少女が一人電話をかけている。
受話器の向こうでは無機質な声が非常事態宣言とそれに伴う回線の不通を告げていた。

「無理ね・・・」

ここまで辿りついたことすら、本来なら有り得ない事なのかもしれない。
列車は途中から乗客がいなくなり、緊急停車で降ろされた駅もまた無人だった。音声によるアナウンスはなかったが、電光掲示板には非常事態宣言発令の文字が並ぶ。すでにこの駅を発つ列車はない。列車運行システムはそれほど人の手を必要としないが、ここまで無人ということは有り得ない。恐らくすでに皆退避したのだと思えた。
無人の改札を出て街へと足を向けたけれど、まったく人の気配がない。街並は駅周辺のみが新しく、少し離れるとかなり錆びれた印象があった。物音ひとつしない。
「非常事態宣言」が実際に発令された経験を、少女は持っていなかった。学校の訓練で言葉を聞き、どのように避難するかは何度か練習もしたが、学校外のこのような知らない土地で遭遇した場合にどうすればいいのか、判断ができない。とりあえず待ち合わせの相手に連絡を取ろうと手にした公衆電話はまったく役に立たなかった。
少女は小さくため息を吐く。
受話器を置いて荷物を持ち歩き出そうとふと上げた視線の先に、一瞬影が揺らぐ。

人、に見えた。
だがそれは一瞬の事で、流した視線を戻した時にはすでにそこに気配はなかった。走りぬけたとしても、有り得ない一瞬。
ほんの数秒、その光景を眺めていたけれど変化はなく、陽炎でも見間違えたのだろうと納得する。

とりあえず駅に戻ってシェルターを探そうと足を向けたとき、地面が揺れた。
しゃがみこんで周囲を見回す。ちょうど建物の間、街を取り囲む山が見える辺りに、軍用ヘリと思われる機体が何機もあるのが見えた。再度の地響きと共に、山の影から巨大な何かが現れた。
腕を振って歩いているように見えるそれは金属的な印象はなく、生き物のようであった。二足歩行をしているのか、規則的な地響きが少女の足元まで届く。
驚きに動けないでいると、ヘリが何発もの砲撃を放ちはじめる。それはその生物に当たってはいるようだが足止めする事も出来ていない。
ヘリ以外にもどこかから攻撃が加えられているらしく、何発かが目標からそれた場所に着弾する。建物は木端微塵になりそこに穴ができる。

少女は目の前の風景を理解できずにいた。こんな近くで、目の前で、「戦闘」が繰り広げられるなどと事前に想像することではない。何が起きているのかわからないわけではなかったが、それを受けとめて行動する、ということができずにただ呆然とする。
その時、目の前に車が飛びこみ急停車する。

「乗って!」

運転席にはサングラスをした女性が座っていて、助手席のドアを開けると大声を出した。先ほどまではとても静かだったはずなのに、今は怒鳴るくらいの声でなければ通じない。
ほんの一瞬、少女は止まって、すぐに発ちあがると車に飛びこむ。しっかりシートに座り切る前に車は反転、発進した。後方では変わらず爆煙が上がっている。奇妙な生物のようなものが、その巨体からは信じられない動きで宙に浮き着地する。その衝撃で激しく揺さぶられながらもスピードを落とさずに車は街の外を目指して走る。

「ごめんねぇ。ここにいるって連絡は入ってたんだけど、なにぶん”非常事態”じゃない?
避難してるかなとも思ったんだけど、取りあえず来て良かったわ」

視線を前に向けたままで、でも口調はくだけて女が言う。ようやく相手をゆっくり見ることができた少女は、それが待ち合わせの相手だと気づく。

「あの、何が起きているんですか?」

非常事態宣言が出た理由すらわからない少女には、まったく現状把握ができない。目の前のこの人なら何か情報を持っているはずだと聞いてみる。

「ん? 説明は後でいい? 取りあえず安全圏まで逃げて、それから詳しく話しましょう」

どのくらい走っただろうか。街からは完全に出てしまい、辺りには家らしいものがない。高速道路ではないが、街を繋ぐ幹線道路と思われた。高さの低い山があり辛うじてその向こうで起こっている状況を見ることができる。そこに車を止めると持ち主は双眼鏡を取り出して様子の観察をはじめる。
少女は説明を欲したが、聞けるような雰囲気ではなかった。
座席を下げて邪魔にならないようにしながら、自分も様子を見る。上空に集まっていたヘリが散開していく。

「まさか!」

疑問を口にしながらも女は迷わずに少女を座席に押し付け防御体制を取る。

「捕まってて!」

押しつけられ足元しか見えない状況の中、それでもわかる光と劈く音。しばらくして車がガタガタいったと思ったらすぐに体がぐちゃぐちゃになった。何が起きたのかわからない。ただ座席にしがみ付いていないと飛ばされそうだった。

どのくらの時間かわからない。それでも身体を振り回す力は消えてふと力が抜ける。耳がおかしい。まだ揺れているようにも感じる。動こうとすると止められる。

「もう少しこのままでいて」

かなり無理な体勢だったので、少しでも体をずらして楽になりたかったが、大人しく言葉に従う。妙に熱い空気が車内に満ちていた。
パラパラと落ちてくるかけらが止み、それからもう数十秒経ってから漸く女は体を起した。大きく息をついて見ると、体の下に窓があった。見まわすとハンドルが頭上に見える。

「上から出ましょ」

女の助けを借りて少女は上の窓から外へ出た。座席を足場にして上体を窓の外に出して車を見下ろす。
車は横転しており、周囲は一面砂というか土が表出している。少し熱い風が、山の方から吹いてくるが、それほど強くはない。道がない、と思ってから遠くにそれらしい影を見つけ、随分飛ばされたのだと理解した。

「大丈夫そうね」

地面に立って服を叩きながら女が言う。少女は自分の体を見下ろす。制服は破れてはいないが擦れて出来た汚れが目立つ。腕には少し痣ができていた。この分では明日にはものすごいことになるだろうと少しげんなりする。しかしそれは女も同じで、膝に血が滲んでいた。

「砂が入りこんで気持ち悪いですけど」

ぼそりと答えた少女に笑みを返す。

「口にも入ったわ。
さて、と。じゃぁ車何とかして、行きましょう」

女二人と非力ではあったが、なんとか車を戻すことに成功する。
エンジンがかかるのか不安だったけれど、女の応急処置が的確だったのか、車はなんとか動きだした。
前に比べれば振動が大きくなってはいたが、途中で止まるような気配はない。

「ごめんねいきなりこんなで。本当はもう少しちゃんと案内する予定だったんだけどね」

女は窓に腕を乗せ、どこか優雅とも言える運転ぶりで言う。

「そう言えばまだ名前言ってなかったわね。私は葛城ミサトと言います。あなたのお父さんの下で働いてるんだけど、よろしくね、綾波レイさん」

少女は「綾波」と呼ばれて少し戸惑った。未だにその名前には違和感がある。しかしそれはミサトの知るところではないし、個人的な問題だ。だから小さく頷いて
「こちらこそ」
とだけ返した。

もう何年も会っていない父親から手紙が来たのが1週間前。
それにはどこかのIDカードと、日付と時間と場所と「来い」とだけ書かれた紙が入っていた。
最初はただ会うだけの事なのだろうと思っていたのだけれど、世話になっている叔父さんにも連絡があったらしく、引っ越し、という形になった。
今更呼び寄せてどうするつもりなのか。
聞きたいとは思ったが、相変らず父親に直接連絡を取ることはできなかった。そのくせ準備はどこか強引な手続きで進められ、転入先まですでに決定した状態でその日を向かえることになった。
前日に連絡をいれた時も直接父親と話すことはできず、父の部下と言う人が迎えに行くと伝えられた。
レイは迎えの人の名前だけを確認して電話を切った。

・・・どこかで親子として暮らせるのだろうかという甘い期待はあった。
それがただの期待にしか過ぎない事はこれまでの数年でわかりすぎるくらいにわかっていたはずなのに、だ。

車は距離を走りトンネルに入る。その先は普通の道路ではなくなり、そのままゲートをくぐって停車する。タイヤを固定する音と同時に後方でゲートが閉じる。アナウンスが流れて灯りがつく。ガタンと揺れて車は横へと動き始める。車両輸送用のカートなのか、固定台だけが連なっているのがわかる。

「ふう。取りあえず一息ね。あ、そうだ。司令、っとお父さんからカード貰ってない?」

ハンドルに持たれかかってため息をついたミサトが視線だけを寄越して言う。それにレイは「はい」と応じ、カバンの中の手紙に手を伸ばす。
掴んで、一瞬迷ったけれどそのまま手紙ごとミサトに渡す。手紙は破れをテープで止めてある。見た瞬間にカッと来て破った跡だ。けれどミサトはまったく頓着せずに受け取りカードを確認する。

「うん、貸してもらうわね。じゃ、これ渡しとくわ。一応読んどいてね」

そういってシートの下からファイルを取り出してレイに渡す。封緘がしてあり「極秘」とあった。表紙には大きく「ようこそネルフ江」とある。
この「江」ってなんだろうと思いながら封を外す。中はネルフの施設案内や業務についてかかれた、一種のパンフレットのようだった。物々しい写真や仰々しい漢字が並ぶ。

「あの、これは?」
「お父さんから聞いてない?」
「来いとだけ」
「ああ、そうなんだ。弱ったわね。私から言えってことなのかな? う〜ん」

背もたれに伸びをするように持たれかかってミサトは天井を見る。

「これからお父さんの所に行くし、できればお父さんに直接聞いてもらったほうがいいと思うんだけど」

僅かに曇ったレイの表情をミサトがどう捕らえたのかはわからないが、そのまま冗談めいた陽気さで続ける。

「だーいじょうぶ。取って食うようなことはしないから」

それに返す言葉をレイは見つけることができなかった。車内に沈黙が下りる。
ふいに辺りが明るくなる。目の前には広大な空間が広がっていた。地下であるはずなのに外と同じに明るい。地面には森があり、天井部分には釣り下がるように建物がぶら下がっている。
レイが言葉もなく眺めているとミサトが言う。

「これがジオフロントよ。あそこに見えるのがネルフ本部。私たちの職場。これから向かう所よ」
「父がいるんですね」
「そうよ」
「・・・世界を救う仕事・・・」
「何?」
「叔父が、父の仕事をそう言っていたので」
「世界を救うねぇ。ま、間違ってはいないかな」

そう言ってミサトは少し自嘲ぎみに笑った。

カートから降り施設内に入ってから結構な時間が過ぎていた。けれど二人は未だ通路の上だった。

「っかしーなぁ、このルートのはずなんだけど。ごめんね。私もまだここ不慣れなんだ」

ミサトの言葉にレイは心の中でため息を吐いた。
”あとはこのエレベーターで着くわ”と言われて乗った箱の中で、レイは渡されたファイルを読む。文字は読めるけれど、理解できない。専門用語ばかりで何を意味しているのかわからない言葉が多すぎた。ただ軍事的な用語らしい程度の当たりはついた。
ポンと音を立ててエレベーターが止まる。ドアが開いて入ってきたのは白衣の女性だった。

「迎えに来たわよ、葛城二佐。この時間がない時に、何やってるの?」

ミサトに視線を向けたまま、ずいっと寄るとそう言った。一歩引き下がったミサトは笑いながら片手を出して謝る。

「あはは。ごめん。ここ通路分かりにくいんだもの」
「そう作ってあるのよ。で、この子が綾波レイね」

小さく息を吐いてそう言うと、その女性はチラとレイを見る。あまり気持ちの良い視線ではなかった。

「そう。途中、N2地雷の爆風にやられちゃってこの有り様よ」
「それはご愁傷様」

そうして白衣の女性はレイに向き直ると

「E計画担当責任者の赤木リツコよ。よろしくね」

そういって口の端を上げた。

そのまま二人はリツコに案内されて歩いた。ミサトが”あとはこのエレベーターだけ”と言ったのはやはり間違いだったようで、それからかなり歩いた。レイは初めての場所で目的地も何もわからないまま、不安な気持ちで取りあえず後を付いて行った。二人はレイを無視するような形で話をしている。

「結局、N2地雷も無駄だったんでしょ?」
「当然でしょ」
「で、どうするの?」
「司令はエヴァを起動させるつもりみたい」
「初号機を? だってシンジ君はダメだったでしょう?」
「ええ。今はまた病室よ」
「じゃあ、どうするの?」
「あなたの想像通り、ってところね」
「・・・乗せるの?」
「他に方法がある?」
「でも」

ミサトがレイを見る。その視線で自分の事を言っているのだとわかったけれど、それが何を意味するのかがわからない。自分の知らない自分の話をされていると思うと落ち着かなかった。結局、今起こっている事の詳細も、聞かされてはいない。

「この子、何も聞いてないのよ?」
「そうなの? でも大した事じゃないでしょう。これから聞けばいいことよ」
「そうかもしれないけど、でもまったくの素人なのに・・・」

そう言っているうちにどこか広い空間に付く。一旦ドアが閉まると真っ暗になった。
カシャンと音を立てて明かりが点く。
目の前には巨大な、顔のようなモノがあった。レイが一歩下がる。

「これ・・・ロボット・・・?」
「いいえ。ロボットではないわ。汎用人型決戦兵器、人造人間エヴァンゲリオン。エヴァよ。これはその初号機。私たちの持つ"切り札"」

リツコが説明する。
”エヴァ”
”初号機”
その単語はさっきの二人の会話に出てきたものだ。だから自分が何をさせられるのか、予想するのは簡単だった。

「私が、これに乗るんですか?」
「そうだ、レイ。久しぶりだな」

答えは頭上から響いた。
見上げた先には父、ゲンドウが立っていた。

「あれを見たんだろう? 戦自の攻撃など金を無駄にするだけだ。お前に出撃してもらう」

レイが答える前にミサトが叫ぶ。

「ちょっと待って下さい! 何の訓練もなくいきなり戦闘なんて、無理です!」

しかしゲンドウは表情一つ変えない。

「君が指示すればいいことだろう、葛城二佐。パイロットはエヴァを動かせさえすればいい」
「ですが」

「無理よ・・・」

俯いてレイが言う。小さい声。けれどゲンドウには届いたようだった。

「やってみなければわかるまい。お前にはこれを動かせる可能性がある。だから呼んだのだ。予定が多少入れ替わっただけだ」
「何を言ってるの・・・あの、あんなのと戦う・・・? そんな恐い事、できるわけない」
「だが、お前しかいないのだ」
「・・・」
「強制はしない。嫌だと言うのなら用はない。帰れ」
「・・・」

レイは答えない。”わかった”と帰ってもいいはずだ、と思う。元々この父親にとって自分は不要な存在なのだと思ってはいた。だからこんな無茶をいうのなら、こっちが見限ってもいいはずだった。それでもはっきりと「用はない」と言われてしまうとショックだった。そんなことを言われるために呼ばれたのだろうか。どうしてそんなことを言うのだろうか。レイの中で感情が渦巻く。
ミサトが近寄ってきて言う。

「どうしても、嫌?
無理な事を言っているのはわかってるわ。私ができる事なら自分でやるわ。
でも、私じゃだめなの」

その会話を冷たく見下ろしながらゲンドウはモニターに告げる。

「冬月、シンジを寄越せ」
「しかし、」
「仕方あるまい。死んでいるわけでもないしな」
「わかった」

ミサトは言葉を続ける。

「このエヴァはね、乗れる人間が限られているの。私たちじゃ動かせないのよ。
今、これを動かせるのは、あなたともう一人しかいないの。だから、あなたを呼んだの。これに乗ってもらう為に。
本当はこんないきなり本番なんかじゃなくて、ちゃんと訓練してって手順を踏む予定だった。でも今はそんなことを言ってられない。
だからお願いするわ。エヴァに乗って欲しいの」
「もう一人、いるんなら・・・」
「ええ、でも今は無理なの」

その時、反対側のドアが開いてストレッチャーが入ってきた。数人の白衣の人が付いている。リツコがそちらへと向かう。

台の上には少年が横たわっていた。
白い包帯がその頭と腕、胸の辺りに見える。不思議な服を着ており、露出しているのは腕から先だけだったから、その服の下にはまだ包帯があるのかもしれなかった。レイの位置からははっきりと確認できなかったが、向こう側の腕はギプスで固定されていた。
間違いなく少年のはずだが、その体の線の細さが、まるで少女のような儚さを漂わせている。
たぶん、熱もあるのだろう。うっすらと汗が光りを弾いていたし、その頬は少し赤く染まっていた。喘ぐように荒い息を繰り返し、その吐き出す息もかなりの熱を持っていると思えた。

付き添っていた白衣の男がリツコに告げる。

「赤木博士。取りあえずスーツも着せましたし、動けるように処置はしてありますが、無理ですよ。先ほどの出血だってまだ、」
「それでも仕方ないわ。とりあえずコアユニットの交換準備を急いで」
「・・・はい」

男が命令を伝えながら走っていく。
少年はゆっくりと体を起こそうとした。リツコ達が手を貸すが、動くたびに痛むのか、顔を顰めて息を詰める。台の上に座るだけでもかなり厳しそうだ。一旦動きを止めて呼吸を整えている。腕で体を支える事すら辛そうだった。
そちらを見ながらミサトは言った。

「もう一人は、あの子よ」

レイは目を見張る。

「乗せるんですか?」
「あなたが乗らないのなら、そうなるわ」
「でもあんな、」
「それでも、彼しかいないもの」

その時、床が強く揺れた。立っていられなくてレイだけでなくリツコやミサトも転ぶように倒れる。
少年を乗せていたストレッチャーはバランスを崩し、その体は床へと叩きつけられる。

揺れが収まるとリツコ達が少年を抱え起こす。遠目でも血が滲んでいるのがわかった。
痛みを堪える声が響く。奥歯をかみ締め、時折浅く呼吸をして必死に耐えているのがわかった。それでも我慢できるはずもなく、時折走るのであろう激痛に痙攣するように体を強張らせる。
ミサトは起き上がったレイの肩を押して少年に近づく。

「あなたが乗らないというのなら、仕方ないわ。このままシェルターへ連れていってあげる。
でも、そうしたらこの子が乗る事になるわ」

ミサトは、それが卑怯な手段だと言う事を十分にわかっていた。
わかった上で、そう言った。
事実でもある。
レイか、この少年、シンジしか乗れないのだ。この状態のシンジを見せて脅してでもレイを乗せたかった。
こんな状態のシンジを乗せたくなかった。
レイは小さく頭を振る。

「でも・・・」

乗る、とは言えなかった。目の前で見た戦闘の様子や、あの爆風の記憶が、あまりにも生々し過ぎた。
そんなレイを見て、リツコに支えられた少年が苦しい息の下で薄く微笑む。

「・・・だい、じょうぶ、だよ・・・僕が、乗る・・・から・・・」

切れ切れの言葉。無理矢理の笑顔。
リツコが指示を出す。

「プラグの用意、急いで。時間掛けられないわ」

少年は腕をつき上体を起して立とうとした。必死に痛みを堪え顔を歪めて。
それを見てレイは

「私が乗る」

と言ってしまった。
本当はどこかで意地でも嫌だと思っていたけれど、でもやっぱりこんな傷だらけの子に無理はさせられなかった。
少年がレイを見る。痛みと熱で潤んだ目。その目は驚いているように見えた。
その視線を受けてレイは改めて

「私が乗るから。だから休んで」

と言った。

「ありがとう、こっちへ。準備しなきゃ」

ミサトは撤回する暇を与えないとでもいうように、すぐにレイを引っ張っていく。シンジを病室へ帰すように告げると、リツコもミサトの後を追う。
少年は連れて行かれるレイの後ろ姿をしばらく眺めていたが、そのままぐらりと上体を崩して気を失った。

まず連れていかれたのは更衣室だった。そこでレイは変な服を渡される。さっきの少年が着ていたのと同じデザインの、布ではない材質の”スーツ”。

「エヴァを動かしやすくする為の服よ。サイズには問題ないはずだから、あなたのじゃないけど、これを着て」

簡単に着かたを聞く。頭のどこかでもう後悔し始めてはいたけれど、引き返せないのもわかっていた。半ば自棄のようにレイは服を脱ぐ。
着替えているレイに向かってリツコは簡単な説明をする。

「エヴァは操縦、という感じじゃないの。
実際に乗ってもらったほうがわかりやすいとは思うんだけど、あなたの体の一部になるような感じなの。
あなた自身が体を動かすようにエヴァを動かすのよ」

取りあえず肯いておいた。理解することなど不可能だった。ついていくのに必死で、自分の気持を抑えるのに必死で、余裕のないまま引きずられる。途中途中でリツコが説明を入れてはくれたが、それはレイの意識の表面を通り過ぎていくだけだった。

これが操縦席だと入れられた場所は、完全に周囲から切り離されており、先ほどまでのざわめきが聞こえない。人から切り離されると、恐怖が表に出てきた。
あの巨大な"何か"と"戦う"。
そう思うと逃げ出したくなった。必死に逃げ出そうとする自分を押さえこむ。ここまで来てしまった。出られないなどと考えれば尚更恐怖が来る。だから何も考えないように意識を散らす。そうしないと泣き喚いてしまいそうだった。
ミサトの声が聞こえる。

「じゃあ、始めるわよ」

それから色々な声が聞こえ始める。リツコやミサトの指示の意味はまるきりわからない。どこから聞こえているのかも良くわらかなかったけれど、人の声は恐怖を少し紛らわせてくれた。

「水が満ちるけど、大丈夫だから」

リツコの声がする。
足元からオレンジ色の水がすうっと昇ってきた。
あっという間にレイは水の中に囚われる。
必死に息を止めているのを見て

「その水は呼吸のできる水だから、息を止めないで」

リツコが言う。
レイは恐る恐る息を吐く。そして入ってきた水は、思ったほど苦しくはなかった。息をする毎に楽になっていく。
それからも訳の分からない言葉が聞こえてくる。
外の様子がまったくわからない状態だったが、何かの指示の後に中の様子が変化し始めた。
光が入り七色に変化したと思ったら、模様を描いた後に外が見えた。何がどうなっているのかわからない。まるで周囲がガラス張りなったかのようだ。
かなり高い位置に自分が居るのが判る。僅かに隅で動いている人はかなり小さい。色々なものが動いていくのに目を囚われる。

「いい? レイ。取りあえず地上に出すわ。あとは私の指示に従って。あなたは言われた通りに動けばいいのよ」

ミサトの声。レイは声が出せずにただ頷く。それでも特に注意はされない。
がくん、と軽い振動が起きて風景が動く。

「エヴァンゲリオン初号機、発進」

ミサトの指示の直後、ものすごいGがかかって、眼を開けていられなくなる。
目を閉じたまま我慢していたら、がくん、と衝撃が伝わり抑えつける力は消えた。
ゆっくり眼を開けると街並みが見えた。
外だ。

「レイ。歩くことだけを考えて。歩いてみて」

リツコの声にさっき言われた事を思い出す。

いつもみたいに歩く事を考える・・・

不思議な感覚がしてエヴァが1歩を踏みだした。

「よし、いけるわ」

ミサトが拳を握ったとき、レイの目の前には、先ほどとは違い目の高さにある巨大な”それ”が姿をあらわしていた。距離はまだあったが、その手がエヴァに向かって伸ばされる。

「レイ、横に逃げて! 動きを考えるだけでいいから!」

ミサトの指示に返事をするよりも早く、エヴァはその巨体を動かした。しかし間に合わず、光が初号機を直撃して吹き飛ばされる。
今まで経験したことのない強い痛みとと衝撃にレイはただ呆然とした。何をされたのかも理解できず、動けないでいる初号機に”それ”は近寄り、頭と手を掴むと力いっぱい引っ張る。
その瞬間、首から腕までに走った痛みにレイは悲鳴を上げる。

「きゃああああああ!!」
「レイ!」

まるで自分の腕が握られ引き伸ばされているような痛み。その痛みにパニックを起こしてレイの思考は混乱する。

「レイ! あなたの腕じゃないのよ!!
なんとかしてよ、リツコ。こんなんじゃ攻めるどころか防戦すらできないわよ」

言われるまでもなくリツコは指示を出している。がレイの状況は変わらない。

ビキッ!

嫌な音がしてエヴァの左腕が奇妙に延びた。

「あ、ああぁぁっ!!!」

自分の腕が千切れた、とレイは思った。かなづちで殴られ続けているような激しい痛みが左腕を襲う。

「左腕、損傷!!」

状況は逐次モニターされるものの、発令所からできることがない。一方的な状況に、ミサトはパイロットであるレイの保護に腐心する。
なんとか反撃のチャンスを、と思うものの、実際にエヴァを動かすパイロットがそれどころではない。
使徒はそのまま頭部を鷲掴みにすると、手のひらから光る槍のようなものを突き出した。それを2撃3撃と続けて行く。
レイはその衝撃を自分のこめかみの辺りに感じていた。鋭いけれど鈍く広がる痛み。表面だけでなく鼻の奥、深いところへもじわじわと広がって行く。思わず両手で顔を押さえる。千切れた、と思った腕を動かせていることなど気づける余裕はない。

「頭蓋前部に亀裂発生!」

レイの見る視界にも亀裂が走る。
何度目かの衝撃で初号機はとうとう頭部を貫かれて後方へ吹き飛ばされる。そのままビルにぶつかるとガクリと体を崩した。

「初号機、活動停止」
「パイロットは?」
「モニターできません。状況は不明です」
「回収するわ! パイロットの保護を再優先。プラグの緊急射出」
「ダメです。完全に制御不能です」
「何ですって!」

その時、初号機の目に光りが宿った。

「!!
初号機、活動再開します!」
「レイなの?」
「わかりません。モニターは変わらず」
「動けるはずが、」

初号機がゆっくりと顔を上げる。そのまま立ち上がると咆哮する。

「まさか・・・」

リツコがつぶやく。
そのまま膝を曲げ、初号機は敵へと飛び掛かった。胸部に着地すると重みで敵が反り返る。その敵を蹴りつけて再度跳躍。アスファルトを抉りながら着地する。

「リツコ、あの子なの?」
「まさか! こんな動き、できる訳ないわ」
「じゃあ・・・暴走・・・?」

振り向くと、エヴァは右腕一本で襲い掛かる。敵の寸前でその右腕が光に弾かれた。伸ばした腕は光の膜のようなものに遮られて届かない。そこには奇妙な光彩を放つ壁が存在した。

「ATフィールド!」
「これじゃ近づけない」

ミサト達はもう見守るより術がない。ただ呆然とモニターを見続けた。
その後方でゲンドウと冬月だけが冷静だった。

「勝ったな」

冬月の言葉はゲンドウにしか聞こえなかった。

「初号機もATフィールドを展開! 敵、フィールドを中和していきます!」
「いえこれは、むしろ侵食というべきだわ」

初号機はその光の幕を引き裂こうと指をこじ入れる。千切れかけていた左腕を一瞬で戻すと両手を使ってじわじわと破っていく。

「左腕、回復!」
「・・・信じられない」

そのまま引き裂くように膜を破り、敵本体へと躍り掛かる。
敵が光学兵器のような光の束をぶつけるが、それも初号機の勢いを殺すことはできなかった。上体を逸らせてうまくその衝撃を避けた初号機が敵の腕を掴み引き千切る。そのままその胴を蹴りつけると、敵は腕を失い、ビルを巻きこみながら後方へと吹っ飛んだ。
初号機はそれを追いかけると、その体に乗り上げる。敵の体の骨のような部分を引き千切ると、狂ったように胸部の赤い玉を殴りつけた。
何度も何度も振り下ろされて赤玉に罅が走る。
その瞬間、断末魔のような奇声を発し、敵は初号機に抱きつくと、形態を変化させ、自身で初号機を包むように丸く球状になる。
そして強烈な光と轟音。
自爆だった。

モニターが白く焼け、衝撃が来る。
しばらく何も見えなかった。

「・・・エヴァは・・・?」

爆発の名残で燃える建物が映り、その中から影が向かってきた。

初号機だった。

そのシルエットにミサトは戦慄を覚える。それはミサトだけではないようだった。その光景を見ていたネルフの職員の殆どが、驚きだけでなく、恐怖を持ってその光景を見る。

「あれがエヴァの・・・本当の、姿?」

ゲンドウだけがそれを満足げに見ていたが、それに気づく者はいない。

炎の中から現れたエヴァは、その熱から離れた場所で動きを止めた。まるで先ほどの戦いはなかったかのように、活動を停止する。
モニターが回復し、中のパイロット、レイが生きていることがまず確認された。
プラグの強制射出信号も今度は受けつけてLCLの排出もできたが、回収位置から外れていたため、実際にパイロットが収容されたのはしばらくしてからだった。

レイは意識を失っており、そのまま救護班によって病院へと運ばれる。外傷もなく、心拍や脳波にも異常は見られなかったが、油断はできない。

いち早く衝撃から立ち直ったミサトがマニュアルに沿ってその後の指示を出して行くと、所員達も少しずつ普段の状態を取り戻していった。
戦闘が終われば活動が終わり、というわけではない。むしろリツコなどはこれからが大事な役目だった。
初号機本体の回収は翌日となり、ミサトやリツコは休む間もなく事後処理や調査の為に、指示を出して行く。

部下達が、少しずつ活動を再開していく様子を見ていた冬月とゲンドウは、ミサトに後を任せて発令所を立ち去る。

ネルフにとって初の、敵・使徒との戦闘はこうして終わり、「実際」を経験した所員達は改めて今後への意識を新たにせざるを得なかった。

見知らぬ、天井’

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