毎年夏は、涼しい高原で暮らしていた。避暑と静養。夏の熱さは僕の体力を削り取っていくので。特にこんな病気というわけではないけど、生まれた時から体が弱く、すぐに高熱を発して死にかけるのだ。体力というか、健康力がない。風邪一つが命取りになりかねなかった。夏に無理をするとそのあとに必ず響いた。だから数年前から僕はここで夏を過ごす。
ここでは僕は独りで暮らしている。小学生の頃は家政婦というか住み込みのおばさんをつけていたけど、もう中学生だし、前ほど大きく体調を崩すこともなくなってきたので、去年から住み込みは止めてもらった。通いで炊事洗濯などをしてもらっている。
父さんは仕事があるので一人で街にいる。僕の事を気にはしてくれてるのだろうけれど、どうしたらいいのかわからない様だった。母さんが死んで、父さんは僕との距離を測りかねている。僕がここに居る間はお盆休暇の2,3日くらいしか来ることはない。普段もあまり会話のない親子だから、この期間は少しほっとしているのかもしれない。
代わりにというわけでもないけれど、幼なじみの綾波が週末には訪ねてくる。日帰りだったり泊まったり。一応父さんに頼まれて、ということになっているけれど、本当は父さんが好きだからということを、僕は知っている。だから、父さんのために僕のことも気にしている。綾波から見たら父さんなんていいおじさんだろうに、それでも本気で好きみたいだから、僕は何も言わない。
以前は、たぶん自分は綾波を好きなのだろうと思っていた。でも綾波が父さんを見ていることに気づいても、あまりショックじゃなかったから、本当に好きだったわけじゃなかったのだろう。今でも僕は綾波の父さんへの思いをとても冷静に見ている、と思う。そして、好きという感情がわからなくなった。愛だの恋だのというものは、僕の知っている好きとどう違うんだろう?
毎年のことだけれど、山の日々は穏やかで静かだ。
借りている別荘の近くは他に建物はなくて、かなり外れた処にある。図書館へ行きたい時などは不便だけれど、僕は特に不満はなかった。5分も歩けば湖が見えるので、僕はほぼ毎日散策に出かける。湖はそんなに大きくはないけれど、午前中いっぱいかけてゆっくりと散歩する。
他には何もないから、ここで人に会ったことはない。青い水面は、木々を映し小さくさざめいてきれいだけど、ただ湖を見るためだけに人は来ない。僕だけの取っておきの場所を、遠い景色や青い空を映す湖面を、立ち止まってはしばらく眺めて歩いた。
山の空気はきれいすぎて、時折、僕は呼吸ができなくなる。息を吐くとせっかくの空気が汚れてしまいそうで嫌なのだ。
そして、こんなにきれいなところだから、きっと人ではないものもいるのだろうな、と思ったりもした。妖精とか精霊とか言うものが、いるのではないかと。
だから僕は、彼を見た時、別段驚いたりはしなかった。
湖の中に濡れて立つその人は、僕と同い年くらいで、とても白かった。肌も髪も透けるように白くて、水面のように淡く光を反射している。濡れて張り付いた服が、彼の華奢な体を浮き上がらせていて、どこをとってもきれいで、本当に人ではないと思われた。
声をかけたら消えてしまいそうで、僕は動けなかった。
息も、できなかった。
彼がふいに僕を見止めた。その瞳は赤くて、僕はそのまま視線を合わせて硬直した。
僕は、本当に息を止めてしまっていたから、だんだん苦しくなってきて、それでも息を吐くことはできなくて、結局そのまま気を失ってしまった。
気が付くと、額には濡れたハンカチが置かれていた。僕はまだはっきりしない頭のままでゆっくりと体を起こす。
「ああ、よかった。気が付いたんだね」
優しい声がして顔を向けると、彼がそこにいた。少し微笑んで、でもまだ体は濡れたままで。笑った顔が、さっきよりは人間くさい気がして、少しほっとする。
「僕を見て倒れただろう?だから何となく僕のせいかなって思ってね。まあ、そうじゃなくても目の前で倒れた人を放ってはおけないけど」
「あの、何をしてたの?あんな処で」
「別に。水がとてもきれいだったから、気持ち良いかなあって」
彼は渚カヲルと名乗った。
僕はどこにも行く当てがないというカヲル君を半ば強引に連れて帰った。そのまま別れたらまた水の中に消えていきそうに思えたからだ。しばらく居て欲しいと僕は言った。ひとりでは淋しいからと。取ってつけたような言い訳だったけれど、カヲル君は笑って「いいよ」と答えてくれた。
逢ったばかりの他人にここまで馴染むなんて我ながら不思議だったけれど、僕の中でカヲル君は人間ではなかった。というか人だと思ってはいるけれど、簡単に消えてしまいそうで目を離せなかった。見える所にいて欲しかったのだ。一緒にいたいと思ったから、連れてきた。自分らしくもなく強引に。
通いのおばさんには内緒で、こっそりと過ごした。一緒に散歩に行って、午後からは昼寝をしたりチェロを弾いたり。カヲル君は合唱団にでもいたのか、チェロに合わせて歌ってくれたその歌声は、とてもきれいだった。透明感があって響く。体の深い所にまで届くような心地よい振動だった。いろんな歌を僕はせがむ。そしていろんな歌をカヲル君は歌ってくれた。
夜は同じベッドで眠った。ちょっと狭かったけれど、側にある人の温もりは、とても心地良いものだった。夏なのに、別に暑いとは思わなかった。
カヲル君は、どこか不思議な感じがした。時折、遠くを見ている。景色よりも遠いどこかを。それは僕には決して見えない場所だと思えた。どこを見ているのか知りたかったけれど、僕は聞けなかった。
綾波が訪ねてきた時には、ここで知り合った友人と紹介した。綾波は少し胡散臭げな顔をしたけれど別に何も言わなかった。その日は3人で眠って、翌日には綾波は帰っていった。「叔父様には言わないでいてあげる」と言って。
それから数日後の夜。床に寝そべって取り止めもない話をしていた時、ふいに出会った時の話になった。
「僕は死ぬ気だったんだよ、あの時。まあ、わかってるとは思うけれど」
そう言ってカヲル君は笑った。にっこりと、とても奇麗に。言ってる言葉の内容とのギャップが僕を一瞬混乱させた。
「え?」
「湖が、あまりにも奇麗だったからね。このままこの水の中で死ねたら、気持ちいいだろうなあって思ったんだよ」
あまりに簡単にいうカヲル君に、僕はどう返せばいいのかわからなくなる。
「でも、怖くない?死ぬのって。
僕は怖いよ。ずっと、怖かったよ」
いつか死ぬかもしれないということは、同年代の子達よりも僕にはリアルな現実だった。無理をしたら死んでしまうよという言葉は何度も聞かされたし、実際死に掛けたこともあった。その時は苦しくて朦朧としているからどうでも良かったりするのだが、考える余裕のある時に死を考えるのは怖かった。理屈じゃない恐怖だった。地獄も天国も信じてるわけじゃないし、ただ自分がいなくなるだけなのに、それが漠然と怖いのだった。
「以前はね、僕も怖かったよ。
でももう、生きていても死んでしまっても変らないからね」
何か深い感情を感じて僕はカヲル君を見る。
カヲル君は変らずに微笑んでいる。
僕は何か言いたかったけれど、言葉が出てこなくてただカヲル君を見ていた。
視線が絡んで、空気が止まる。
カヲル君がゆっくりと僕の頬に触れた。
そして、唇が、僕の唇に触れた。
しばらく重なったままで、僕は息を止めていた。
目は、開けたままでカヲル君を見ていた。
カヲル君の白い顔が、髪が、僕の目の前にあって、でも近すぎてぼやけているのがちょっと残念だった。
ゆっくりと離れて、カヲル君は笑った。見とれてしまうほどの笑顔。
頬に触れていた指で、僕の唇をなぞる。
そして。
「君も、一緒に死んでくれるかい?」
言われた言葉の意味を僕は正しく理解した。しばらくカヲル君を見つめて、
「いいよ」
と答えた。怖いとは思わなかった。
月が浮かんでいた。空の上と水の上と。二つの月に照らされてカヲル君はとても奇麗だった。本当に、天人とか妖精とかなんじゃないかと思って、その口元に微笑みを貯えた表情に見とれる。
「手を」
そう言われて、一瞬の間をおいて僕は、ああ、と手を出した。
カヲル君がしっかりと僕の手を握ってくれる。僕も握り返して、ゆっくりと水の中を進む。何も話さなかった。一言も。水の緩やかな抵抗とその冷たさを感じながら、ただ黙って歩く。繋いだ手だけがやけに熱くて他の所の感覚がなくなっていく。
水が胸まで来た時、カヲル君が僕を引き寄せて唇で口を塞いだ。そのまま舌まで絡めたままで僕らは水の中へ、とぷん、と沈んだ。水の中でただ互いを抱き寄せて、キスをして沈んでいった。不思議と苦しくはなかった。
そのまま、僕の意識は薄れて途切れた。
翌日、僕が居ないので探しに来たおばさんが、岸に浮かんでいる僕を見つけた。僕の心臓はもうほとんど止まりかけていたけれど、それでも病院側の努力の甲斐あってか、僕は何とか一命を取り止める。
丸3日ほどの意識不明の後目覚めた僕は、自分が生きているという事実に酷く落胆した。それを表に出すことはしなかったけれども「生きている」という事実は僕には裏切り行為に等しかった。
カヲル君と一緒だったのだと言ったけれど、結局彼は見つからなかった。
誰もはっきりとは聞こうとしなかった。何故湖にいたのか。聞かれても答えようがないようにも思えて、僕は少しほっとしていた。
「カヲル君と死ぬつもりだったんだ」といった所で、死ぬ理由にはならないだろう。別に死にたかったわけじゃない。ただカヲル君といたかったのだから。それだけのこと。だから一緒に水に入った。
その後、夏休みいっぱいを病院で過ごして、僕は街へ戻った。
それからの僕は、前以上に弱ってしまって、出席日数は規定の半分にも満たなかった。
目を閉じると、光を煌かせて揺れる水面が見える。
きっと僕は、本当はあの湖の底に居るんだ。カヲル君と一緒に。だって、カヲル君の銀の髪が見える。水に揺れる髪が見えるから。
次の年から、父さんは僕をあそこへは行かせなくなったけれど、夏の熱さと蝉の声が、あの湖を思い出させる。夏が来るたびに、あの冷たさを思い出し、カヲル君の顔を、腕を、声を、温もりを、冷たさを、唇を、思い出す。
そしてそれは、どんどんどんどん透き通っていって、どんどん奇麗になっていく。僕を捉えて離さない。水が、氷に結晶するように、思い出は結晶して水晶のような輝きを纏う。
思い出は浄化されて良いことだけが残るのだとは言うけれど、あの夏の思い出はどんどん奇麗になっていった。奇麗になりすぎてもう僕は他のことはどうでも良かった。その事だけを繰り返し繰り返し思い出して、何度も反芻するように毎日を過ごした。
そのせいでもう、僕はほとんど口をきくことがない。父さんとは前からだったけれど、友達とも話すことはなくなった。話し掛けられても僕は上の空でまともな返事を返さないから、今ではほとんど誰も話し掛けてこない。ただ綾波だけが変らずに僕に接していた。綾波だけが、時折ぼそっと口にするカヲル君のことに、「そう」と答えてくれていた。
綾波が、
「碇君はどこかへ消えてしまいそうね」
と言う。僕は
「仕方ないよ。本当にここにはいないんだから」
と言って笑った。綾波が少しだけ泣きそうな顔をしたけれど、僕は無視した。
僕は、本当はもうカヲル君の所にいるんだから。
だから、僕はどんどんどんどん弱っていった。もう命の炎は燃えていない。あるのは残り火。
ゆるゆると火が燃え尽きていくのを、僕は待った。じっと、待った。
たぶん、次の夏には、僕は死ねる。カヲル君の所へ還れるんだ。やっと。
「綾波」
「何?」
「いろいろと、ありがとう。感謝してる」
「何よ、急に」
「うん、もうそろそろかなぁって思って」
「…何、が?」
「……………
ねえ、綾波。あの湖、きっと今ごろ奇麗だよね。早く、行きたいな」
綾波は、行ける訳がないじゃない…とは、言わなかった。
もう死ぬんだなと、思った。碇君にはわかってるんだと。特にこれという死に至る病はないはずなのに、碇君は、ゆっくりと死んでいく。あの夏からずっと。だから、今まで生きていてくれたことの方が、たぶん、奇跡だったのかもしれない。それでもやはり、死んで欲しくはなかった。
翌朝、私は、覚悟をして碇君の部屋のドアを開けた。
彼はいなかった。
病院中を探して、バスやタクシーの運転手の人、駅員さん、いろんな人に聞いてまわって、でも誰も碇君を見てはいなかった。
結局、碇君は見つからなかった。
叔父様はあの別荘のある辺りも捜させたらしいけれど、やっぱり誰も碇君を見てはいなかった。
それでも、私も、叔父様も、何も言わなかったけれど、何となくわかってはいた。
間違いなく碇君は、あそこにいる、と。
あの湖にいるのだと。