「僕もね、ヴァイオリンを習っていたんだ」
そうカヲル君が言うのを聞いて、僕は不意に思い出す。
「・・・そう言えば、僕も最初はヴァイオリンを習う予定だったんだ」
「そうなの?どうしてチェロに?」
「よく覚えてないけど、何となく、かな?」
「そう。でもシンジ君にはチェロが合ってると思う」
「・・・ありがとう」
ありがとうって言うのも変だけどな、と思いながら返事した。
先生が何か習い事でもするといいと言って僕を連れていったのは、いろんな楽器を教えているところだった。先生は定番なところでピアノかヴァイオリンを考えていたみたいで、そこで見せられたのはその二つの教室だった。僕は別にどっちでも良いと思っていたから、先生が決めたほうをするつもりでいた。特に音楽がしたかったわけじゃない。男だし、ピアノはちょっと嫌かなあ、くらいのことしか頭には無かった。
それが聞こえてきたのは偶然だった。たまたまチェロの教室で人の出入りがあって、中で弾いている音が漏れただけだ。でも、僕はその一瞬でその音が気に入ってしまう。低い囁くような響き。柔らかくてさっき聞いたヴァイオリンよりも優しい感じがした。
「あの部屋は?」
「ああ、あれはチェロだよ。ヴァイオリンとかに比べたら知名度も低いし、習ってる人も少ないけど」
「ちぇろ?」
先生がそこの人とヴァイオリンにしようかとほぼ決めていた時だったけど、僕は
「僕、あれがいい」
はっきりとそう言って、チェロの教室を指していた。先生はびっくりした顔をして僕をしばらく眺めていた。今までこんな風にはっきりと自分の意見を言ったことはなかったはずだし、それも当然だろうけど。
「あれって、チェロ、のことかい?」
「うん、そう」
「しかし・・・ヴァイオリンのほうがよくないか?」
「でも、僕、あれがいいよ」
どうしてかは良く覚えてないし、今でも正直わからない。でも僕はチェロの音にとても惹かれていた。どうしてもこの音を出してみたかった。それは多分初めての執着。この後も、こんな風に何かを譲れなかったことはなかったはずだ。
先生がそれをどう思ったのかは知らない。びっくりしてたことだけは表情からわかったけど、それ以外の感情は僕には読めなかった。しばらく考えて、先生は
「わかった」
とだけ言った。そしてチェロの教室への手続きと、楽器の購入の手続きをしてくれた。
「自分で決めたんだから、何があっても続けるんだぞ。途中で投げ出したら駄目なんだからな」
そう言われて僕は素直に肯いた。
「誰も、止めろって言わなかったから」
アスカにはそんな風に言ったけど、結構僕はチェロを弾くことは好きだったんだ。ただどうしても、先生が言う様にや、自分が思う様には弾けなくて、だから習うのはあまり好きじゃなかった。僕はただチェロの音を聞きながら弾いていることが好きだった。チェロの音が好きだったから続けてたんだなと、今更思った。
「今度一緒に弾いてみないかい?」
カヲル君に言われてハッとする。
「シンジ君?」
「あ、ごめん。ちょっと思い出してたんだ、昔のこと。
そうだね。僕もカヲル君と合わせてみたい」
僕がそう言うとカヲル君はにっこりととてもきれいに笑った。
「じゃあ、曲はシンジ君が考えておいてね。シンジ君の好きな曲がいいな」
「うん、わかったよ」
「約束だね」
そう言って小指を差し出す。僕も指を絡めて、ゆびきりをした。
結局、この約束は果たされることはなかった。この時、カヲル君がどういうつもりで「約束」をしたのかは僕にはわからない。僕はその約束を何も考えずに受け取っていたけれど、カヲル君はそれが無駄になることを知っていたはずなのに。
自分から差し出した小指。約束。
思い出すと胸が痛い。カヲル君は、何がしたかったんだろう?
果たされない約束の言葉だけが、僕の中で消えない。
そう言えば、カヲル君の声は、チェロに似ていたかもしれない。僕が一目ぼれしたその音に。
だから、しばらくチェロは弾けない。
約束が果たされるまで、チェロは弾けない。