揺れる水面に光が踊っている。湖畔は蝉の声がうるさく、日差しは色を奪って全てを白く見せている。
そこに少年−シンジが立っていた。
汗が幾筋も流れ滴り、影は濃く表情はわからない。
水面から突き出た電柱から何かが外れて落ちる。妙に大きな水音。鏡のように映った空に広がる波紋。
アナウンスだけが響く、人気のない空間。
ネルフに付属する病院の一室でアスカが眠っている。
「ミサトさんも、綾波も、怖いんだ」
その傍らに立つシンジ。消えそうな声でつぶやくように。
「助けて……
助けてよ、アスカ……」
規則正しい寝息と機械音。ただ眠っているだけのように見えるのに。
「ねえ、起きてよ……
ねえ……目を覚ましてよ」
体を揺する。強く。強く。
「ねえ、アスカ、アスカ、アスカ!」
ベッドが揺れて点滴が音を立てる。それでも、何の反応もない。ぴくりともしない。
「助けて」
「助けてよ。助けてよ。助けてよ。助けてよ。助けてよ。
また、いつものように、僕を馬鹿にしてよ」
涙がアスカの頬に落ちる。寝息は変わらない。
「ねえ!」
強く。その力で彼女の体はいくつかのコードを引き剥がして向きを変える。服がはだけて胸が見える。シーツが落ち、シンジははっとする。
静かな部屋で、変わらぬ機械音の中でシンジの息だけが粗く、早くなって行く。
「うっ!」
白い粘液で汚れた右手。
「最低だ。俺って」
第25話 Air
「本部施設の出入りが、全面禁止?」
人気のない第二発令所に伊吹の声が響く。
「第一種警戒態勢のままか」
日向の声も聞こえる。青葉と三人でお茶をしている。
「なぜ? 最後の使徒だったんでしょ? あの少年が」
「ああ、全ての使徒は消えたはずだ」
「今や平和になったってことじゃないのか?」
「じゃあここは? エヴァはどうなるの? 先輩も今いないのに」
「ネルフは、組織解体されると思う。俺達がどうなるのかは、見当もつかないな」
「補完計画の発動までは、自分達で粘るしかないのか」
エヴァンゲリオン零号機の自爆によって第三新東京市は消え、跡には大きな湖ができている。
その湖を見下ろすパーキングに青いルノーが停まっている。
中では葛城ミサトが一人、つぶやき混じりに湖を睨んでいる。
「出来損ないの群体として、すでに行き詰まった人類を、完全な単体としての生物へと人工進化させる補完計画。
まさに理想の世界ね。
その為に、まだ委員会は使うつもりなんだわ。アダムやネルフではなく、あのエヴァを。
……加持君の予想通りにね」
「約束の時が来た。
ロンギヌスの槍を失った今、リリスによる補完はできぬ。
唯一、リリスの分身たるエヴァ初号機による遂行を願うぞ」
「ゼーレのシナリオとは違いますが」
モノリスに囲まれてゲンドウが座っている。静かに反抗の意を示す。
「人は、エヴァを生み出す為にその存在があったのです!」
傍らに立つ冬月の語気はもう少し荒い。
「人は新たな世界へと進むべきなのです。そのためのエヴァシリーズです」
視線を上げることなく、変わらぬポーズでゲンドウは言いきる。
「我らは人の形を捨ててまで、エヴァという名の箱船に乗ることはない」
「これは通過儀式なのだ。閉塞した人類が、再生する為の」
「滅びの宿命は、新生の喜びでもある」
「神も人も、全ての生命が死を持って、やがて一つになるために」
モノリス達が代わる代わる言葉をつなぐ。
それに対し、ゲンドウが短く答えた。
「死は何も生みませんよ」
「死は、君たちに与えよう」
そう告げるとモノリスは消え、ゲンドウと冬月が光の中に残される。
「人は、生きて行こうとする所にその存在がある。
それが、みずからエヴァの中に残った彼女の願いだからな」
何かを確認するように、冬月は言う。
月明かりに照らされたレイがふいに目を覚ます。まるで何かに呼ばれたかのように。
窓からは青い光りが刺しこんでいる。月は丸く満ちて輝いている。
上体を起こすレイ。
扉の閉まる音が響く。
刺しこむ月の光の中に、砕かれた眼鏡が浮かぶ。
眠るでもなく横になっているシンジ。
テープを聞いているように見えるが、SDATは電池切れが表示され動いていない。
死んで行くようにじっとしている。
朝。靄のかかる湖面。外はまだ静かだ。
キーボードをたたく音が狭い通路に響いている。 ミサトが壁面のジャックからパソコンでデータを盗んでいた。
ある項目で手を止め、白い息を吐く。
「そう、これがセカンドインパクトの真意だったのね」
画面の隅で時刻が6時を示すと同時に警告音が鳴り、DELETEの文字が画面を走る。
「気づかれた!?」
うるさく空缶を蹴倒しながら銃を構えるミサト。
しかし人の来る気配はない。
「いえ、違うか。
……始まるわね」
ガシャン!! と音を立てて機械が止まった。
第二発令所では緊急事態が起きていた。冬月が指示を飛ばす。
「左は青の非常通信に切り替えろ。衛星を開いても構わん。そうだ。右の状況はどうだ?」
『外部との全ネット、情報回線が一方的に遮断されています』
「目的はマギか?」
受話器を置いてつぶやく冬月に青葉が告げる。
「全ての外部端末からデータ侵入! マギへの、ハッキングを目指しています!」
「やはりな、侵入者は松代のマギ2号か?」
「いえ、少なくともマギタイプ5。ドイツと中国、アメリカからの侵入が確認できます」
「ゼーレが総力を挙げているな。彼我兵力差は1:5。分が悪いぞ」
『第4防壁、突破されました』
日向たちが懸命に手を打つ。しかし適う様子はない。
「主、データベース閉鎖。
だめです! 侵攻をカットできません!」
「さらに開脚部侵入。予備回路も阻止不能です!」
「まずいな。マギの占拠は本部のそれと同義だからな」
どうする? ゲンドウを覗う冬月。
『総員、第一種警戒態勢。繰り返す。総員、第一種警戒態勢。可及的速やかに所定の位置に着いてください』
扉が開いて暗闇に光りが走る。男が立っている。
「わかってるわ。マギの自立防御でしょ」
うつむいている女、リツコが言う。彼女には非常事態を告げるアナウンスで全ての予想がついているようだった。
「はい。詳しくは第二発令所の伊吹二尉からどうぞ」
「必要となったら捨てた女でも利用する。エゴイストな、人ね……」
自嘲するようにつぶやくとゆっくりと立ち上がった。
警報の中、大きなストライドでミサトは発令所へと向かっていた。携帯で日向と連絡を取る。
「状況は?」
「おはようございます。先ほど、第二東京からA−801が出ました」
「801?」
「特務機関ネルフの特例による法的保護の破棄、及び指揮権の日本国政府への委譲。最後通告ですよ。ええ、そうです。現在、マギがハッキングを受けています。かなり押されています」
声が変わる。
「伊吹です。今赤木博士がプロテクトの作業に入りました」
その言葉が終わらないうちに警告音と共にエレベーターでミサトが現れる。呆然とした表情。
「リツコが?」
マギを構成する3系統の一つ、カスパーの中でリツコがボードを叩いている。
「私、バカな事してる? ロジックじゃないもんね、男と女は
そうでしょ? 母さん」
手を止め、慈しむようにカスパーを撫でる。
外ではミサトがコーヒー片手に様子を見守る。
「あとどれくらい?」
「間に合いそうです。さすが赤木博士。120ページクリア……」
日向の声を聞き流してミサトは考え込む。
“マギへの侵入だけ? そんな生易しい連中じゃないわ。多分……”
「マギは前哨戦に過ぎん。奴等の目的は、本部施設、及び残るエヴァ2体の直接占拠だな」
冬月、ゲンドウらも気づいている。
「ああ、リリス、そしてアダムさえ我らにある」
「老人達が焦るわけだ」
ハッキングで赤かった画面が青に変わる。伊吹が告げる。
「マギへのハッキングが停止しました」
『FREEZ,FREEZ,FREEZ,FREEZ,FREEZ…』
コンピューター音声が響く。
「Bダナン型防壁を展開。以後62時間は外部侵攻不能です」
仕事を終えたリツコがカスパーから出る。
「母さん。また後でね」
第三新東京市の消滅に伴い捨てられた道路標識。人気のない山間部の道路。草むらを走る影。戦略自衛隊に指令が降りる。
「始めよう。予定通りだ」
呼応して立ち上がる兵士達。戦闘ヘリが飛び、戦車が走る。砲撃が、確実にネルフの施設を破壊して行く。
発令所に状況が響く。
「やはり最後の敵は、同じ人間だったな」
誰に言うともなくつぶやく冬月。ゲンドウが命じる。
「総員、第一種戦闘配置」
「戦闘配置?!」
反応したのは伊吹だ。
「相手は使徒じゃないのに。同じ人間なのに」
俯き、つぶやく伊吹。
「向こうはそう思っちゃくれないさ」
日向がそっけなく答える。
閉じたゲートの内側で一人警戒しているネルフ特殊部隊員。響いてくる振動に不安げな表情だ。その背後に気配なく立った戦自の工作員はその口を塞ぐと背中にナイフを突き立てた。
うめき声をかすかにあげて力が抜けて行く。足元に滴る鮮血。
音を立ててゲートが開いて行く。
「おいどうした?おい!」
「何だ?」
「南の、ハブステーションです」
金属音と共にトラック前面に穴が開く。一瞬浮き上がり爆発する。
血溜りを広げる死体の側を戦略自衛隊が切れ目なく走り抜けていく。
侵入者の報告が発令塔に次々と入る。
「西館の部隊は陽動よ!
本命がエヴァの占拠なら、パイロットを狙うわ。至急シンジ君を初号機に待機させて」
ミサトが指示を出して行く。
「アスカは?」
「303、病室です」
映像で確認しながら青葉が答える。
「構わないから弐号機に乗せて」
「しかし、未だエヴァとのシンクロは回復していませんが」
ミサトの真意を量りかねて伊吹が問う。
「そこだと確実に消されるわ。匿うにはエヴァの中が最適なのよ」
「了解。
パイロットの投薬を中断。発進準備」
「アスカ収容後、エヴァ弐号機は地底湖に隠して。すぐに見つかるけど、ケイジよりましだわ。レイは?」
「所在不明です。位置を、確認できません」
本来ならありえない事だが、確かに画面はLOSTを表示している。
「……殺されるわよ。捕捉急いで!」
レイはLCLの中にいた。ネルフの地下空間。外の騒ぎを知らぬまま、レイは漂っている。
「弐号機、射出。8番ルートから水深70に固定されます」
日向の報告にミサトは次いで指示を出す。
「続いて初号機発進。ジオフロント内に配置して」
「駄目です。パイロットがまだ、」
青葉の制止の声が入る。モニターにはどこかの階段下に蹲っているシンジが映し出される。
「何てこと」
各隔壁が次々と閉鎖していく施設内。しかし爆破により破られて行く。
「地下第3防壁破壊。第2層に侵入されました」
「戦自、約1個師団の投入か。占拠は時間の問題だな」
他人事のように冬月が言う。ゲンドウが立ち上がる。
「冬月先生。後を頼みます」
「わかっている。ユイ君によろしくな」
冬月を残してゲンドウはどこかへ向かう。
爆発が広がる。銃撃が行なわれ、匍匐状態でバズーカを放つ戦自隊員。侵入したヘリに側溝からの奇襲を狙った部隊も、逆に銃器射撃を受ける。シャフトを炎が駆け下り、戦自の隊員が列を着いて次々と確実に侵入して行く。
『第2グループ、応答なし』
「52番のリニアレール、爆破されました」
「質悪いな。使徒のほうがよっぽどいいよ」
日向の愚痴を聞きながらミサトは思う。
”無理もないわ。みんな、人を殺す事に慣れてないもんね”
使徒迎撃を目的とするネルフでは戦略自衛隊と違い、人殺しの訓練はしていない。例え特殊部隊とはでも、実際に元ずく訓練や経験の差は歴然とした差として現れる。
死体を引きずるただの職員も銃撃され、無抵抗の者も関係なかった。壁の中を走るケーブルが切断され、火炎放射器による蹂躪が行われる。量産される死体。助けを呼ぶ間もなく、不通音を発している受話器。駆けて行く戦自隊員。
『第3層Bブロックに侵入者。防御できません』
「Fブロックからもです。メインバイパスを挟撃されました」
ミサトの手元の画面もALARTで赤く染まって行く。ミサトの手が震える。
「第3層まで破棄します。戦闘員は下がって。803区間までの、全通路とパイプにベークライトを注入」
「はいっ」
赤い液体が通路を、死体を沈めて行く。波が走り、水位が増していく。
『第703からベークライト注入開始。完了まであと30!』
「これで少しは持つでしょう」
一息おくミサトに日向が告げる。
「葛城三佐。ルート47が寸断され、グループ3が足止めを食っています。このままではシンジ君が!」
シンジはただ蹲り、何も見ていない。銃声が聞こえてはいるはずだが、無反応だ。
「非戦闘員の白兵戦闘は、極力避けて。向こうはプロよ。ドグマまで後退不可能なら、投降したほうがいいわ」
安全装置の解除、マガジンの確認、初弾の装填。慣れた手つきで銃を確認しながら指示を出すミサト。
「ごめん。あとよろしく」
小さく日向に告げる。
「以外と手間取るな」
「我々に、楽な仕事はありませんよ」
ミサトが行った発令所では日向たちが戦闘準備をしていた。引き出しから拳銃を取り出し、マシンガンを準備する。
「分が悪いよ。本格的な対人要撃システムは用意されてないからな、ここ」
愚痴る日向に青葉が答える。
「ま、せいぜいテロ止まりだな」
「戦自が本気を出したら、ここの施設なんて一たまりもないさ」
「今考えれば、侵入者迎撃の予算縮小って、これを見越しての事だったのかな」
「ありえる話だ」
納得した声で日向がつぶやいた時。
爆音と衝撃。立体モニターが点滅する。
左下層に戦自が侵入してきた。銃弾が日向をかすめる。
青葉がしゃがみこんでいる伊吹に拳銃を渡す。
「ロック外して!」
そして自分はマシンガンを構える。伊吹は手の中の銃を眺めて呆然と言う。
「……あたし……あたし鉄砲なんて撃てません」
「訓練で、何度もやってるだろ!」
「でも、その時は人なんていなかったんですよ!!」
伊吹が叫ぶ。近くで銃弾が跳ねた。
青葉が怒鳴る。
「バカッ! 撃たなきゃ死ぬぞっ」
THE END OF EVANGELION
EPISODE:25'
Love is destructive