アスカ
泳げもしない癖に海辺に家を借りた理由を、結局シンジは話してくれなかった。
・・・別にいいんだけど。
落ち込んで(そんな言葉じゃ本当は足りなかったけど)見てられなかったのが、それでもなんとか毎日を暮らしていっているようだから。
何度か遊びに行ったけど、あいつは全然変わらない。
見た目も、中身も。
時々頭に来るくらい、翳むように笑うのも。
そんなシンジを見るのは、嫌だと思うけれど。
「遊びに来たわよ」
ドアをノックして、返事だけで開きもしないから自分で開けて、中には入らないで言う。
そしたらやっとディスプレイから顔を上げてこっちを見るの。
嫌がってる訳じゃない、と思う。
でも喜んでもいない。
あたしが独りで来ても、ファーストやヒカリ達と来てもそれはおんなじ。
「・・・いらっしゃい」
「相変わらず覇気がない声ね。もう少しおなかに力入れて話したら?」
「でも聞こえるだろ?」
「ここじゃ波や風の音で聞こえないわよ。
はい、おみやげ。バカふたりからよ」
「相変わらずだね」
苦笑するような表情でもちょっと安心しちゃうのが悔しい。
でもわざときつい言い方をするのも、ここでのあたしの癖みたいなもの。
「あんたこそ。少しは外に出てるの? 真っ白じゃない。海辺に住んでるなんて思えないわ。もう少し焼いたら?」
「別に、そういうつもりでここに住んでるんじゃないから・・・」
「じゃあどういうつもりよ」
「・・・・・・アスカには言わない・・・」
「誰になら言うの」
人の問いが聞こえなかったみたいに奥に消える背中に、なんか投げつけたくなって。
でもそんなことしても何も喋ってくれないってわかってるから、大きくため息をついて椅子に座る。
本当に何もない部屋。何度来ても、何かが増えていることなんてない。
仕事で使うパソコンと、チェロくらいしかない。
チェロももう、どんなにせがんでも弾いてくれやしないし。
かちゃかちゃと音をさせてお茶とお菓子を持って来てくれる。
相変わらずこういうところはあたしよりも上手で、シンジのお茶はその辺のお店なんかより全然おいしい。
もうすぐ夏だからって半袖のワンピを着てきたらちょっと寒かったから、温かいお茶はすごくほっとした。
何処見てるのかわかんない目でカップを口に運んでるのを見ていると怒鳴りたくなる。
”どんなに引きずったってもうどうしようもないのに!!!”
何度言ったかしれない。でもシンジには届かなかった。
あたし達が何をどれだけ言っても、駄目だった。
しばらく気持ちを落ち着けてゆっくり口を開く。
「司令が、ってもう司令じゃないんだけど、入院した、ってファーストから聞いた?」
「うん。電話くれた」
「お見舞いに行く気は、ないんだ」
「・・・・・・・」
表情一つ変えないで黙り込む。
なんであたしがこんなことを頼まれなきゃいけないのって心の中でファーストに文句を言う。
ここに来たらこういう思いをするってもう嫌になるくらいわかってるはずなのに、
それでもやっぱり気になって来ちゃうのはあたしだけじゃない。
顔を合わせると最後には誰かが必ずシンジのことを口にする。
ひとりじゃ行けないけど心配で。
”誰か行ってない?一緒に行かない?”
シンジの気持ちを引っ張り上げることができないってわかってるのに。
馬鹿みたいって思ったらすごく腹が立つのに。
みんな思ってる。放っておいたらしんじゃってるんじゃないかって。
だから。
本当は顔を見るもの嫌だし、声を聞くのも嫌なんだけど、あたしはここに来る。
安心できる日なんてこないって、どこかでわかっているけど。
リツコ
控えめなノックが聞こえた。だけどシンジはいつものように顔を上げなかった。
次は少し強めのノック。そして声。
「シンジ君? いるんでしょう?」
リツコだった。
今リツコはゲンドウと暮らしている。籍を入れたりといったことはしていないので「同棲」になるのだろうか。
時々、こうしてシンジの様子を見に来る。
たぶん、ゲンドウの代わりに、というつもりなのだとシンジは思っている。
このまま無視すれば、彼女は帰る。以前、そうしたこともある。
だけど今日はなんとなく出てみる気になった。
ゆっくりと立ち上がってドアへと向かう。
「お久しぶり」
「お久しぶりです」
シンジは中へとは言わない。ここを尋ねる人は皆それを知っている。入りたい者は勝手に入ればいいのだ。
けれど、リツコはいつも玄関から先へは入ろうとしない。「どうぞ」と言えば入ってくるのかもしれないが、シンジは言わない。
微笑むリツコを見ると、やっぱり少し印象が変わったと思う。昔はどこか冷たい人だと感じたリツコも、今はただの女の人だ。
ゲンドウを好きなようだということだけが理解できないが。
「今日は、お父さんのことで来たのよ」
「父ですか」
「先日倒れて、今入院しているの。1ヶ月くらいは入院になる予定」
「それで」
「それだけよ。でもそうね、もしよかったら一度お見舞に行ってあげてくれないかしら」
そう行ってリツコは微かに笑う。
シンジはまったく表情を変えずに立っている。
リツコには、恐らくというよりは確信として、シンジが行くとは言わないとわかっている。
それでも声をかけに来たのは、ゲンドウが寂しそうに見えたからだ。
老けこんだ印象の強いゲンドウを、リツコはそれでも支えているけれど、自分だけでは足りないこともわかっている。レイが時々訪ねてくれるが、それを喜んでいる表情の中に、どこか寂しさを見てしまうのは、自分の感傷だろうか。
でもたぶん、ゲンドウはシンジに会いたいのだ。自分から会いに行くとは言えないけれど。
だからここに来る時はいつも、シンジが来てくれたら、と僅かな願いをどこかに持っている.。
「すみません。僕はここを離れる気はないんです」
予想どおりの、いつもと同じ答え。わかっていたことだ。なのにどこかで落胆する自分を、リツコは少し笑った。
「いいのよ。あなたは好きにしていいの。お父さんもそう言っていたでしょう。
これは私のお節介だから。気にしないで」
一応ね、と言ってリツコはゲンドウの入院先を書いたメモを渡す。
シンジはリツコの目の前でそれをくしゃりと握ることはしなかった。でもきっと、見もしないで捨てるだろう。
じゃあ、と言って背を向けたときに、ふとリツコは口にした。
「やっぱり許せない?お父さんの事」
シンジは答えない。答える必要はない。
リツコも答えを待つでもなく、すぐにそのまま歩いて行った。
しばらくだけ、シンジはその後姿を見送る。
許せないわけではないと、シンジは思う。ただここを離れるつもりがないだけだ。
許すとか許さないとかでなく、もうあまり興味がない。ゲンドウにも、現実にも。
あの頃あんなに気にしていたのが嘘のようだと自分でも思う。
でも、本当はまだ許していないのだろうか。
ドアを閉めてシンジは、もう弾かなくなったチェロの弦をそっと撫でた。
レイ
その日訪ねてきたのは綾波だった。
最近は何か手土産を持ってくる。ケーキだったり花だったり、小物だったり。
以前シンジが聞いたら「人を訪ねる時はそうするものだって言われたの」と言っていた。誰にとは聞かなかったけれど。
今日は味に定評のある店のチーズケーキだった。
シンジが紅茶を入れる。
綾波は相変わらず言葉が少ない。
会話らしい会話はないけれど、特に苦痛にもならない静かな時間が流れる。
しばらくしてカップを置くと、お代わりを、とでも言うように
「指令が入院したわ」
と綾波が言った。シンジはなんとなく「やっぱり」と思う。
「悪いんだ」
そう聞くと綾波はほんの少しだけ顔を曇らせて
「ええ」
と答えた。
「そう」
「碇君は、お見舞いに行かないの」
「ここを離れる気はないんだ」
「でも」
綾波にしては珍しく食い下がるように
「お父さんなのに」
そう言った。
父親だから。それがなんだというのだろう。
でもそんなことを綾波に言う必要は感じられなくて、シンジは
「綾波はお見舞いに行ってくれてるんだろう」
と笑った。
「でも私は碇君じゃない」
曇らせた顔のままで答える綾波に、彼女にはそういう顔をさせたくないなと思う。少し前まで顔を見るのも辛かったのに。
そう思う自分を不思議に感じながらシンジは
「僕はこの間会ってるから、いいんだ」
と返した。
「いつ?」
「2週間くらい前」
「・・・・・・そう」
俯いた綾波の顔は無表情に見えてでも、やっぱりどこか曇ったままで。
「ごめんね」
「どうして謝るの」
「綾波が泣きそうな顔をしているから」
綾波やリツコ以外の面々は、今ほとんどゲンドウと接触は持っていないはずだった。綾波にとっては、ゲンドウはやはりどこか特別なんだろうと思う。
「父さんが心配?」
「いいえ、碇君よ」
その答えにシンジは少し驚く。
「僕? じゃ、なおさら謝らなきゃ」
「別にいいわ」
言いきる綾波の表情は硬いままで。ここではいつもそんな顔をさせているような気がして、シンジは少しだけ優しく笑う。
「僕は、綾波に心配してもらえるような、そんな資格はないんだよ。だから僕のことは気にしないで」
その言葉に綾波の目から一筋涙がこぼれる。
「綾波。泣かないで。君が泣くようなことはないんだ」
ふるふると頭を振る綾波。シンジはそれでも綾波に触れようとはしなかった。
ゲンドウ
あまり聞きなれないノックの音にドアを開けるとゲンドウが立っていた。遠く路上に止まっている車にはリツコと思われる姿が見える。
最後に会ったのがいつだったかすらもう覚えていないが、ゲンドウは頬がこけ、ずいぶんと痩せていた。
立っているのも辛そうに見えたが、やはりシンジは中へとは誘わない。
「久しぶりだな」
「そうだね」
「元気そうだ」
「うん、僕はね。父さんはずいぶん痩せたね」
「そうか? もうすることもなくなったからな」
「リツコさんと暮らしてるんだろ」
「・・・・・・彼女には迷惑ばかりかけている」
「今日は?」
「近くまで来たので顔を見によっただけだ。直ぐに行く」
「そう」
「・・・・・・お前は、いつまでここにいるつもりだ?」
「さぁ? いつまでかな。わからないよ」
「そうか。お前はそれで後悔はしないんだな?」
「父さんはしてるの?」
「後悔はしていない。だが、もう疲れたな」
「・・・・・・」
「今更だが何かあったら連絡するといい。まだ少しくらいは力になれることもあるだろう」
「うん」
「ではな」
「うん」
少し足を引き摺るようにしてゲンドウが歩いていく。砂の上はなおのこと歩きにくいようで数度よろける。しかしシンジはただ戸口から見ていた。
リツコがゲンドウに近寄り手を貸す。ちらりとシンジを見て、僅かに頭を下げる。
シンジはただそれを見ている。
”お前は、いつまでここにいるつもりだ?”
自分がしていることは、あの時の父親と同じことなのかもしれない。
ふとそんな考えがシンジの頭をよぎった。
シンジ
訪れてくれる人達が、まるで夢のようだ。
何を話したかもわからなくなることが増えた。
夜になると月明かりに白く輝く水面を眺めている。
遠く、水平線は静かで、波の音もさざめく程度。
きれいなきれいな風景。
それ以外の音はしない。それ以外の何も見えない。
自分から望んで一人でいるのに。
望めば、皆そばにいてくれるだろうと思うのに。
一人でいるのが辛くてたまらなくなるときがある。
絶望のような孤独に、誰かの手を、誰でもいい誰かを、望みそうになる。
特にこんな夜は。
一人は嫌だと思う。
こんな夜は、獣の様に叫んで、何もかも壊してしまいそうになる。
その日は遠く海の向こうで嵐が生まれていて、波は大きくうねり、風も陸地に体当たりするように吹き付けていた。
それでもシンジはいつもと同じように海を眺めていた。
声がした。
いつもと同じ声の様だった。
でもどこか違う様にも聞こえた。
だからシンジは外へ出る。
遠く山を作っては砕ける波の隙間に、
今まさに水から上がってきたように濡れそぼった髪、服。
姿が。
シンジは駆け出す。
海辺の家
久しぶりにアスカはシンジをたずねた。大した用があったわけではない。何となく顔が見たくなっただけだ。
ゲンドウの容態が思わしくないことを伝えて欲しいと、レイに頼まれてもいたから。
いつもの様にノックして返事を待たずにドアを開ける。
気配は感じられなかった。
中に入って狭い部屋を探すけれど、シンジの姿はなかった。もう一度隅々まで、人間が入れそうにないところまで探して、外も探す。
探して探して、見つからなくて、アスカは動揺を隠すことも出来ずにレイに連絡する。
「シンジがいないの!」
アスカからの連絡はレイを通じてそれぞれに伝えられた。皆自分のできることは全部やってシンジを探した。
いろんな場所を、最悪な場合を想定した場所も。探して探して。
それでもシンジは見つからなかった。
何も見つからなかった。
アスカはとても怒った。
レイは静かに嘆いた。
数箇月後ゲンドウは他界し、リツコが葬式を出した。
シンジの暮らした家は、しばらくはレイが住んでいた。シンジがいたときのまま、きれいに全てを維持して。
そのうちにアスカがそれを止めさせた。
海辺の家はその後荒れ果て、いつまでも消えない傷のように痕だけが残った。
人称が少し気になっているのですが、読み辛かったらすみません。