母さんの田舎はずいぶん山奥にあった。
僕が生まれる前からずっと、母さんは家に帰ったことがない。
それは、駆け落ちも同然の結婚だったからと聞いてはいたけれど、母さんはあまり生まれ育った村が好きではないようだった。
おばあちゃんの具合が良くないと言う理由で、この春休みに初めて里帰りをすることになった。
本道を脇にそれて山に入ってからもうずいぶん走っているけれど、人里の気配はない。
「ずいぶん山奥なんだね」
僕がそういうと母さんは少し暗い顔で笑って
「そうね」
とだけ言った。
「ついたわよ、カヲル」
そういわれてはっと起きる。寝てしまっていたらしい。
車を降りてみると、田舎特有の大きな家がそこにあった。
倉と納屋と周囲には大きな木々があって、街中の小さなマンション暮らしの僕には、なんだかものすごい家に見えた。
出迎えてくれたのは、おばあちゃんだった。
「よくきたねえ」
小さくてなんだか弱々しくて、僕らの荷物を持とうとしてくれたけれど、そんなことをしたら倒れてしまいそうだった。
僕らは居間にとりあえず案内されて、母さんは
「部屋、前のところでいいんでしょ?」
って言って奥に消える。僕らはちょっと居心地悪い感じで、正座なんかしちゃって畏まっていた。
おばあちゃんがお茶とお菓子を出してくれて、そんなに畏まらなくてもいいのよ、言って座った。
居間には一応テレビもあったんだけど、おばあちゃんはあんまり見ないみたいで消してある。
話すこともなくて、しんとしてしまう。
父さんがおもむろにおばあちゃんに向き直って
「長い間挨拶にも伺わなくて、すみませんでした」
と頭を下げた。
「いえいえ、いいんですよ。元はといえば、おじいちゃんが頑固なのが原因ですからねえ。
あの人も本当に、いい加減認めてしまえばいいのに」
父さんたちの結婚の時になにがあったのか、僕は詳しく聞いたことはない。
でもこういう雰囲気からしても、問題があったことはよくわかる。
「今日は、お義父さんは?」
「いますよ。意地を張ってでてこないんですよ。本当はうれしいくせにねえ。
気にしないでくださいな。そのうちに顔を見に来ますから」
それから僕の方を向いて
「カヲルちゃんだね。まあ、お父さんによく似て。あの子から写真は見せてもらってたけどねえ」
"ちゃん"なんて呼ばれてすごく恥ずかしかったけれど、おばあちゃんはとてもうれしそうに僕を見て言った。
そのうちに母さんが戻ってきて、おばあちゃんといろいろと話をした。
僕はテレビをつけてもらって、とりあえず眺めてた。
チャンネルの少なさにちょっと驚いて、これじゃあ見たい番組みれないなって思ったけど、なにも言わない。
しばらくして男の人が入ってきた。
「…お父さん」
母さんが言うのを聞いて、それがおじいちゃんだとわかる。
渋い顔で僕らを見て、なにも言わずに台所へと消えた。
「おじいちゃん、孫がきてるんだから、もうちょっと愛想良くしたらどうですか?
お茶がほしいんですか?ああ、もう、私が入れますよ」
追いかけてったおばあちゃんの声がする。でもおじいちゃんの声は聞こえなかった。
挨拶くらいはしたほうがいいんだろうけど、取り付くしまもない。
結局おじいちゃんは一言も口を利かず戻っていった。僕が不安そうにしてたら母さんが
「いいのよ、気にしないで。ああいう人なの。あんたに怒ってるんじゃないから大丈夫よ」
って言ってくれた。
夕食時は最悪だった。
居間にテーブルを出してみんなで食べたんだけど、おじいちゃんはむっすりとしていて一言も口を利かない。おばあちゃんはいろいろと気を使ってくれたけれどあんまり物を食べた気はしなかった。
暇だったから村を散歩する。
特にどこかと思っていたわけじゃないから。のんびりふらふらと歩いていた。
小さな村だから、簡単に1周できそうだった。
人とすれ違うことはそうなかったけれど、どの人もみんな、お年寄りも若い人も、僕を奇異の目で見た。
何か怖いものでも見るかのような。
確かに僕は目立つ。街にいても目立つ。
銀髪に赤い目。
父さんがハーフだし、その外見をもろに受け継いでいる。日本人よりは外人だろう。
でもここまであからさまな態度を取られることも珍しかった。
母さんと父さんの結婚に問題があったのは、きっとこういう部分もあるのだろう。
父さんがここにいたら、きっと村にはなじめない。そんな風な思いもあったんだと思う。
帰ったら母さんが心配そうな顔で「どうだった?」ってきく。
僕はとりあえず笑って、「なにもないよ」って答えたけれど、きっとだいたいのことは予想済みなんだろうなって思った。
家の前で、桜の花びらが肩に乗った。
でもこの家には桜はない。近所にも桜らしい木は見あたらない。
おばあちゃんに聞いたら、
「それはお山から飛んできてるんだよ」
と教えてくれた。
「お山ってどこらへん?」
「花のある当たりはここからは見えないけどね。小さな谷みたいになってるんだよ。
ずいぶん遠いし道もあまり良くないから、行かないほうがいいよ」
そのおばあちゃんの表情は、初めて見る類の、渋いと言うか暗いもので、僕はちょっと引っ掛かりを覚える。
でも正直、ここの生活は暇だったから、僕は翌日、その桜の谷を探しに行った。
山の形を見て、谷が有りそうなところを選んで行ってみる。
日も暮れるかというくらいに、なんとなくそれらしい道を見つけた。
獣道というのだろうか、周囲より草が少ないから、多分道なのだろう、という感じの道だった。
その日は谷へ行くのをあきらめて帰ることにした。
「どこ行ってたの、1日中。暇ならおばあちゃんを手伝って畑にでも出てちょうだい」
そんな小言は流して、僕は明日のことを考えていた。
その日の夕食では、母さんとおばあちゃんはおじいちゃんを無視して女同士で親子の会話をしていた。
おじいちゃんはそれが面白くないようだったけれど、僕はそれでも会話のある食卓でずぶんとほっとした。
翌日、朝早くから母さんに見つからない様にこっそりと家を抜け出して山へ向かう。
昨日の道を歩いていった。
どのくらい歩いただろうか、それでも30分くらいだと思う(時計を忘れていたから)
思っていたよりはひどくない道だった。
峠を越えて、下りに入ったころから、花びらがそこここに落ちていた。
大きく曲がった道の先にそれはあった。
人工的なのか、自然なのか僕にはわからなかったけれど、そのあたりだけ桜しかなかった。
まだ小さいと思うものから、大きなものまで1面桜桜で埋まっていた。
「うわ、」
僕はその桜の庭を歩く。
そう広そうではなかった。それでも何本あるんだろう。
そう思いながら歩いていると、ぽかっと空間があいて、そこに一本の枝垂桜が立っていた。
それだけが枝垂れで、後は普通の桜だった。
その枝垂桜はかなり背が高く、てっぺんから綺麗にピンクの袖を降ろしていた。
その見事さに僕はぽかんと口を開けて見上げる。
僕の知っている枝垂桜は細い。
花を付けている枝も細くて、綺麗だけど迫力に欠けるというか、特に地面の近くでは花も少なくなってさみしかった。
でもこれは、枝が折れないのだろうかと心配になるくらいに花をたくさん付けていて、それは枝先まで変わらず、木の幹が見えないくらいだった。
「す、ごい…」
そう感嘆を漏らしたとき。
「だれ?」
声がして、僕はまさか人がいるなんて思ってなかったからとても驚いて、びくりと体を震わせてしまう。
声は木の根本から聞こえた。
よく見ると、白い浴衣のような着物を着た男の子が木の側に立っていた。
黒い髪に黒い瞳。小さい頭は丸くてなんとなく撫でたくなるような感じだった。
僕が声を出せずにいるとその子はまた口を開いた。
「君はだれ?雪の精なの?」
落ち着いたどこか心地よい声。その声で僕はなんだか安心してしまって。
「違うよ。君こそ、その桜の子供じゃないの?」
と返した。
「僕は遊びに来ただけだよ。ここが好きなんだ」
「すごい桜だものね。君は村の子?」
「ううん。山に住んでるの」
「山に?」
「そう。ここの桜があんまり綺麗だから、ここにいるんだよ」
「僕も桜を見に来たんだ。こんなに綺麗だとは思わなかった。すごく綺麗だね」
「そう思う?」
「うん、君もそう思うんだろう?」
「僕は綺麗だと思うけど、村の人はここには来ないから」
「みたいだね。僕もおばあちゃんには行かないほうが良いって言われたんだけど。
でもこんなに綺麗なのに、持ったいないと思うな」
「本当にそう思う?」
「うん。思うよ」
そういうとその子はすごく嬉しそうに、満面の笑みを浮かべた。
「嬉しい。ここの桜を綺麗だって言ってくれる人は久しぶりだよ。もうずっと、だれも来なかったから」
「ずっとっていつからのことさ。君は僕と歳も変わらない様に見えるけど」
「僕がここに来てからだよ。どれくらい前かは覚えてない」
僕はその言葉を、うんと幼いころからだと解釈した。
それからその木の根元に二人で座って少し話をした。
彼は名前をシンジと名乗った。名字は名乗らない。
なんだか話し方もちょっと変わっていたけど何か理由があるんだろうなと勝手に思って気にしなかった。
シンジ君によると、ここの桜はちょっと特殊で、花の時期が長いらしい。
普通は1週間もすれば散り始めるのに、花びらが舞い始めてもまだ盛りと咲きつづけるという。
「今はちょうど満開になったところくらいだよ。
これからこの満開のまんまで少しずつ花が散るから、満開の花と散る花びらが舞って、すっごくきれいなんだ」
頬を桜と同じ色に染めて、シンジ君は話してくれた。
本当に毎年ここに来るらしくて、どこの木がどんな枝振りで、どこの木が散り方が綺麗で、1番古い木はどれで、新しいのはどれでと良く知っている。
「シンジ君が世話してるの?」
「まさか、こんなの世話なんてできないよ。みんな勝手に咲いてるんだよ」
そんな風にしばらく話をしていたら、グウゥと僕のおなかが鳴った。
「もうお昼だよ、カヲル君。僕はまだ大丈夫だけど、お昼食べに帰ったら?」
と笑われてしまう。僕はちょっと顔を赤くして、お弁当を持ってくれば良かったと思った。
母さんに内緒で来たから、そこまではできなかった。
「シンジ君は明日もここに来るかい?」
「うん。いるよ。花のころはだいたい毎日ここにいるよ」
「じゃあ、僕もまた明日来るよ。今度はお弁当でも持ってくる。母さんにばれなかったらだけど」
「うん、じゃあ明日またね」
「うん。またね」
そう言って別れて僕は家に帰った。
家に着いたのはもう1時半も過ぎてたから、母さんにはひどくしかられてしまった。
「行き先も告げずにどこにでも行かないの。心配するでしょう」
「ごめんなさい」
本当に心配してたみたいだから僕は素直に頭を下げて、そしてお昼を食べると午後はおばあちゃんの手伝いをした。
もうおじいちゃんだけが蚊帳の外、と言った感じで、僕も父さんもおばあちゃんとはいっぱい話をして楽しく過ごした。
最初のころは黙ってすぐに部屋に行ってしまっていたおじいちゃんだったけれど、
少しずつ、やっぱり話しはしなかったけれど、居間に残ってお茶をすするようになっていった。
それから毎日谷へ行った。
桜を見にというのもあったけど、シンジ君に会いにというのも強かった。
この村に来てから、唯一僕に奇異の目をむけなかったというのもあるのかもしれない。
こっそりとおにぎりを作って、空いたペットボトルにお茶を入れて持って行く。
母さんには近所の散策と適当に言って。
シンジ君は学校には行ってないみたいで、僕の話が珍しいくて仕方ないらしい。
僕には何でもないような日常の話も、目を輝かせて聞いている。
僕はそんなシンジ君を見てるのが楽しくて、いろんな話をした。
こんなに話すことがあるんだろうかと思うくらいに僕は話をしていた。
僕だったらつまらないと思うようなことでもシンジ君は面白そうに聞くから、どんどん話しは続いていく。
あっという間に夕方になって、また明日って別れるのだ。
「一番最初に見たとき、カヲル君、そんなに真っ白だから、雪の精が桜を見に降りてきたのかと思ったよ」
「雪はもう解けてるだろう?」
「でも、この山のずっと向こうの山はまだ雪をかぶってるし、そこから来たのかと思ったんだ」
そんな話もしたりした。
四日目。別れ際のことだった。
「こんなに綺麗な桜だから、夜見たらもっと綺麗だろうね」
「駄目だよ」
「え?」
「夜ここに来ちゃだめだよ。止めておいたほうがいいよ」
「どうして?何かあるの?」
「…夜になると本当に灯かり一つないから、足元とか危ないし、暗くて桜なんかわかんないよ」
「そう、だね」
ちょっと釈然としなかったけれど、確かにここではライトアップも何もないだろうからと僕は納得した。
そして考える。村の人たちはどうしてここに来ないんだろう。
ちょっと灯かりを置くだけで、花見には持ってこいだし、観光名所にだってなるだろうに。
「村の人は夜桜とか見ないのかな?」
なんとなく言うとシンジ君は悲しそうな顔で
「この村じゃ、桜は縁起が悪いんだ」
と言った。
確かにぱっと咲いてぱっと散る桜は昔から武士道とかなんかとくっ付いてて、花の下で切腹なんてイメージもあるし、桜の下には死体が埋まってる、なんて言葉もある。
でも縁起が悪いっていうのはどうだろう?そう思って聞いたけれどシンジ君は答えてくれなかった。
そのまま、なんとなく気まずいまんまでその日は別れた。
家に帰ったら母さんが出迎えてくれた。
「毎日毎日どこにいってるの?カヲル。いいかげん母さん達にも教えて欲しいわ」
そう言って僕の肩に手を置いて家に入ろうとしたとき。
たまたまその日はフード付きの上着を着ていたから、フードの中に桜の花びらがたくさんあったみたいだった。
母さんはそれを見て真っ青になった。
「カヲル、あなたどこに行ってたの?この桜なに?」
僕の両肩をつかんで揺さぶるようにして聞く。僕はそんな母さんの様子にびっくりして、
「え?…あ、あの…や、山、だけど…?」
しどろもどろになってしまう。僕の「山」という言葉を聞いて母さんは息を呑んだ。
「山って、桜場に行ってたのね?ああ、なんてこと、もっと早く気づけば良かった…」
どういう事か分からずに僕はたずねた。
「母さん。桜場って、何かあるの?なんでそんなに…」
最後まで言わせずに母さんは
「もう行っちゃ駄目よ。山に入っちゃ駄目。もう二度と行かないでちょうだい」
と言った。その剣幕に押されながらも納得できなくて
「でも、どうしてさ。何も、」
「どうしてもよ。お願いだから母さんの言うことを聞いて。もう二度と山に行っちゃ駄目よ。
カヲル、約束して。もう行かないって」
すごく本気の目で、どこか泣きそうだったから僕は思わず
「うん」
と肯いていた。
それから母さんはまるで僕を見張るみたいに側にいる。
僕はいいかげん息苦しくてこっそり離れようとするんだけど、そうしたらなんだか狂ったみたいに僕のことを探すから、僕は離れられなくなってしまった。
父さんが、
「母さんはちょっと参ってるんだ。ここはあんまり良い思い出がないらしくてね。
だから心配掛けたら駄目だぞ」
と言って少し笑った。
そう言えば、母さん家ではよく笑っているけど、ほとんど外へは出ていない。
近くの畑に行くくらいで、後はほとんど家の中にいる。
それでも笑ってたから、僕は気づかなかった。
父さんが、あんまり気を張ってると良くないっていって母さんを休ませて、変わりに僕と近所を散歩したとき。
ぽつぽつと僕は桜とシンジ君の話をした。
すれ違う人たちはやっぱりすごい奇異の目で僕らを見た。
「ここはすごい田舎だろう。
閉鎖的でね、母さんはずっと外にあこがれてて、中学を卒業するとほとんど飛び出すように家を出たんだ。
でもそういうのは家だけでなくて近所中で噂にされてしまうんだ。
だからますます母さんは家に帰らなくなった。
まあ、他にもいろいろとあったらしいけど父さんも詳しくは聞いていない。
触れられたくなさそうだったから。
母さんはここにいるだけでもどこか辛いんだ。
そしてカヲルの行っていた所は、この村では曰くのあるところらしい。
母さんも、おばあちゃんも口を濁すだけだけど、だからこそこういう村らしい何かがあるんだろうね。
カヲルの気持ちがわからないわけじゃないけれど、母さんの気持ちも考えてみないか」
父さんが言う。
確かにこの村には僕らには想像もできない何かがあるんだろう。
あの桜の谷に対しても、きっと何かがあるんだろう。
それこそ小説か何かみたいな禁忌が。
そしてそれはいくら僕らが笑っても、深いところに根づいてどうしようもないものなんだと思う。
なんとなくだけどわかったから、僕は黙って肯いた。
それからは大人しく母さんとおばあちゃんの手伝いをしたりしていたから、母さんは安心したみたいで少しずつ笑ってくれるようになった。
でも僕は、夜毎に桜の夢を見た。
それは夜で、まるで燐光のようにぼんやりとほの明るい桜の下でシンジ君が佇んでいる夢だった。
それはまるで幽玄の夢のように僕を捕らえた。
シンジ君に会いたかった。
そして何より、あの桜たちの夜の姿が見たかった。
春休みももう終わる。僕らは街へ帰らなければいけない。
そう思うと僕はあの桜の谷へどうしても行かなければならないという焦りのようなものを感じてしまう。
帰る前に一度、一度だけでいい。もう一度あの桜を見たい。
シンジ君の言っていたことが本当なら、たぶんまだ桜は盛りの状態だろう。
花びらが舞ってとても綺麗だろう。
そう思うともうどうしようもなかった。
最後の夜。僕はライトを持ってこっそりと寝静まった家を抜け出した。
何度も転びかけて、何度も転んで、僕は谷についた。
そこは、夜で光もないはずなのに、ぼんやりと淡くうすい桜貝のような透明な、光、なのか靄、なのかわからないもので包まれていた。
静かな、枝が擦れる音さえしない空気がそこにあった。
美しかった。
僕が今まで見たどんな桜よりも、どんな風景よりも、どんなものよりも綺麗だった。
匂い立つような桜色の空気の中を僕は歩いた。シンジ君の桜を目指して。
桜の木々からあふれ出ているものがある、そんな濃厚な纏わりつく重い中を歩いた。
シンジ君の、枝垂桜が見えてきたころ、ざわ、と空気が騒いだ。
それまで、ただの一枚も零れていなかった花びらが、ざああっと舞い始める。
風はそんなに強くないようなのに、すべての花を散らすかのようにあたり一面をその小さな切れ端で埋めていく。
そして木々の側に白い人たちが立っていた。
この木にもあの木にも、向こうの木にも向こうの木にも。
白い着物、白い肌、白い白い人たち。
長い髪は黒く、口元は血のように赤かったけれど、僕には白い人にしか見えなかった。
気味が悪い白の。目鼻のない、のっぺら。
そして。
ひそりと笑うと、ひたひたと僕のもとへとやってきた。
僕は大気にとらわれて動けず、彼らが僕に手を伸ばすのを見るしかなかった。
何本もの手が、次から次から僕に纏わりつく。
頭から顔から、首から胸から、腕から足から。
白い白い手が僕の体にぺたりぺたりと絡み付いていく。
あらなんと美しい魂じゃ。ずいぶんと久しぶりよのう。光り輝いて目が痛いくらいじゃ
ほんにほんに綺麗なお子じゃ。長く待っておった甲斐がある
言葉が聞こえる。口から零れてはいない言葉。
それが僕の中も犯し始めて、手が僕の中までずぶりと入り込んでいるような感覚にとらわれる。
内臓を撫でられるような感じ。心の裏までを撫でられるような感じ。
気持ち悪い。気持ち悪い気持ち悪い!
のっぺらの一つが僕の頬に手を当てて迫る。
おまえ様のその光、私たちに下さいませ
「う、わああああああああああああああああああああああっ!!!!!」
絶叫しても体は動かない。それでも必死に何とか逃れようと暴れて叫びつづけた。
「わああああああ、うわあああああ、あああああああ!!!!」
助けを呼びつづける。もう頭はどうにかなってたのかもしれない。
口から出るのは狂ったような叫びだけだった。
「だめだよ、みんな。僕がいるのに」
ふいにしたのは僕の良く知ってる声だった。
のっぺらたちは、くん、と振り向く。
その向こうに立っていたのはシンジ君だった。
「僕だけじゃ足りない?でもだめだよ。僕で我慢してくれないと。
でないと僕、行っちゃうよ?」
のっぺらたちはそれを聞いてするっと僕から離れていく。
そして今度はシンジ君に群がっていった。
おまえ様が一番じゃ。おまえ様が一番うまい。おまえ様の方がおいしいよ
そういって白い人は、白い手はシンジ君を絡めとっていく。
ずぶりずぶりと手がシンジ君にのめり込んでいく。
たくさんの手を纏わりつかせながら、その手に侵されながら、それでもシンジ君は表情一つ変えなかった。
そして小さく笑って僕を見た。
“行って”
それはそう言っていた。
完全に放り出されていた僕は、それでもうまく力が入らなくてなかなか立ち上がれなかった。
何とか気力を振り絞って、自分の体を怒鳴りつけて立つ。
全身ががくがくと震えて、膝もすぐにがくりと崩れそうだったけれど、後ろを振り返ることはできないで僕は逃げた。
何度も躓いて何度も転んで、でも一息もつくことなく走りつづけて家まで逃げた。
途中から頭の中は「シンジ君」という単語でいっぱいだったけれど、僕は走りつづけた。
家に辿り着いたとき、玄関に人影が見えた。
おじいちゃんだった。
「カヲル?!」
驚いた表情で立っているおじいちゃんに飛びついて、その腕が暖かいと思ったとき、僕は気を失っていた。
結局僕はその後熱を出して寝込んでしまった。
熱は4、5日続いて、途中両親たちをひどく心配させるような状況にもなったけれど、それでも何とか回復に向かい始める。
意識が戻って少し話せるようになった僕に、だれも何も聞こうとはしなかった。
僕も、何も言わなかった。
仕事があるので父さんは一度街に戻った。
母さんとおばあちゃんと、その向こうから時折おじいちゃんが僕の看病をしてくれた。
春休みをずいぶんと過ぎて、やっと僕は回復した。
結局あれから1週間以上がたっていた。
日曜日に父さんが迎えに来て、僕らは帰ることになった。
おばあちゃんも、おじいちゃんも、さみしそうな顔で見送りに出てくれた。
挨拶をして車に乗り込もうとしたとき、ひら、とそれが肩に乗った。
一枚の桜の花びら。
ぞくっと悪寒が背筋を走る。
あの手が肩に乗ったような、そんな感じがして。
「カヲル?どうしたの?」
母さんの声にはっとして、僕は無意識にそれを手にとる。
「何でもないよ」
そういって車に乗る。窓を開けておばあちゃん達にさよならを言って、車はゆっくりと動き出した。
ずいぶん離れて母さんが
「お盆にまた来ましょう?いいでしょ?カヲル」
そういった。僕はうなづいて「いいよ」と言う。
手を開いたら花びらがいて、山からどんどん離れているからか、もう嫌な感じはしなくって、
それはシンジ君を思い出させた。
それから街で桜を見るとあの手を思い出してしまって、僕は桜が苦手になった。
それでも枝垂桜は別のようで、振り袖のように枝を垂らした姿を見ると、その根元にシンジ君を探してしまう。
彼がいったい何者だったのか、あれが一体なんだったのか。
そんなことは考えてもわかりはしない。
ただ、シンジ君が、半ば自らの意志であの谷に囚われているのだということはわかった。
僕のように誰かがあれに捕まらないように。
それから両親は、盆や正月にあの村に行くことはあっても、春、桜のころには絶対に僕を連れて行くことはなかった。
それでも、僕はいつかあの谷へ行こうと思う。
いまだにあの夜のことは恐怖そのものでしかないけれど、昼に太陽の下で僕はもう一度シンジ君に会いたいと思う。
そして「ありがとう」と僕は言わなければならない。
あの時笑ってくれたシンジ君に。