熱海に行きたいと言い出したのはユイだった。
2人揃っての休みなど取ったことはない。私はほとんど休みなしだったし、ユイも休みを取りはするが、結局それ以上の時間を仕事に当てている。子供がいるのでどうしても家事などに割かれる時間はあるが、夜になればまたこちらに顔を出したりして往復が多い分、ユイの方が大変だろうと思っていた。
そのユイが家族で温泉に行きたいというのだ。正直言えばあまり乗り気はしなかったが、聞き入れないわけにはいかなかった。
宿の手配などはユイが手際良く進めてしまい、私は何もする必要がなかった。当日の準備も全て彼女が行い、私は車を運転するだけだった。

セカンドインパクトにより旧熱海は壊滅的な被害を受けた。市街地はほとんどが水没し、源泉も多くは海の底だ。
しかし新たな源泉を掘り当て、以前ほどとは言わないまでも新たな熱海として復興しつつあった。
ユイが予約した宿はかなり高級な部類に入るのだろう、女将の対応も丁寧で素晴らしく、仲居もしつけが行き届いた印象を受ける。子連れであるという点も考慮したのか、部屋に専用の露天風呂まであり海を眺めることが出来る。
この静岡も東京と同じく、新たに海となった場所にはビルの残骸などがそこここに見えている。だがこの部屋からの眺めはうまくそれが視界に入らないように工夫されており、小波をたたえる美しい海が見えるばかりであった。

「よく見つけたな」
「赤木博士や冬月先生にも協力していただいたのよ」

宿についてからシンジははしゃぎまわっている。仕方ないとは思うものの、子供の声は耳に障る。こんな所まで来て泣かせるのもと思い、叱るのは我慢していたが、不機嫌な顔をしているのは隠せない。ユイがシンジをおとなしくさせようと声をかける。
本音を言えば、子供、それもこれくらい小さい子ともなるとどう接したら良いのかわからない。こちらの言うことなど理解できないのだから、説明などしても無駄なのはわかっている。かといって無言で威圧すれば泣く。そうなると打つ手がない。だから私はほとんど育児と言うものに参加したことはなかった。幸いユイが病気になることもなかったため、私が面倒を見なくてもユイが全てをやってくれた。
普段はそれを何とも思わないのだが、時々ユイに対してすまないとも思うこともあった。今日もそうである。
温泉に行きたいと言い出したのはユイだ。普段あまり口にはしないが、家事労働や仕事で疲れてはいるのだろう。ましてやこれだけ立派な宿なのだ、のんびりもしたいだろう。久しぶりの休養でもあるのだ。
それを仏心というのかはわからないが、たまには私がシンジの面倒を見るのもいいかと思ったのだった。

「今日は私がシンジと風呂に入ろう」

そう言うとユイは驚いた顔で凝視する。

「……大丈夫なんですか?」
「何がだ」
「だって、あなた大きくなってからのシンジなんてお風呂に入れたことないでしょう?」
「もう膝に抱いて頭を洗わなければいけないこともないだろう」
「それはそうですけど」
「たまには良いだろう」
「嬉しいけど……心配だわ」
「少しくらい泣かせてしまっても問題あるまい。どうせ内風呂だ」
「そうですか? じゃあお言葉に甘えます」
「館内の散策でもしてきたらどうだ? 庭が綺麗だったぞ」
「そうですね。そうします」

それからユイが風呂の準備をした。それでは意味がないようにも思ったが、着替えなどはユイがバックに詰めたのだから私ではすぐに散らかしてしまうだろうと思い黙っていた。

「シンジ、風呂に入るぞ」

そういうとシンジは一瞬きょとんとした。赤ん坊だったころには何度か風呂にも入れたが、さすがに覚えてはいまい。

「おとうさんと?」

未だ呂律の廻りきらない口調でたずねる。

「シンちゃん。今日はお父さんが一緒にお風呂に入ってくれるんだって。よかったねー。ほら、いってらっしゃい」

ユイがそういうとこくりとうなずいて私のズボンの裾をつまんだ。

「じゃあ、よろしくお願いします」

自分の子供のことをそんな風に言われるのは問題ではないだろうかと思ったが口にはしなかった。
ユイのしつけが良いのだろう、シンジはもたつきながらも自分で服を脱ぐ。綺麗にとはいかないがそれなりにたたみもした。
私が脱ぎ終わるのを待ち、一緒に露天へと出る。

「わぁ〜」

シンジが感嘆の声を上げる。岩でできた湯船の向こうには丈の低い竹垣があり、その向こうは夕陽を反射する海が横たわっていた。

「すごいねぇおとうさん」

笑いかけるシンジに少しだけ顔を緩めて返事をする。走って竹垣へ向かおうとするシンジはよたよたと転びそうだ。

「転ぶぞ。走らなくても逃げないのだからゆっくり行け」
「はーい」

竹垣によじ登らんばかりにしがみ付いて海を眺めているシンジを横目に、自分はさっさと湯船につかる。いくら常夏とは言え、海風は少し肌寒かった。飽きないものかと思うほどに眺めていたシンジも「くしゅん」と小さくくしゃみをする。

「風邪をひく。さっさと湯に入れ」

そういうと素直にこちらに来てうんしょと声をかけながら後ろ向きに湯船へと足を伸ばす。
さすがに落ちるだろうと思い手を伸ばして抱え上げ、湯船の中へとどっぷり付けた。

私が何も言わずに体を伸ばして湯船に浸かっているからか、シンジは黙って側にいた。声をかけようにも何を言えばいいのかわからない。そのうちに黙っているのに飽きたのか、もぞもぞとし始める。
おもちゃでもあれば良かったか、などと思ったが、持ってきているのならユイがちゃんと渡してくれたはずだし、この露天にはおもちゃになりそうなものは見当たらなかった。
まあいいだろうと私はしばらく無視を決め込むことにした。

湯船に浸かっていれば海風もちょうど心地よいくらいの温度だ。
こんな風に身も心も休めるようなことはほとんどない。そうしたいとも思わなかったが、こうして湯に浸かっていればそれなりに気も緩む。自分も所詮は日本人なのだろう、などと考えながら体を緩めきっていた。

ぼこり

余りにも気を抜きすぎていたらしい。思わず出してしまったそれは大きな泡となって水面で弾けた。

「おとうさんくさい」

実際に臭かったのかはわからないが、シンジは顔を歪めながらもどこか嬉しそうにそれを指摘した。内心憮然としながらも素直に認めて謝るなどという気はさらさらない。

「何を言っている、違うぞ」

普通の顔でそう言うと手に持っていたタオルを湯船に広げて落す。
湯のなかで両端を絞るように持つと、濡れたタオルは中に上手く空気を含んでくれる。それを水中に沈めて握りつぶす。
ぼこ
と音を立てて泡が立った。
それを見たシンジは大喜びして「ぼくもする」と言い出した。
目の前でもう一度同じように泡を立て、タオルをシンジに渡す。だがやはりそこは子供だ。なかなか上手く行かない。
水面にタオルを落とす時と沈める時にコツがあるといえばあるのだが、シンジにも出来るように説明などできなかった。
シンジにねだられるまま何度も同じコトを繰り返し、シンジも何度もチャレンジしたが上手くは行かなかった.。
そのうちにシンジの顔が真っ赤になっていることに気付く。興奮しているのかもしれないが、のぼせた可能性のほうが高そうだった。

「顔が赤い。いい加減に上がれ」

不満を声にはしたが、シンジは素直に従う。湯船を出ようと石段に手を起き片足をよいしょと上げる。見るからに怪しいバランスで確実にひっくりかえると思ったので抱き上げて石の上に立たせた。
洗い場は屋内になる。一瞬考えたが、シンジを先に洗うことにする。
椅子に座らせて桶で頭からお湯をかける。そうしてもしゃもしゃと髪を洗う。

「めにはいる」

などと泣き言を零したが、しっかり手で目を押さえていろといってそのまま続けた。
シャワーもあるのだがなんとなく桶で湯をかけるほうが面白く、何度かざばざばと湯をかける。

「よし」

そういうとぷるぷると頭を振って、濡れた髪から水を飛ばす。その仕草を少しはかわいいと思うが、水をかけられる身としては嬉しくはない。
シンジに時間をかけていると自分が湯冷めすると思い、体は自分で洗わせることにした。タオルに石鹸を擦りつけ泡立てるとそのまま渡す。

「背中は洗ってやる。あとは自分でするんだ」

そういうと神妙な顔をして受け取りごしごしと体に擦りつけ始めた。その様子をしばらく見、なんとかいけそうだなと判断すると、自分の髪を洗う。
流し終えてふとシンジを見ると、こっちをじっと見ていた。なんだ? と思ったが、そう言えば背中は洗うと言ったな、と思い出す。

「背中か?」

問うとこくりと頷いた。手に持っていたタオルを取り、向こうを向かせるとその小さな背中を洗ってやる。余りにも小さくてすぐに終わる。湯をかけて洗い流してやると、湯に浸かっているように言い渡す。

「おそとにでててもいい?」

そう聞くので走りまわらないよう言い聞かせて露天に出した。その隙に自分の体を洗う。
大したコトをしているわけでもないが、子供と一緒というだけで妙に疲れる。これを毎日しているのかと思うと今更ながらユイに頭が下がった。これからも時々はこうして交代してやるべきか、などと考えてしまう。
体を洗い終え露天を覗くとシンジが湯船の中で顔をぐしゃぐしゃにしていた。小さくケホケホと言っている。

「水を飲んだのか」

聞くがシンジは頭を振った。怒られるとでも思っているだろうが、髪もびしょ濡れでどう見ても湯船に全身を浸けたとしか思えない。

「怒らないから正直に言え」

そう言うと小さく「ころんだ」と答えた。「ケガはしなかったのか」聞きながらシンジを抱き上げる。膝や手のひらなどにはケガらしいケガはなかった。シンジも首を振る。

「そうか。なら上がるぞ」

こくんと頷いたシンジを洗い場に入れ、もう一度頭から湯をかける。2、3度かけて自分も上がり湯をかけると風呂を出た。
シンジにバスタオルをすっぽりとかぶせ包んでいるとユイが顔を覗かせた。

「シンちゃん、こっちいらっしゃい。シンジは私が着替えさせますから、あなたはゆっくりしてらして」

そういうとシンジの着替えを持ってタオルに包まったシンジを抱えて出ていった。
どこかでホッと安堵の息を吐き、私はゆっくりと体を拭き始める。

浴衣を来て部屋に戻るとすでに夕食の準備がされていた。予想通りに豪華だ。
シンジもすでに子供用の浴衣に着替えている。ユイだけが来た時のままの服装だった。

「先に風呂に入ってくるといい」

私はそう言ったが、ユイは後でいいとそのまま食卓につくように告げた。

「ゆっくりできました?」
「ああ」

ビールを注ぎながらユイは笑顔だ。

「君こそゆっくりできたのか? 思ったよりも早かったようだが」
「あら、30分は散歩してましたよ。あなたお風呂早いほうだから、早めに戻ってきたつもりだったんですけど」
「そうか?」
「子供なんて慣れてないから時間がかかったんでしょう?」
「それほどかかった気はしなかったんだが」

シンジはユイに圧し掛かったりしながら少しずつ口を動かしている。見たこともないような料理と母親が側にいることで興奮しているようだった。
ちらりほらりと言葉を交わしながら私達は食事をした。時々ビールを注ぎ合い、料理の感想などを口にする。
あらかた平らげた頃になると、シンジは少し眠そうにしだした。いつもよりは早い時間だが疲れたのだろう。

「あらあら。ちゃんとお布団に行きましょうね」

そう言って立ちあがろうとするユイを止め、シンジを抱き上げる。嫌々をするように頭をこすり付けてきたが、そのまま抱え上げ、襖を足で開ける。行儀が悪いというユイの声は無視した。襖の向こうにはすでに布団が敷かれていた。
出てきた私が襖を閉めようとするとユイは「そのまま開けておいて」という。

「真っ暗にしちゃうとシンジ、泣いちゃうから」
「暗いところが怖いのか?」
「っていうより、目が覚めた時に誰もいないのが嫌みたい。保育園でも時々泣いてるって聞いてるし」

情けないとも思ったが、私にそれをいう資格はないだろう。
ユイがビールを差し出す。

「今日はお疲れ様でした」
「ん?」
「シンジをお風呂に入れてくれて。大変だったでしょう?」
「君がいつもやっていることだ」
「そうですけどね」

ユイにできて自分にできないわけがない、とは思わない。到底ユイには敵わないのだ。それでも時々なら、と思う。ユイのフォローがあれば、まぁ何とか父親らしいこともできるのではないか、などと甘いことを考える。
実際にそれを実行できるかはわからないが、ビールをぐびりとやりながら、そのうちに一度チャレンジしてみようと思う。

「君も早く入ってくるといい。もう日は沈んでしまったが、夜景の海も綺麗だろう」
「ええ。もう少し休んだらゆっくりと入らせてもらいます」

その後しばらく晩酌を楽しみ、ユイは風呂へと向かう。
一人部屋に残されると何をしていいのかわからず、手持ち無沙汰に欠伸がでる。テレビをつけてみたりもしたが、面白いものはやっていない。元々こういうものに興味はない。
適度に酔いも廻っていて、そのうちにすうっと意識がなくなった。

「あなた」

ユイの声で目を覚ます。卓に伏せて眠っていたらしい。まだ少し頭がはっきりしないまま「ああ」などと適当に答える。

「風邪ひいちゃうわよ? あなたを背負って連れてくなんてできないんだから、自分でお布団まで行ってくださいね」
「ああ」

霞みの掛かった頭でそれでもふらふらと隣へ向かう。覚束ない足取りをユイが支えてくれる。

「ああほら、シンジを踏まないで」

ぼすんと布団に倒れ込むとそのまますぐに眠り込んだ。
その後、布団を掛けてくれたユイに、

「また、三人で来よう……」

などと言ったらしいが、それは覚えていなかった。

翌日。短い休暇は終わり宿を後にする。
土産は? と問うと、とっくに選んで送りました、と返る。どうもまとめて宅配便で先に送ったらしい。本当に手際の良いことだ。
笑いながら「観光して帰りましょう」というユイに、彼女が思っていたような休暇になったのか、少しだけ不安になる。
しかしユイのことだ。聞けば満足したと答えるだろう。

次はユイが言い出す前に連れてこなければな、と思いながら車を走らせた。

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