら。
以前の生活に戻るだけだ。ここであった事など忘れてしまえば良い。
でもどこかでそれを「嫌だ」と思っている自分を、レイは自覚する。何が嫌なのかなんてわからないのに、明確にある拒否。

それを自分への言い訳にするようにして、レイは小さく肯いた。

「・・・わかり、ました・・・」

「ありがとう」

ミサトは嬉しそうに笑った。
でもレイは握られた手を握り返すことはできなかった。

鳴らない、電話’

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