それでも、その時まで、たかが女と思っていた。
私は彼女が怖かった。彼女の目が。
見透かされていると思った。
私の誰にも見せないように隠した、自分ですらもう正体も忘れた何かを、見られていると。
いつも会えば彼女は笑っていた。
にっこりと。
しかしそれでも、私は怖かったのだ。
表には決して出ないよう、必死の努力をしながら、私は彼女と会っていた。
「彼女は、使える」そう思っていた。
けれども本当の理由は違っていた。
怖かったけれど、彼女と会っていた、本当の、理由。
それに気づいたときの衝撃は今でも忘れない。
ふとそれに思い当たったとき、私は呆然としてしばらく何も考えられなかった。
”そうか”
その言葉が静かに、ゆっくりと頭の中に広がっていった。
滑稽だった。
自分が誰かにこんな感情を抱くなどとは。
おかしくて、おかしくて、何だかバカらしくなる。
女なんて道具だと言って憚らなかった。今まで利用してきた女は数知れない。身体が求めるときに適当に見繕うだけの、そんなものでしかなかった。
なのに。
私は彼女を欲した。
だが、同時に怖かった。
躊躇したのは、一瞬だけ。
私は他に方法を知らない。
強引に奪うように彼女に手を伸ばした。
怖かった。だから怯える自分を押しのけた。
最初からこれが目的だったはずだと、予定通りじゃないかと言い聞かせて。
彼女は拒まなかった。
喜んで受け入れてくれたとは思わない。
いつも笑みを浮かべている顔が強張っている。
当然だ。
だた、私にはそれしか方法がなかったのだ。
それから何度か彼女を抱いた。
いつも彼女は拒まなかった。
だがやはり受け入れてもいなかった。
別に構わない。そう自分につぶやく。
何度目かの、コトの後に彼女は私を見つめて言った。
「あなたは私に何を望んでいるのですか」
真っ直ぐな光のような目だった。
私は答えられなかった。
望み。自分がそれを言えるとも思わなかった。
どのくらいそうしていたのか。
彼女は眼を逸らさなかった。
私は光に射抜かれていた。
「側に、居て欲しいと、思っている」
彼女はにっこりと笑って
「わかりました」
と言った。
私は彼女を抱きしめられなかった。
不覚にもこぼれそうな涙を堪えるのに必死で、彼女に触れることはできなかった。
私がただ自分のために利用しているのに過ぎないと、彼女に囁くものはたくさんいた。
それは否定しようのない事実であったから、私は別に気に留めなかった。
何より彼女自身がそれを承知している。
その上で、私の側にいてくれる。
不安がないわけではなかった。
どうして彼女が側にいてくれるのか、私にはわからないのだから。
それでも、彼女は目の前で微笑んでくれている、その事実だけで十分だった。
彼女を手に入れても、私の望みは消えてはいない。
組織での自分の確たる位置を固めるために、そしていずれ組織を使うためにうまく立ち回らなければならない。
彼女は、その頭脳において私に必要な存在ではあったが、私と同じ位置に置きたくはなかった。
感傷だとは思ったが。
だから、人が必要だった。
私と同じ位置にいて、私の為に動く人材が。
彼に付いては彼女から十分すぎるほど聞いていた。
彼女の信頼が厚いことも疑いようがなかったし、もし彼女が私を選ばないのなら、その人の元へ行ったのではないかと思えた。
だからこそ、その人物を側に置きたかった。
喧嘩を吹っかけられたのは偶然だったが、身元引き受け人をと言われた時に彼女ではなく彼の名を告げた。
「冬月コウゾウ」
会ったこともない私のために動いてくれるかどうかは正直賭けだった。
彼は来た。いかにも胡散臭そうに私を見て。
彼の中にあるその潔癖さが私には可笑しかった。
そして引き込めると確信を持った。
だが、今の自分の立場では自分の望みで人材を登用はできない。特に彼のような人物は組織としては嫌う部類だ。
だから、私は時期を待つことにした。
そして自分の足元もまだまだ弱い。
裏の、汚い仕事をすることで自分の価値を示してはいるものの、いずれは表に出なければいけない。
組織のトップたるキール議長。彼の信頼を得るために、有能な人材を演じていった。
そして、私はキールと共に南極へと向かった。
計画の始まりを、見るために。
最初のドミノを倒すために。
南の、極寒の地で私が何をしてきたのか、彼女が知らないはずがなかった。
それが引き起こしたものは予測されていた規模を遥かに越えており、自身さえもが逃れられなくなっている。
彼女が保護される事は保証されていたからこそ私は動いていたのだが、それでも以前と同じような日々を迎えることなどは不可能なことだった。
後悔などはしていない。人類の半分以上が死んでしまっても別に構わなかった。
他人などどうでもいい。それは、彼女を手に入れてさえ変っていない。
彼女は、何も変らずに側にいてくれる。何も言わずに笑ってくれている。
だから、私は何でも出来た。
そして今、彼女の中には新たな命が宿っていた。
−私の子供−
日に日に膨らんでいく彼女の腹を、私は何とも言えない気持ちで見ていた。
セカンドインパクトの処理に追われしばらく会えないでいると、信じられないくらいに膨らんでいる。その中身が子供だと、分かってはいるのだが気持ち悪かった。
正直、気持ちが悪かったのだ。
それでも愛おしそうに腹を撫で、話し掛ける彼女を見て、幸福を感じることくらいはできた。
私は自分の仕事で落ち着く日がなかった。
彼女が産気付いた時でさえ、駆けつけることの出来ないところにいた。
生まれて2週間で会った我が子は、自分になど似ては見えず、自分が父親になったのだという気も生まれてこなかった。
ただ、彼女が、私の指を子供に握らせた時、私が自覚した感情は、たぶん恐怖というのだろう。
彼女は育児に追われて、研究者としての仕事はすべて休んだ。
物資には恵まれている。子供に必要なものも、世間などとは比べ物にならないほど揃っている。そして彼女が望めばシッターくらいはつけられるのだが、自分が育てるのだと言って譲らなかった。
変らず私を見ていてくれる。
だが。
彼女が唯の女ではなく、母という存在になってしまったことは、私の手の中の彼女が薄れたように感じさせた。
南極に調査隊を送るという話が持ち上がった時に、私は冬月教授を推した。
彼を表に出していればそれらしく見えると。
所詮茶番劇だ。シナリオは決まっている。誰が演じても終幕は変らない。
そして私も再び南の端へと行くことになった。
笑い話になるのだろうが、私たちは籍を入れていなかった。 夫婦同然に暮らしていたし、子供までいるというのに、正式に婚姻届を出してはいなかったのだ。
南極調査隊で冬月教授と会う話をした時、彼女が言い出した。
「南極へ行く前に、籍を入れましょう」と。
そう言われるまで、入籍というものは私の頭にはなかった。 そういえばそんな事をしなければいけないのだったとやっと気付いたのだ。
役所の機能はまだまだ混乱していたが、翌日、私たちは届を出し、 私は六分儀の姓を捨てて"碇"となった。
その日のうちに彼女は「結婚しました」と書かれた葉書きを用意し、嬉しそうに何人かに送った。
そして1枚を冬月教授にと、私に渡した。
南極へ向かう船の中でそれを彼に手渡した時、私は顔が緩むのを自覚した。 根拠などありようのない優越感だった。 そして、彼を引き寄せるための糸をまた1本掛けたと思った。
その未曾有の災害については、シナリオ通りに展開していった。
冬月教授が、それを納得などしなかったことは後でわかる。
学者としての興味、そして彼女の存在。
これだけで十分だった。
あとは囁きかけてやればいい。
彼女の望んでいる世界と、私の望む世界は違っていた。
それは明らかな事実で、特にその事で何かが起きることはなかった。
私の望む世界を、必ずしも彼女が快く思わないことぐらいわかっていた。
冬月の存在が、時折私を苛立たせる。あれは彼女の世界をそのまま受け入れている。
私には、できない。
それでも私が彼女の望む世界に興味を持ち始めたことを、私は何故か隠していた。
彼女から。
その実験については、何の心配もしてはいなかった。
彼女がメインで動かしていたものであるし、何より彼女が「大丈夫」と言ったのだ。
それでも、後で思い返せば私は不安だったのだろう。 早くその実験が終わることを強く願っていた。
何が起こったのかなどまったくわからなかった。ただ異常な事態になっていることだけが見えていた。
私には何の手だてもなかった。
彼女が消えるのを見、それを呼び戻せないことを、確実に見せられていくだけだった。
赤木博士が、彼女を呼び戻そうを立案した計画も失敗した。 赤木博士は彼女に戻ろうとする意志がないのではないかと言った。 その言葉を、私はどう取ればいいのかわからなかった。
「側にいます」
遠いあの日、彼女はそう言ってはくれなかったか。
それでも自分が彼女の存在にこれほどまでに寄り掛かっていたとは、この時までまったく自覚してはいなかった。
今や私は彼女なしでは何もできないも同然だった。
泣きわめく息子を慰めることさえせず、ただただ自分を保つことに努力した。
そうすることしかできなかった。
誰の顔も見たくなかった。自分の顔さえも。
彼女が消えた時に、私はすべてを無くしたのだ。私にとって意味のあるものすべてを。
彼女を無くし、取り戻すことすらできずに、何をしているのだろう?
地下に秘密を抱く都市を見おろす高台で、ぼんやりと空を見ていた。 ほとんど人の来ない場所らしく、誰かとすれ違うこともなかった。
日が暮れ、空がグラデーションをなして闇に落ち、星が光り始めてもそこにいた。
どうしようかと考えられるようになるまで時間を要した。
そしてそれは少しずつ固まっていった。彼女を取り戻すことは可能だと思った。
方法は、あったのだ。
それがどう言うことか、以前の自分であったなら考えただろう。
実際に起こす行動は同じであったとしても、頭の中にあることは全然違っている。
どうすればその通りに事が運ぶのかを考え、何度も確認しながら私は街へと戻った。
そして、すぐにキール議長と連絡を取った。
多少時間がかかったものの、議長の承認を得て、私は組織に戻った。 冬月が忠告を口にしたが、私は自分の進む道の上にいた。
全ての目的が、そこに集約されることになった。
とても単純な目的。
とても簡単な願い。
もう、他のものは私にとってはないも同然だった。
すべては利用するものでしかなかった。
時間が経過して、少しずつ考えることが増えていく。 必ずしも良いことばかりが浮かんでは来ないのに。
やはり、彼女は私などどうでもよかったのだと思えてくる。
救いだと思えたのは、
息子も、私と同じように彼女に捨てられたのだと言う事実だった。
彼女が自らの意思で帰らないというのであれば、あの子も、彼女を呼び戻す要因にはならなかったということだ。
そう考えて気付く。
自分は父親などではないことに。
彼女がいないのならば、自分は親になどなれない、どうせなにもしないのなら、いなくても同じだ。
そして、子供からも遠く離れ、
断崖の上で私は夢を見る。
彼女を私は諦められなかった。
彼女の魂がそこにあると分かっていて、諦めることなどできなかった。
毎日それを眺めに行く。身のうちに彼女を封じたそれを。
それは自分の為だけの行為であった。
誰かがそれで得をしたり、幸福を得たりは絶対にありえないこと。
だがそれがどうだというのだ?
彼女が欲しかった。ただもう一度会いたい。
それだけのことだった。