「人工進化研究所」
そこは仰々しい名前に反してか、応じてか、世間に公表できない裏の顔を持つ研究所である。エキスパートが集められ、また機密を守る事のできる人間で構成されてはいるものの、それは特異な集団ではなかった。折りあらば騒ぎたい奴もいるのである。
セカンドインパクト以降四季が消え夏が続く日本だが、それでも暦は存在する。「年度制」も残っている。従って新歓、暑気払、忘年会や新年会などといった行事もそれなりに残っており、この人工進化研究所においても時折「飲み会」と言うものが企画されていた。
とは言っても所長である碇ゲンドウはそのようなバカ騒ぎを好むタイプではない。一応立場があるので声はかかるのだが、彼が参加するのは忘新年会が数えるほど、といった程度だった。
代わりというわけではないが、副所長の冬月がこの手の会には参加していた。さすがに2次会、3次会とまではいかないが、最初の乾杯くらいは仕事として顔を出すべきだと考えているようだった。それだけではなく、碇ユイ、赤木ナオコ両女史が、こういう飲み会を好んでいるため、彼女らとの時間が取れる、というのも理由なのかもしれなかった。互いに研究所でも幹部の位置にいるだけに話す時間が取れそうで取れない。必要最低限の申し送り事項の伝達しかできないことも多い。仕事以外の、自分たちの興味のある分野の話をしようと思ったら、こういう機会を逃すことはできなかった。
5月に入り、やや遅めではあるが新入所員の歓迎会を開こう、という話になった。こういう飲み会の参加メンツは大体いつも同じなのだが、新歓は家族連れOKなので意外なメンバーの参加も多かった。家族連れOKであるがゆえに酒によるトラブルが少ないという理由で、普段はあまり積極的に参加しない女性陣も参加の意向を示していた。
そこで幹事は店を借り切り、はりきって準備を進めていたのだが、直前になって所長である碇ゲンドウも参加するといいだした。珍しいことである。それを聞いて参加を取りやめるものはさすがにいなかったが、眉を顰めた者はいた。所長がいてもいなくても騒ぐものは騒ぐのだし、別にそこで何か失敗したからといって仕事で何か言われることもないのだが、気持ちの問題である。あの不調面があるだけで酒の味が落ちると感じてしまうのは仕方ないと言えよう。
それでも家族を引き離すわけにはいかない。人気のあるユイと人気のないゲンドウが同じテーブルになってしまう。幹事はテーブル配置を一生懸命考えて当日を迎えることとなった。
結局碇家は赤木母娘、冬月らと共に真ん中のテーブルとなった。近くに若い女性や家族連れのテーブルを置き、ゲンドウによるマイナスを少しでも中和しようとしたのがよくわかる配置だった。
形式上、開会の挨拶は所長であるゲンドウが行った。にこりともせず、新入所員への激励もなく、ただ「今後も頑張ってくれ」程度の挨拶であった。短くて良いのだが、あまりにもの内容で所員は心の中でため息をつく。それでも乾杯さえしてしまえばあとは無礼講のようなものだ。最初にゲンドウや冬月に挨拶を兼ねたビール注ぎを終わらせてしまうと、皆好き好きにテーブルを移動し始め、あちこちで笑い声もあがる。
ゲンドウと冬月は量を飲める方ではないのか、ある程度飲むと注ぎに来ても断ってしまう。その分をユイとナオコが受ける形になっていた。女史二人は人気があるので注ぎに来る者は多い。だからかなりの量を飲んでいるはずだが、二人ともわずかに頬を染めている程度だった。好きなだけあって結構強い。
ユイの隣には3歳になるシンジがいた。そのシンジの世話をしつつ、皆からのビールを受け、ゲンドウらへの気遣いも忘れないユイのすごさを気づくものはほとんどいなかったが、赤木リツコはぼんやりとその様子を眺めて感嘆していた。
幼いシンジがおとなしかったのも最初の内だけで、そのうち場に慣れると椅子に立ったりユイにのしかかったりする。時々ゲンドウが睨んだりもするのだが、子供にわかるわけもない。それをユイは見事とも言えるタイミングであやしていた。それでもユイの手が間に合わず、ゲンドウが怒鳴るように名を呼び、シンジを泣かせたりもした。そうなれば周り中があやしてくれるため、シンジはすぐに機嫌をなおして動きだす。そのうちに自分の座席にいることにも飽きたのか、あちこち歩き回り始めた。とりあえずユイは好きなようにさせていた。あまり遠くへ行くようであれば呼んだが、目の届く範囲では気にしていないようだった。
女性所員が「可愛い」と寄ってきて構ってくれるのでシンジはご機嫌だ。「いくつ?」「名前は?」などと相次いで聞かれるが、それに一生懸命指を立て、ユイに促されてやっと「いかりしんじです」と答える様子にいちいち歓声が起こる。
「子供って可愛いですよね」
シンジを抱き上げてユイのところへ連れてきた所員が言う。
「そうね、人前で大きな声出すのも平気になっちゃうわ」
差し出されたシンジを受け取りながらユイが答える。その言葉にナオコが「そうそう」と相槌を打つ。
「結構なんでもできるわよね、親になっちゃうと。一緒に歌ったりも平気だし。それも振り付きで」
「子供番組ってバカにしてたんですけど、見てるとハマりますよね」
若い所員が反応してナオコはちょっと意外な顔をする。
この時代でも国営放送は変らず子供向けの番組を作っている。セカンドインパクト以前から人気のあった番組を新たなキャストで作りなおしたり、CGキャラ溢れる歌番組なども流していた。子供はこういった歌をそらで覚えるし振りも完璧にマスターしてしまう。つたないのは仕方ないが間違えようものなら容赦なく指摘する程に身につけてしまう。仕事をしている親であっても文明の利器によって帰ってから子供と番組を見るハメになる。ましてや母親ともなれば子供同様に歌えるし踊れるようになってしまう。
加えてカッコイイお兄さんが出るという理由で成人女性からの人気があるのも変らなかった。いつ見ているのだろうと思わなくもないが、今回参加している女性陣にも流行りの子供歌を知っているものがおり、シンジに歌の冒頭をふって一緒に歌ったりしていた。
歌い出したらもう自然に体が動くのだろう、可愛く手を交差させてたりしているシンジに視線をやり、ナオコは懐かしむような表情で話を続ける。
「子供のこぼしたものとか食べるのも平気になっちゃうし、人前でちゅーとかも平気でしょ?」
「そうね、子供とだったらできるわね、人前でも」
ユイが笑う。その言葉にピクリと反応したはゲンドウだけではなかった。冬月も意外そうな顔でちらりとユイを見る。
「ねね、シンジ君。お姉さんとちゅーしよ?」
そんな会話で女の子達がシンジの頬にちゅうっとする。シンジも嬉しそうだ。そうやって女性達の間をシンジが回って行く。何人かはその小さな可愛い口にちゅっとしていた。
そしてユイがシンジを呼び、その口にちゅっとキスをした。
「う」
声のようなため息のような音を発したのは冬月だったが、それは歓声にまぎれて周囲には聞こえていなかった。ゲンドウは声こそ発しなかったものの、その肩をびくりと揺らした。しかしそれも気づかれてはいなかった。
ユイも気づいてない。だからもう一度、ちゅーっと、今度はさっきよりも少し長めに、そして軽く音を立ててキスをした。
きゃきゃっと喜ぶシンジは今度は自分からちゅーっとユイにキスを返した。
「きゃー、可愛い!」
ピシリ。
ゲンドウの口元がヒクつく。
子供のするキスだ。ましてや母親に対してのことだから、みんなが微笑ましくそれを見ていたが、ただ一人ゲンドウだけが、背中にオドロ線を背負っていた。しかしすでに宴会も中盤を過ぎており、ゲンドウのことを気にしているような人間はおらず、ただ一人冬月だけが、隣から漂ってくる冷たく黒い気配に耐えていた。
時間が来て宴会が終了と言う頃になると、さすがにゲンドウも背負っていたオドロ線を消すことに成功したようで、いつもと変らぬ顔をしていた。冬月はその表情に安堵して帰宅する。
ユイは2次会に声をかけられたが、お互いに無理なことは承知の上の形式的な誘いで、「子供が眠そうにしているし」といって断るとゲンドウに声をかけて帰宅の途についた。
ゲンドウは後半ほどんど飲んでおらず、また警察など心配する必要もないので当然の顔で運転席につく。ユイは後部座席のチャイルドシートにシンジを寝かせる。もう完全に眠ってしまっていたので、ユイは助手席に座った。
車が動き出すとユイは窓を少し開けて風を入れる。あまり開けるとシンジに風が当たってしまうために本当に少しだったが、それでも僅かに残る酒気を帯びた空気は薄れていく。
「楽しかったわね。あなたももう少しこういうのに参加すればいいのに」
頬杖をつくようにしてユイが言った。ゲンドウはちらりともユイを見ず、口を開く。
「私はいい。シンジなら私が見るから君はもっと参加していい」
「あなたとシンジを二人きりにするのもちょっと考えちゃうわね。あなた、自分の子供なのに緊張しているんですもの」
くすくすと笑いながら答えるユイに、どこか憮然とした声で
「そんなつもりはない」
とゲンドウが答る。いつも通りと言えばいつも通りの会話だったがユイは微妙にゲンドウが不機嫌であることに気づいた。
「怒ってるの? 無理矢理誘ったし」
ゲンドウの顔を覗きこむようにユイは言う。薄暗い車内では微妙な表情は読み取りづらいが、それを補うようにユイはじっとゲンドウを見つめる。
「別に怒ってなどいない」
ユイの視線から特に顔を逸らそうともしないが、それでもどこか強張っているような印象を受ける。
「そう言う言い方が怒ってるっていうのに。私に通じると思ってるの? 何を怒っているの?
言ってくれないとわからないわ」
「怒っていない」
「もう」
ゲンドウがこういう時に頑固なのはわかっている。どれだけ聞いても自分から答えてくれることはないだろう。
ため息をついてユイは考える。
「ああ」
暫く考えてユイはそう言うとハンドルに手を伸ばし、左へと切らせる。
「何をするんだユイ!」
他の車は走っていなかった。ユイの手は一瞬で離れたが、車は結構なスピードを出していた。ゲンドウは大慌てでハンドルを戻そうとして諦め、路肩に寄せて停車する。
「ユイ」
大きなため息をついて妻を見ると、ユイは両手を伸ばしてゲンドウの頬に触れ、その口に軽くキスをした。
「!」
驚いて目を見開き硬直しているゲンドウにユイは微笑みかける。
「シンジに妬いていたのね。本当に、子供みたいな人」
そう言うともう一度呆然とするゲンドウにキスをして、その頭をそっと抱え込んだ。
「シンジとあなたは違うのに。わからないのね」
抱える腕に少し力をこめる。
ゲンドウはされるがままにユイの胸に頭をうずめると眼を閉じた。