ヘタ○アとエヴァ。いわゆるダブルパロディ?
あんまり先を考えていないので続くかは謎。
「シンジ英語話してんの?」とか考えないで下さい。
何でもOK、という人向け?
「イギリスさん。図々しいお願いなのは百も承知で申し上げます。しばらくこの子を預かっていただけないでしょうか」
そういって日本が連れてきたのは、日本と少し面立ちが似て見える少年だった。
日本の隣で僅かに体を小さくして立っている。視線も俯きがちでおどおどして見えるのは知らない場所に連れてこられたせいかもしれなかった。もしかしたら国外に出ること自体が初めてなのかもしれない。
「生活に必要なお金は私が持ちます。イギリスさんにはかえって迷惑だろうと思いますが、家の事などは一通りできる子なので使ってやってください」
「しかし客にそんなこと、」
「いえ、お気遣いは結構です。こちらが無理を言っているのですし、それに、この子も何かしている方が気が紛れるでしょう」
そういって日本は少年を見て少し口角を上げる。少年は日本を見てそれからイギリスへ視線を移すと小さく頷いた。
「大変申し訳ございませんが、何卒よろしくお願いいたします」
日本はそう言うと深く頭を下げた。少年も一緒に頭を下げる。
少年の名は「碇シンジ」と言った。
「お前以外の出迎えなんて、珍しいと思ったら」
遊びに来たフランスに、イギリスは迷った末に事情を説明した。日本から口止めはされなかった。だからといって言いふらしても良いとも思わないが、こいつはそう言うところの口は堅い。日本から訳ありで、と言えば口外はしないだろう。
”お前が他人と同居なんざ無理だと思ってたけどねぇ”と笑われる。
それは自覚があるので黙って聞く。
「うまいじゃん」
シンジの淹れた紅茶を口にしたフランスが驚いて言う。イギリスのものと同じ味だ。
「お前が教えたの?」
「ああ」
へぇ〜とフランスは視線をお茶菓子に向ける。ごく普通の、当たり前の色と形。匂いも普通で焦げ臭さはない。
「これもあの子が?」
「ああ」
「だよねー」
「何だよ!」
そういわれるだろう事は覚悟していたが、だからといって腹が立たないわけではない。
「ん、こっちもうまい。何、結局料理もやってもらってるの?」
「ああ一応な」
「ふーん」
その声に少し、不機嫌な色が混じったのがイギリスにはわかった。こいつは、とイギリスはため息を吐く。
「なんだよ」
「いや何も」
そこにノックの音がする。噂のシンジだった。イギリスに電話が入っているという。すまない、と一言告げてイギリスが席を立つ。
イギリスが出て行った後、自分も部屋を出て行こうとするシンジにフランスは
「あ、ちょっと待った!」
と声を掛けた。ドアを閉めかけていたシンジが小首をかしげてから中に入る。ドアの前で直立不動でそれ以上近づいてこない。
「ちょっとこっちおいでよ」
フランスはにっこり笑って手招きする。戸惑った様子を見せながらシンジはフランスに近づく。それでも数歩の距離を残して立ち止まった。
「なんでしょう」
「えーっと、シンジ、だっけ?」
「はい」
「イギリスと同居って大変じゃない?」
「そんなことないですよ」
曖昧に笑う表情とか口調とかに、日本だ、と思う。
「あいつの料理、食った?」
にやにやしながらフランスが聞く。
「はい」
「まずかっただろ?」
「いえ、そんなことは」
表情を変えずにそう言う。日本はまだ少し表情に出したが、シンジはまったく顔にださなかった。
「本当のこと言っていいんだぞ? あいつの飯はまずいってんで有名なんだから。食って体調を崩した奴だっているし」
フランスがそう言うとシンジは少し戸惑うような表情を見せた。これは迷ってるな、と思いフランスは続ける。
「今イギリスいないし、正直言ってみろよ」
しかしシンジは戸惑いながらも”いえ本当に、普通に食べられましたけど”と言った。
「本気で言ってる?」
「? はい」
こいつも味音痴なのか? フランスはシンジの顔を見る。しかしさっきの紅茶といい茶菓子といい、フランスの舌にかなう味だった。おいしいものをおいしいと思えない奴においしい料理は作れない、とフランスは思っている(イギリスはおいしいと思えるが作れないわけだが)。だからシンジの味覚はまともなんだろうと思う。なのにイギリスの料理を”普通に食べられた”と言う。
「信じらんね」
小さく吐く。シンジはそんなフランスを不安げに見ていた。
”しっかしほっそいなー”
フランスはシンジを上から下まで眺めた。まだ子供なのもあるだろうが小さいし細い。丸い頭部は撫でがいがありそうだ。日本も好みだけど、この子もかわいいなーと思う。
「今度うちにも遊びにおいで。うまいちゃんとした”料理”って奴を食わせてやるよ」
「え、でもたぶんここを離れるわけには」
「ん? そうなの? あぁ訳ありなんだっけ。でもこんなところに篭ってたらつまらないでしょ」
「でもアーサーに迷惑がかかるかもしれないから」
「ふーん」
「あ、あの。僕のことはあまり他の人には言わないで欲しいんですけど」
「ああ、それはイギリスから聞いてる。大丈夫、そういうのはちゃんと守るから」
「お願いします」
頭を下げる。ほんと、日本だよなー。
「じゃあ、その訳が解消したらフランスにおいで。色々案内してあげるよ。お兄さんとデートしよう」
そういったら少しびっくりした顔をしてそれから笑う。あら、かわいい。
「僕、男ですよ?」
「愛に性別なんて関係ないでしょ」
そういったら一瞬噴出しそうな顔をして、それから抑えて笑う。
それを見てフランスは思う。”預かり物じゃなかったらなー” だがまぁ何もしないのもフランスの矜持として許されない。
「んじゃ約束な」
一方的にそういってその頬にキスをする。
「え」
頬に手をあて赤くなる顔に、フランスはちょっと笑った。本当に日本人は。
”そういえば日本も昔イタリアにハグされて怒ったとか言ってたっけ”
「お前何やってんだ」
イギリスがドアに立っていた。
「ご挨拶」
「ばか止めろよ。こいつは客だぞ」
そういってシンジとフランスの間に入る。シンジの肩に手をかけ、少し距離をとらせた。
「すまなかった。今後こいつには近づくなよ。あぶないから」
「ひでぇ坊ちゃん」
「うるせぇ」
「あ、いえ、あの僕がこういうの、慣れてないだけで」
「慣らしてあげようか」
「だから止めろって。シンジ、悪い、飯の仕度を頼む」
「あ、はい。えっと、フランスさんの分も?」
「いや要らない」
「えー泊めてよ」
「駄目に決まってるだろっ、お前なんか危なくて泊められるか」
「ちぇー」
とりあえず今日は帰る、ということで、夕食は二人分となった。
「ではよろしくお願いいたします」
と何度も頭を下げて日本は帰っていった。
正直言えば、イギリスは家の中に他人を入れる事が嫌だった。
仕事では多くの人間が側にいるし手伝いも必要だ。それは当然の事だし嫌だと思ったことはない。代わりに、というわけでもないが、家ではひとりでいることを好んだ。
庭の手入れは趣味とも言えるが、掃除や洗濯、食事の仕度なども苦に思ったことはなかった。もうずっと長い時間を生きていることもあって、いわゆる”今風”なやり方をしていない部分もある。古いと言われても体に馴染みきっている物を変える気はないし、変えられたくもない。
これが日本からの頼みでなかったら、イギリスは受け入れたりはしなかった。日本もイギリスが抵抗を感じていることはわかっていただろうと思う。相手の気持ちを読むことを身上とし、また得意な日本が、それでも頼まざるを得ない事情があったのだろうと推測できたから、イギリスは何も言わなかったのだ。
それでもやはりため息をついてしまう程度には億劫に感じていた。
部屋に戻りシンジにソファを薦め自分も腰を下ろした。
眺める。
東洋人の年齢は外見ではわからないが、14歳と言っていたからそうなんだろう。本当に見た目は日本と似て見える。日本との付き合いはかなりになっているから、彼はもう少し慣れた態度を取る。こんな風に小さくはならない。
居心地が悪いとか迷惑に思われてるとか色々考えているのだろう。殊勝なのは良いが少しイラつく。
「シンジ、だったか。お前、俺のことどう聞いてるんだ?」
「どうって」
「あいつは日本、だし、俺はイギリスだ。それは聞いたんだろう」
「あ、はい。本田さんからは国を体現するものだ、って聞きましたけど」
「体現、ね」
一言にするならそうなるのかもしれない。
「お前はそれをどう思うんだ」
「どうって。
・・・正直普通の人と同じにしか見えないし、国って言われてもピンとは。イギリス人らしいイギリス人とか、そういう感じなんですか」
「たぶん、違う。・・・うまく説明できないな。日本は自分についてなんて言った?」
「とりあえずは本田菊という人間だと思って欲しいと」
「そっか。じゃあ俺はアーサー・カークランドだ。アーサーでいい」
「あ、はい」
アーサーでいいと言われても、シンジから見れば年上で世話になっている人だから、どうしても”アーサーさん”と呼んでしまった。その度に、
「アーサーでいい」
と注意を受けた。最初は少しイラついた感じで。そのうち苦笑まじりに。
「こちらではそう言うものだと思って慣れろ。アーサーでいい。わかったな」
シンジはかなり努力して、ようやく”アーサー”と呼べるようになった。
アーサーの所に来て最初の夜は彼が食事を作ってくれた。イギリス料理なんて具体的にどんなものがあるのか知らないから、目の前に並んだ料理の名前はわからなかった。日本とは全然違うことだけはわかった。
”これ、作れるようになるのかな”
アーサーが実際に自分にあれこれ手伝わせてくれるかはわからない。でももしOKが出たなら、自分ができることは何でもやるつもりだ。だからこれくらいは作れるようにならないと駄目だろうなと考えながら料理を口にした。
ミサトを思い出す。
一時期世話になった葛城ミサトはかなりの生活破綻者で、料理の腕もかなり問題があった。半年くらいだったか、その頃はまだ子供で、自分で料理をするなんて思いつかなかったからずっとミサトの料理を食べていた。
”レトルトを原料によくここまで!”
リツコが良く言っていたが、それに近い味をしていた。
おいしいとは思わなかった。ただ懐かしかった。だからシンジはすべて平らげた。
すべての皿を空にしたシンジをアーサーは少し驚いた顔で見た。
「全部、食べたのか」
「? はい。ごちそうさまでした」
「・・・何ともないか?」
「はい?」
「いや、何ともないならいい」
俯いた顔は少し赤くなっているようにも見えた。
その後アーサーは手ずから紅茶を入れてくれた。こちらはかなりおいしかった。そのギャップにびっくりする。
”この紅茶の淹れ方、教えてもらえるかな”
そう思う一方で、アーサーが淹れたものを飲めるならそっちの方がいいかな、とも思った。
国、という存在がどういう仕事をしているのか、シンジには今ひとつぴんと来ない。アーサーは普通に朝出かけて夕方に帰ってくる。帰ってきてもオフィスで書類とにらめっこしていることも多い。忙しいというのは理解できた。
なんだかんだと掃除も洗濯も料理もさせてもらっているけれど、アーサーが楽になったようにはとても見えなかった。それは彼が、時間が空くほど余分な仕事をしてしまうからなのだが、シンジはアーサーをそこまで知らない。
今日も彼はオフィスに篭っている。まだ日が長い時期とは言え、時計はずいぶん遅い時間を指している。晩御飯もあるし声をかけようと2階に上がると部屋からアーサーが出てきたところだった。
「丁度よかった。ご飯できてますよ」
「ああ今行く」
ダイニングで向かい合って食事を取る。アーサーのように優雅にカトラリーを使いたいと思って見るのだけれど、何が違うのかどうもうまくいかない。日本でだってフォークやスプーンは使ったし、ナイフだってまったく使ったことがないわけじゃない。けれどどうしても余計な音が出る。アーサーのようには使えない。箸が恋しい日が来るなんて思っていなかった。
ようやく少し慣れたけれど、日本との生活の違いにシンジはかなり戸惑った。家のことは必要にせまられてではあるが一通りできると思っていた。けれどそれは日本という環境でだ。衣食住。基本的なことは同じはずなのに、国が違うとここまで生活も違うのか。
初めてキッチンを見せてもらった時。シンクの下に見えた物をシンジは一瞬理解できなかった。丸い窓の開いたそれは、似たものを日本でも見たことがある。
「あのー、これ」
「ああ左が洗濯機、右が乾燥機だ。できれば外に干したいんだけど晴れないしな」
「はぁ」
聞きたかったのは『なぜそれがキッチンににあるのか』だったがシンジはそれ以上を口にしなかった。
台所に洗濯機、の衝撃はかなり大きかったが、それだけでなく、自分が料理をするからかもしれないけれど、リアルに違いを感じる。無意識にここで動く自分を想像したが、それはうまくいかなかった。
日本の台所よりは広いと思う。でも食器や器具があちこちに置かれていて、片付いているかといえばそんなことはない。雑然としており一部はただ出しっぱなしに見える。だがそれはどこか居心地のよさも感じさせた。たぶんアーサーのルールに従った配置なのだろう。彼の使いやすいように置かれているのだ。
ここはアーサーの場所だった。
家自体がアーサーの物なのだから、何処も彼処もアーサーの場所なのは当然だけれど。
たぶん彼は料理が好きなんじゃないのかな、とシンジは思った。
そして、ここを自分に使わせてくれるだろうか、と不安になったのを覚えている。
食事が終わるとリビングで紅茶を飲む。紅茶はアーサーが淹れてくれた。シンジもアーサーから及第点をもらえる位にはおいしい紅茶を淹れられるようにはなったけれど、特に夕食後の紅茶はアーサーは自分で淹れたがる。シンジもアーサーの紅茶が好きなのでこれだけは遠慮しないで頂いている。
一応テレビはついているけれど、アーサーは見ている様子ではない。
今日みたいに帰ってきてからずっとオフィスに篭っていても、お茶の時間のアーサーはゆったりしている。この家を出ないシンジには話すこともなくて、自分から話しかけることはない。アーサーも仕事の話はシンジにはできないのか、しても意味がないと思っているのか、あまり口を開かない。時々仕事で出会う人々の奇妙な行動を話してくれたりはするが、それもそんなに盛り上がるようなものではない。
静かといえば静かなティータイム。でもシンジはこの時間が好きだった。
この家は、アーサーの居る所は、居心地が良い。
”なんでだろう”
不思議に思いながら紅茶をおかわりする。
「ああそうだ。明日買い物行くから。欲しいものはメモしておいてくれ」
「食事のリクエストがあれば作りますけど」
「そうだな。
・・・カレーかな」
シンジは少し笑ってしまう。
作れるか? と聞かれ、流石にルゥからなんて無理なので、元になるもの(日本ではカレールゥというものがあるのだと説明した)があれば作れるかも、と答えたら『ティッカマサラ』というものを渡された。カレールゥっぽかったのでそれでとりあえず作ってみたら好評だった。
好きなのはいいが、希望を聞けば8割までカレーと返ってくるのはどうなんだろう。流石にまるっきり同じものを作るのは抵抗があったので、野菜を変えたり牛肉じゃなく海老とイカを入れてみたりとバリエーションは考える。が、そろそろネタも尽きてきた。今度は何にしようかと考えていたら、アーサーが少し憮然と言う。
「別にいいだろ? 好きなんだよスパイスが効いた料理」
「僕も好きですよカレー」
アーサーの言い方・表情に苦笑しながら『具もリクエストしてもらえると助かります』と続ける。
「いろんな野菜が入った奴がいいな」
「わかりました」
そういって買ってきて欲しいものを考える。数秒後。
「カ、カレーだけじゃなくて・・・シンジの作るのは全部旨いと思ってるぞ」
赤い顔で語尾は小さく消えて、
「だから別に、カレーじゃなくても何でもいい」
そんな風に言う。
”か、かわいい”
年上に思うことじゃないよなと考えながら、『わかりました』と答えた。
”おかえりなさい”
”おかえりなさーい”
”今日は楽しいことあった?”
”街はどうだった?”
敷地に入ってから妖精たちがうるさい。けれどイギリスは視線を少し向けるだけで返事はしない。車は玄関前にゆっくり止まった。
「お疲れ様でした。明日は8:10にお迎えにあがります」
秘書官が封筒を手渡しイギリスに言う。
「わかった。アビーによろしく」
「ありがとうございます」
イギリスは車を降り背を向けて初めてにっこりと笑う。背後で車の遠ざかるじゃりじゃりという音を聞きながら口を開く。
「あいつらがいるときに声かけんなよ。仕事も街も、いつもと変わらないよ」
彼らが近くにいる間はイギリスは答えを返さない。妖精たちもわかっていて声をかけている。
鍵を開けドアを押す。廊下は無人だった。珍しい。いつもはシンジが出迎えてくれるのに。
「シンジは?」
妖精達に聞く。
”庭だよー”
”寝てる”
”起こす?”
「いや、いい」
上着を脱ぎネクタイを弛めてイギリスはキッチンへと向かう。
シンジが使うようになってもそこは違和感を感じさせない。イギリスが使っていたように使ってくれている。そういう気の使い方を嬉しく思う一方で、子供のくせになぁとも思う。シンジの過去を思えば仕方がないのだろうが。
お湯を沸かしてお茶の準備をする。仕事中にも紅茶は振る舞われるが、家に帰ればやはり自分で淹れたいと思う。お茶菓子まで作る気はないので、クッキーの缶を開ける。牛乳を少し、皿にとりわけ窓枠に置くと”ありがとう”と声がした。大仰に『My
pleasure』と返しながら残りをミルクジャーに入れティーポットとカップを準備する。
一通り準備ができるとトレイに乗せてイギリスは庭に出た。
奥の一角がぼんやりと光っている。
イギリスは緩やかな足取りでそこへ向かう。
緑に囲まれた小さなスペースはイギリスのお気に入りの場所でもある。小さなベンチとテーブルを置き、こうしてお茶や読書ができるようにしてあった。そのベンチにシンジが眠っていた。周囲には妖精達が飛び交い、髪を引っ張ったり肩や頭の上で踊ったりしている。しかしシンジに起きる気配はない。どうもこの庭の者だけでなく、近くの庭の住人も来ているようだった。
トレイをテーブルに置き腰に手を当て息を吐く。
「ほんとお前らこいつのこと好きだよな」
珍しい事だ。自国の人間でさえこれほど気に入られることは少ない。
シンジがここに来た時からそうなのだ。普段は警戒して遠巻きに見ている連中が、興味を隠せずにシンジに近寄っていた。さすがに初日からこれほどまとわりついたりはしていなかったが、今では見えないのといいことに(?)いたずらを仕掛けたりして妖精達はシンジに構いまくっている。
”だって良い匂いがするんだもん”
”すごくいい匂い!”
”近くにいると気持ちいいの”
”いい匂い””気持ちいい”と皆が口にする。彼らの言う『匂い』はイギリスにはわからない。けれどこれだけ気に入られているのだから相当なのだろう。
「見えてないからっつっても程ほどにな」
振り向いたら置いたはずの物がないなどというのは日常茶飯事だ。イギリスは慣れているけれど、シンジは素直に悩んでいたようだった。妖精の仕業だなどと言っても理解はしてもらえないだろう。『うちではよくあることだ』と気にしないように言ったが、さてどう思っているのやら。
”だっておもしろいんだもの””面白い””面白い!”
悪気がないだけに困る。こちらが困っているのを見るのが楽しいというのだから困る。
「連れてったりするなよ?」
悪戯が過ぎて何事かが起こらなければいいとイギリスが言う。昔はよくあったのだ。気に入った人間を自分たちの世界へ連れて行くということも。シンジには彼らが見えていないけれど、これだけ気に入られているのを見ると少し不安になる。
”この子は無理よ”
”連れて行けないの”
”ダメ””連れってちゃだーめ””無理無理”歌うように皆が口を揃える。
イギリスは驚く。
「すげぇ気に入ってるのに何でだ? 俺の客だからか?」
”違う、違う、ちがーう”
”この子は連れて行けないの”
”招いちゃダメなの”
理由は言わずただダメとだけ繰り返す。
シンジが此処に預けられた理由に絡んでいるのだろうか?
シンジが来た翌日にはイギリスの手元に資料が届いていた。『碇シンジ』と今回の件についての調査報告はそれほどの量ではなかった。いくつかは調査中であり、また多分に推測が含まれていた。
「なぜ貴方が引き受けなければいけないのですか」
はっきりとそういった奴もいたが、今はまだイギリス個人の意思で動いても問題はないレベルだと判断した。これがもし国土や国民に何らかの形で影響や害が及ぶことになれば、イギリスは国として対応しなければいけない。いくらシンジを気に入っていても、このまま預かることはできなくなるだろう。それは日本でさえも同じはずだ。シンジ一人のために国家を犠牲にはできない。
情報は逐一イギリスの耳にも届けられている。イギリス自身は楽観視している部分がある。だが予断は禁物だった。
行儀が悪いなと思いながら、テーブルに腰掛けて紅茶を飲む。
シンジは、イギリスの作った料理を全て平らげた。
『お前の作る飯はまずい!』と散々言われているし、実際自分でもフランスの作るものと比べて旨くないことはわかっていた。日本は何も言わずに食べてはくれたが全部ではなかったし、アメリカに至っては手もつけない。だからシンジもそうだろうと思っていたのだ。
『全部、食べたのか』
その問いかけに首をかしげて『ごちそうさまでした』と答えられた時、イギリスはシンジに優しくしようと決めた。できるだけのことはしてやろうと。妖精たちに気に入られているというだけでなく、イギリス自身がシンジを気に入ったのだ。
その後もイギリスが作った料理をシンジは残さなかった。おいしいと思っているかはわからないけれど、それでも全部食べてくれる。それだけで十分だった。
シンジが家のことをさせて欲しいと言うので、料理も作ってもらうようになった。シンジの作る料理は旨い。ちゃんとした料理が作れるのに、シンジは一度もイギリスの料理に否定的なことを言わなかった。
言えない、のかもしれないとも思う。小さい頃からあちこち預けられて育ったようだし、中にはあからさまに邪険にするところもあったようだ。
それでもイギリスは嬉しかった。だからこうしてお気に入りの場所での居眠りも許しているし、お茶くらいいくらでも淹れた。
おかわりを注ぎながら眠るシンジを眺める。
ぴくり、と瞼が振るえ、ゆっくりと開く。目を擦りながらぼんやりと周囲を見渡す。
「お茶はいってるぞ」
そういってシンジのカップにたっぷりと注ぐと手渡した。
「あ、ありがとう ございま、す」
まだ少しぼけた感じで礼を言い、シンジはこくりと一口飲む。それからようやく状況を理解したようだった。
「あ、れ。アーサー? え? 僕」
「気持ち良さそうに寝てたな」
「ごめんなさい。つい」
「ああ、気にしなくていい。ここはそう言う場所だから。眠くなるのもわかる」
「ご、ごめんなさい」
小さく謝って俯く。本当に気にしなくてもいいのにとその丸い後頭部を眺める。小さいよなぁとイギリスは思い、唐突にそれが閃いた。
「お前、学校どうしてるんだ?」
「はい?」
急な話題にシンジは変な顔をした。
「学校だよ。学生だよな」
「はい」
「Secondaryだよな。sixth formってことは、ないよな」
「ええっと、中学生、ですけど」
「義務教育だろ?」
「はい」
「学校どうなってんだ?」
「休みです」
「学校が?」
「いえ、僕が。休学扱い、なのかな」
「お前それで大丈夫なのか?」
「えーっと、どうなんだろう」
曖昧に笑うシンジを見て、イギリスは日本に電話をしようと決めた。
ロンドンでは日本の食材や調味料も買うことができる。それがシンジの思うものかは別だが、イギリスにはわからなくても店員に聞けば大抵の物は手に入った。細かいことを言えば、味噌や醤油、米にしたって色々な種類があり、メモを片手の買い物では間違いもある。シンジが買い物に行けばもう少し思う物が揃うだろうに、シンジは外出を嫌がった。
確かにイギリスとしても、警備のことなどを考えればじっとしていてくれた方が楽だ。しかしずっと家に閉じこもっていても気が塞ぐだけだろう。そう思うから『俺と一緒なら大丈夫だ』と声をかけるのだが、どうしてもシンジは首を縦に振らなかった。
醤油の匂いが漂っている。濃い目のその匂いにどうも日本食らしいと思う。 醤油を使っているからと言って必ずしも日本料理を作っているわけではないようなのが面白い。日本人はよその国の料理もうまく自国のものとして取り込んでいると聞くが、こちらの料理を作っている時もアレンジで日本の調味料を入れていることがあるようだった。イギリスは素直に感心している。
最初こそ慣れずにモタモタしていたが、今となってはキッチンはシンジの城だ。それでいてイギリスが使っていたときと使い勝手は変わらない。ガキのくせにとんでもねぇな、と思う。
料理については不評ばかりのイギリスだが、彼自身はキッチンに立つことが嫌いではない。まぁ作ってる方だよなとも思っている。最近ではまずいまずいと言われ過ぎて『旨い物を作ろう』という気持ちはあまりない。要は食えればいいのだ。料理にこだわるくらいなら他に力を入れたいところはいくらでもあった。
だた妖精たちに悪戯されながら時々庭を見ながら料理をするのは楽しいと思っている。
シンジが来て、こうしてキッチンで調理している気配を感じながら食器やカトラリーを置き、見た目がよいように飾るのも楽しいものだな、と思うようになった。余裕があれば、食事に時間や労力をかけるのも悪くはない。
フランスが来ているときも同じように準備はしているのだが、掛けられる言葉に過剰反応してしまうのでこんな風には落ち着けない。
庭から取ってきた花を小さなグラスに刺しテーブルに置く。考えずシンジの席に立ち、見える窓の景色とのバランスを取る。
パン!
キッチンから聞こえてきた綺麗な破壊音に、イギリスは冷静に”割れたな”と思う。”きゃーぁ”と騒ぐ妖精たちの声。どのくらいのサイズの物が割れたかまで頭に浮かぶ。それからキッチンを振り返る。
床で破片になっているのは思った通り大皿だったが、それよりイギリスの目に映ったのは慌てて破片に手を伸ばすシンジだった。怪我をするかもなどと思っている動きではなく、割れた断面を思いきり持つ。
「バカ! 何やってんだ!」
声を上げたのとシンジの指から血が零れたのはほぼ同時で、シンジはビクリ、と痙攣するかのように震えて欠片を落とした。
「見せてみろ」
大股で近寄ってその手をぐいと引く。
「ひっ」
息を呑む音に、力が強かったかと手を弛める。シンジは小さく頭を抱えるようにしてうずくまったまま何かを言っている。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい・・・」
様子がおかしい。
「シンジ? おい大丈夫か?」
イギリスはシンジの側に膝を付いて問う。だがシンジは答えずただずっと謝り続けている。指は思ったよりも深く切っているようで、またぽたりと赤黒いしずくが落ちた。ポケットからハンカチを出して傷口に当てる。欠片が残っている可能性を考えたが、軽く圧迫しても痛がらないので大丈夫だろうと判断する。
それよりもシンジがおかしい。
小さくなって震え謝罪の言葉をこぼし続けるその姿は完全に『怯えて』いた。
「なぁ、皿割ったくらいでそんなに怒ったりしないぞ?」
子供に言うような言い方になってしまったがシンジには聞こえていないようだった。
「おい?」
腕を引くと小さく悲鳴を上げてますます体を縮込ませる。
「大丈夫だぞ? 泣いてるのか? バカだなぁ」
少しふざけた調子で言葉を継いで、その頭や背中を撫でた。『大丈夫』と繰り返し、抱えるようにして数度その背を叩いた。それから頭を撫でてくしゃ、と髪を混ぜる。
どのくらいかしてふと、シンジの体から力が抜けくたりとイギリスにもたれ掛かってきた。
「おーい?」
眠ったのか気を失ったのか、シンジは目を開けない。抱え直すように体の向きを変え切った指を見る。ずっと押さえていたから出血自体は止まっていた。けれどぱっくり皮膚が切れていてこのままというわけには行かなさそうだった。顔を上げると妖精たちは遠巻きに様子を伺っている。
「悪いが救急箱頼めるか」
イギリスが声をかけるとふいと飛んで行く。ぐったりとしたシンジを抱き上げリビングへ移動する。とりあえずソファに寝かせると側のテーブルに救急箱が既にあった。
「ありがとうな」
簡単に消毒してガーゼを当てると包帯を巻く。絆創膏でも良いかと思ったが、少し傷の方が大きい。そうして一息つくと声がした。
”火がつきっぱなし”
「ああすまない」
シンジの側を離れるのは不安だったが仕方がない。
キッチンは少し焦げ臭かったが煙でいっぱいと言うこともない。イギリスはコンロの火を消し鍋のふたを開ける。大きめに切られた野菜は、表面は綺麗だった。でも底の方は少し黒いかもしれない。まぁ食べられないことはないだろうと蓋を戻す。
床を見ると割れた皿がまとめられていた。袋にそれを入れていく。床に零れた血の痕も拭き取る。指に少し血がついていたので手を洗う。そうして、さてどうしたものかと息をついた。
”起きたよー”
妖精に言われてリビングに行くとシンジがソファに身を起こしていた。
「大丈夫か」
イスを寄せて座り、額に手を当ててみる。熱はないようだった。けれど髪は少し湿っている。張り付いた髪を梳くように流す。
シンジはしばらくぼうっと自分の手を見ていた。それからゆっくり顔を上げる。
「ごめんなさい。お皿、割っちゃった」
どこか無表情でイギリスは眉をひそめた。こういう顔は初めて見る。
「そんなの気にしなくていい。それより指、大丈夫か」
「指?」
指を見ているのだと思っていたがどうも違うらしい。
「これ、アーサーが?」
「少し深いから、しばらくはそうしてた方がいいな」
「うん」
小さく頷いてそのまま頭は垂れたまま。イギリスは少し迷ったが、聞く。
「皿割った後のこと、覚えてるか」
首を振る。ほんの少し、間を置いて
「びっくりして・・・」
ため息のように小さくこぼす。
「前にもあったのか」
首を振る。胸のところを握り締め、顔を顰めた。指が痛むのだろう。また少し、間を置いてゆっくりと視線をイギリスに向ける。
「たぶん、ちょっと思い出して」
泣きそうな顔だった。イギリスは頭を抱き寄せるようにしてこめかみに口付け、こつん、と額をくっつけた。
「無理に言わなくていい」
ゆっくり頭を振る。吐き出したいのだろう。
「昔、ちょっと殴られたんだ。・・・茶碗割って」
「うん」
「あ、父さんじゃないから。そのとき預けられてたとこで」
少し慌てて言葉を継いで。表情が動いたことに少しホッとしたイギリスは、くしゃくしゃと、わざと少し乱暴に髪を混ぜる。
「そんな奴は滅多にいないし、俺は皿割ったくらいで殴ったりしない」
「アーサーがそうだって思った訳じゃ」
「わかってる」
そう言ってシンジの顔を見る。見て笑う。
「難しいと思うけどな、そういのは抱え込んじゃだめだ。我慢して持ってたってろくな事がない」
「うん」
今回が初めてだと言うのならそれほどひどいものではないのかもしれないが、尋常でなかったのは間違いない。日本に教えた方がいいだろうかと考えながら、しばらくシンジの頭を撫でていた。
「さてどうする? 食えるようなら飯にするか」
しばらくしてイギリスは立ち上がって言った。
「あ、ナベかけっぱなし」
「火は消したぞ。ちょっと焦げてるみたいだが食えるだろう」
『うわぁ大丈夫かな』とソファから立ち上がった様子は思ったよりしっかりしていた。とりあえずの問題はなさそうだ。
ドアが閉まったのを見てイギリスは視線をテーブルに移す。シンジの血が染み付いたハンカチがある。それを手に取り目の前にかざす。
赤い、血。
しばらくそうして眺めて、はぁ、とため息をこぼす。
イギリスはそのハンカチをガーゼの残りで包みポケットに入れた。
休日の午後。キッチンはアーサーの場所に戻る。シンジも興味があるので手伝わせて貰うが、基本アーサーが作りたいものをアーサーの指示で作る。とはいっても料理ではなくお菓子だ。スコーンやフラップジャックスやクランペットその他、お茶請けとしてのお菓子をのんびりと作る。午前中は庭いじりがメインだが、生地を寝かす必要がある場合は先にそっちを仕込んでいる。毎日働いて庭の手入れをしてからなんて疲れているだろうに、鼻歌まじりであれこれしている所を見るとよっぽど好きなのだろう。もしかしたら普段も本当は料理をしたいのかもしれないと思って一度聞いてみたが、『あれは休日の楽しみだから』と少し変な顔で笑っていた。
料理は大雑把みたいなのにお茶菓子作りは丁寧なのは何故なんだろうとシンジは不思議に思う。やっぱり思い入れの違いなんだろうか。丁寧につくられるそれらは素朴でおいしい。まぁそれでも時々、お茶なしでは到底食べられないほど粉っぽいスコーンなんかも出てくるのだけれど。そう言う時のアーサーは仕事に気を取られていることが多かった。
庭へはキッチンからもダイニングからも出て行ける。ダイニング横には蔦の絡まるパーゴラがあり、日中でも日差しは当たらない。天気さえ良ければそこでお茶をする。イギリスだから、いつも天気が良いわけではない。お茶の途中に霧雨のような雨が降りてくることもある。そんな時もアーサーは慌てずにすっとトレーを持ってダイニングへ避難する。ガチャガチャ食器を鳴らすこともない。晴れていなければ最初からダイニングでお茶をする。濡れた緑が綺麗で、窓枠が額縁のように庭を切り取る。シンジの部屋から見る庭も綺麗だったが、やっぱりダイニングから見ることを基本に考えられているのかもしれなかった。
休日ほど時間を取れないけれど、仕事から帰ってきたアーサーはまずお茶を飲みたいらしくすぐにキッチンに向かった。今は時間を見計らってシンジが用意しているので、すぐに庭でティータイムとなる。
初めてこのお茶の時間に呼ばれた時、シンジは『これが噂のアフタヌーンティーか』と思った。実際のアフタヌーンティーというものを知っていたわけではなく、ただ言葉を耳にしたことがあっただけだった。お茶はマグカップに用意されていた。この時もだがアーサーは仕事から帰ったときのお茶はマグカップで飲むことが多い。マグカップといえばコーヒーとかインスタントスープというイメージしかなかったシンジには少し衝撃的な絵だった。なんとなく紅茶はティーカップでという印象も強かったから尚更だ。それでもたっぷりのお茶とお菓子を置いてのゆったりとしたティータイムはなんかいいなぁと思っていた。
何度目かの時に『これってアフタヌーンティーってやつですか』と聞いたら、アーサーは違うぞ、と笑った。
「セットはあるから、今度作ってやるよ」
そう言われて数日後に用意されたのはスコーンとケーキとサンドイッチが乗ったかわいい3段のティースタンドとお茶だった。そういえば何かでこういうのを見たかもしれないとシンジは思ったが、なんというか日本での自分の生活にはこれはないな、という印象もあった。ティーポットや皿などの食器もアンティークな感じで、これを普段使いする気にはなれない。
「はぁ。すごいですね」
「何が」
「いやだってこれ、ホテルでお茶ってより豪華ですよ」
「こっちじゃわざわざこういうのを出してる所もあるから、ホテルでも食えるぞ。高いけど」
「そうなんですか」
自分も行ってみたいかもしれない。日本でもやってるホテルとかありそうだなぁと考える。
「こういうのだって知らなかったから、イギリスの人は今でも”アフタヌーンティー”を毎日してるんだって思ってました」
「そりゃ無理だな。これも略式だし」
「え、正式とか略式とかあるんですか」
「今はほとんど形骸化っていうか観光客向けのメニューになってるからあんまり言われないけどな。昔は色々うるさかったんだ」
何がどう違うんだろう。日本の茶道みたいに手順があったりするんだろうか。スコーン1個食べる間に紅茶は何杯とかそういう決まりだったりするのかもしれない。さすがに席に着くまでの流れまで決まっているわけではないと思うんだけど、どうなんだろう。
「お茶の時間って意味では毎日あるけどな」
「毎食後紅茶ですもんね」
「起きて紅茶、食べて紅茶、休んで紅茶、寝る前に紅茶だ」
少し自棄ぎみの言葉に、シンジは揶揄われたりするのかな、と思った。イギリス人がってことはないだろうから、やっぱり他の国の人か。この間のフランスさんとかかな、と考える。
「シンジは緑茶? それともコーヒーか」
「僕は緑茶はあんまり。ちゃんと淹れれば美味しいらしいですけど苦くて。朝はインスタントコーヒーが多いかな。でも飲み物は缶とかペットボトルが出回ってるから、そういうの買うほうが多いです」
「なんでコーヒーのが人気あるかなー。紅茶の方が絶対旨いのに。まぁでもうちも最近じゃ微妙かな」
「そうなんですか」
「アメリカ資本の店が色々できたから、そっちに行く奴も多いみたいだな。家で飲むっていってもほとんどティーパックになっちまったし。茶葉で入れてもポットじゃなくティーサーバーでガシュっ、だ」
「ここにもありますよね、ティーサーバー」
「忙しいときとか、とりあえず飲みたいときとか、あと朝一杯だけ入れたいときとかには便利だからな」
「ティーポットがあってティーサーバーがあって、カップもマグカップもあって、茶葉もいっぱいあるし。どこの家もこうなのかなって思ってたけど」
「珍しくはないと思うぞ。どこもかっていうとそんなことないだろうけど」
「本当に好きなんですね」
「うーん、コーヒーも飲めないわけじゃねぇんだけどな」
そんな他愛もない会話をするには、ティータイムは最適だった。
その日、思い返してみれば朝からシンジは調子が悪そうだった。笑うけど、どこか弱い。食事量が少なかったような気もしたが、最初から少なめに盛っていたのか、残してはいなかった。顔色も悪かったのかもしれないが、イギリスにはわからなかった。
いつも通りに食事を作り、洗濯の準備をし、イギリスを送り出した。だがイギリスは「ん?」と思ってはいたのだった。
昼食後、執務室で書類を片付けていた。外は相変わらずの小雨だったが窓は開けていた。室内に吹き込むほどでもなかったし、湿度が気になるほどでもなかったからだ。
窓の外には植物が多くあり、雨に濡れて色を変えている。外から室内が見えないよう背の高い木々が植えられているが、窓へ移れるような距離ではない。その間には、空間としては狭かったが、そこらの庭に負けないくらい様々な植物が美しく配されて咲き誇っていた。
行政機関は近代的な建物も多い。しかしイギリスは多少無理を言って古い建物で仕事をしている。無粋な人間が歩き回り電化されてはいるものの、古い建物に緑の庭があれば、彼らが遊びに来れるのだ。
小さな隣人達はイギリスの近くに居たがる。無理を言ったのは彼らのためでもあったが、あまり近代的な場所ではイギリス自身が息苦しいのも確かだった。窓など彼らには関係ないけれど、こうして開けておけばその気配をより近くに感じられる。それは自然を感じることでもあった。
”イギリス、大変”
飛び込んできた妖精達がイギリスの周りを飛び回り”大変大変”と騒ぐ。こうして仕事の邪魔をすることも往々にしてあった。基本的に彼らは騒ぐのが好きで、小さなことでも大騒ぎして伝えてくる。けれど今回は違った。
「大変なのはわかったって。何が大変なんだ?」
ペンを置きイギリスが手を出すと彼女たちはそこに留まる。そんな風にすぐに落ち着くのも珍しいことだった。
”コテージから。あの子が倒れたんですって”
「え」
”早く帰ってきてって”
がたん、とイスを蹴倒す勢いで立ち上がる。
「わかったすぐ帰るから、伝えといてくれ」
”うん”
妖精達は外に消える。イギリスは内線に手を伸ばし部下を呼んだ。
「シンジは?」
ドアに駆け寄り鍵を開けながらイギリスが聞く。背後にまだ車がいることも頭にはない。
”庭”
”キッチンのとこ”
「外かよっ」
ドアを開ける手間すら面倒だったが蹴破る訳にもいかない。そのままキッチンへ走る。この家の中を走るなんて初めてではないだろうか、と思ったがそのまま駆け込んだ。
庭への扉が開いており、シーツと足が見える。シンジはシーツを被るような形で倒れていた。
「おい、シンジ」
雨はまだ止んでいなかったが、シーツのおかげかシンジ自身はそれほど濡れていない。けれど髪は汗で張り付いていた。抱き起こした体は少し熱い。
シーツごと抱え上げ、少し重いがまあ運べるかと一歩踏み出して、シンジの部屋が2階であることを思い出す。このまま運べなくはないが万が一にも途中で落とすわけにはいかない。仕方なく一度下ろして背負った。
”雨で洗濯物取り込もうとしてたの”
”そしたら急にずるずる〜って”
妖精たちが状況を教えてくれる。脱力して掴まってくれない体は後ろに倒れそうで怖かった。腰が辛いが前屈みになるしかない。ゆっくりと階段を上り、ドアを開けシーツを剥いで横たえる。
くるんでいたシーツで汗を拭き、着衣を緩めていると、ぼんやりとシンジの目が開いた。
「あ・・・さ・・・?」
声が掠れていて少し聞き取りにくい。
「気がついたか。今薬持ってきてやるからな」
目は潤み少し焦点が合っていなかったが、イギリスを捉えてはいるようだった。震えもない。たぶん、それほどひどい状態ではないのだろう。熱もこれ以上は上がらないか。少しほっとして黒い髪を梳く。
「せんたく、もの・・・」
「ん?」
小さい声は口の動きを見ていなければ何を言っているのかわからない。
「あめ・・・・・・ぬれる・・・」
「ばか。自分の心配しろ」
くるんでいたシーツは床に捨て、ベッドに掛かっていた綺麗なシーツで体を覆ってから部屋を出た。
お湯に溶いた薬とタオル、氷水を張ったたらい、それに水のボトルを持って戻る。
「おい、飲めるか?」
返事はないが、視線はイギリスに向くので体を起こしてやる。口元にコップを当てると何とか両手で持とうとするがどうにも力が入っていない。ゆっくり傾ける。
「薬溶かしてあるから、全部飲め。残すなよ」
そういうと一口ずつ、こくりこくりと飲んでいく。く、と最後の一口を飲むと
「あり、がと」
と言った。擦れが少し取れている。寝かせてしっかりシーツをかぶせ、絞ったタオルを額に置く。
「喉乾いたら飲めよ」
とボトルは枕元に置いた。小さく頷いたのを確認する。
しばらくしてすぅっとシンジが眠る。タオルを替えてシーツを整えるとイギリスは携帯を取り出した。
仕事の指示を出し、書類を頼む。とりあえず明日の仕事はここですると伝え『あとは様子を見て連絡する』と告げて切る。
結局イギリスはシンジの枕元で書類を見ながら一晩起きていた。
途中シンジは何度か目を開けた。熱のせいか寝ぼけているのか、はっきりとした会話にはならなかったが水分だけは無理に摂らせた。夜中過ぎからは一度も目を覚まさなかった。それが良い状態かどうかイギリスにはわからず、どうしても側を離れる気になれなかった。
妖精達に状態を聞いてもみたが、彼らにもわからないようだった。
朝になってようやく、シンジはすっきりと目を開ける。上体を起こして話す様子はかなりしっかりしていた。とりあえず薬が効いたみたいだな、と思ってからイギリスは、飲ませても大丈夫だったんだろうか、と少し不安になった。
「体どうだ? 変なところないか?」
「ありがとうございます。もう大丈夫。アーサー仕事ですよね、行ってください」
「ばか言うな。いくらなんでも昨日の今日でそんなことできるわけねーだろ。今日はこっちで仕事することにしたから、余計な心配すんな」
「ご、ごめんなさい」
「別にシンジのためじゃない。預かってる以上当然のことだ。だから謝る必要はない」
「はい、すみません、ってこれもか。あの」
「いいから。それより、調子が悪かったんなら言えよな」
「ごめ、あ、えっと。大丈夫だろうって、思ってて。喉乾燥してるのはわかってたんだけど、水分取ればいいやって思ってたから」
「こっちは雨降るけど意外と乾いてるからな。気候の変化についてけなかったか」
「たぶん。風邪なんて久しぶり」
「倒れたって聞かされたときはびっくりしたぞ。っても別にそんな慌ててないけどな」
「聞かされた? え、でも誰もいませんでしたよ。誰か来たりもしてないと思うけど・・・」
しまった、と思うのはいつでも遅い。
「あ〜」
変な声を出してしまい、イギリスは口に手をあてた。さてどうしたものだろう。このままなんとか誤魔化せるだろうか。ちらりとシンジを見る。その周囲にはやはり妖精たちがまとわり着いている。シンジの回復を喜んでいるようだ。これだけ好かれているのだから、シンジにも彼らのことを知ってもらいたいな、とイギリスは思った。思ったが、迷う。
「アーサー?」
黙りこんだイギリスを訝しんでシンジが問う。イギリスの様子に妖精たちも”どうしたの?”という顔をして見た。その表情を見て、イギリスはゆっくり口を開いた。
「妖精たちが、教えてくれたんだ」
「妖精?」
シンジの表情は全く変わらず、ああこれはわかっていないな、と思う。
「うちにはっていうか、まぁ主に庭にだけど、妖精がいるんだ。妖精。わかるか?」
「えーっと、あの羽の生えた、小さい、えっと、ティンカーベルみたいなの?」
「うん、そういうのもいるな」
「それが?」
「今もシンジの周りを飛び回ってる」
「え」
シンジがきょろきょろと辺りを見回す。妖精たちはその目の前で手を振ったりして一生懸命存在を主張しているが、やっぱり見えていないようだ。
「まぁ見える奴が珍しいんだ。見えなくても仕方がないから気にするな。妖精たちは離れてても意思を伝える手段を持ってるみたいでな、うちのやつらが向こうの連中に伝えてくれたんだ。後で礼を、って無理か」
言いながら立ち上がる。たらいはもう要らないだろう、ボトルはもう1本持ってきておくか、と考えながら手に取る。
シンジはぽかんとイギリスを見上げている。信じるとかの前に、言葉の意味を咀嚼できていない顔だった。
それを見下ろしながら、”目、黒ってわけじゃないんだな”と変なことを思う。
「わからないならわからないでいいさ。今考えんなよ。とりあえずもうちょっと寝てろ。後で何か簡単なもん作ってきてやるから、食って寝ろ。早く治ってもらわないと困るからな」
ポンとシンジの頭に手を置いてから、イギリスはドアに向かう。
”喉にはハーブティーもいいと思うわ、イギリス”
妖精の声には手を上げただけで答えた。
夜、イギリスは自宅オフィスでいくつかの書類を処理していた。指示を書き込み付箋を貼る。慌てる仕事ではないが、今しておけば明日の仕事が楽になる。あとでシンジにお茶を淹れて貰おうかなどと考えていたら携帯が鳴った。
「Hello」
『夜分済みません。ご報告が』
声のトーンで何かあったとわかる。促すと『日本の人工進化研究所が爆破されました』と告げられた。シンジの父の研究所だ。
「爆破?」
『表向きは事故と報道されています。たぶんこちらのニュースでももうすぐ流れます』
「こっちで?」
あり得ない。日本のたかが一研究所の事故を流すだけでも考えられないのに、この早さ。
『テロ、という形で報道されます』
その言い方で、止められなかった事がわかる。やられたなと思う。イギリスはそのままオフィスを出た。階下へ向かう。恐らくシンジはリビングだ。テレビを見ているならこのニュースも聞くだろう。
「わかった。とりあえず確認を急いでくれ。あとシンジの監視には十分注意を」
『わかりました』
携帯を切りリビングのドアに手を伸ばす。ノブをつかむ前にドアが開く。
「あ、アーサー!」
飛び出してきたシンジとぶつかりそうになる。イギリスは体を引いたがシンジが詰め寄る。
「父さんの研究所で事故があったって、」
視線を奥に向ける。テレビでは『テロか?』の文字と共に黒煙を上げる建物が映し出されていた。かなり規模は大きそうだ。
「リツコさんと連絡取りたいんだけど、アーサーわかる?」
迫るシンジをそっと押し返しリビングに戻す。ソファに座らせて落ち着くよう言う。
緊急時にと赤木から聞いていた番号にかけてみるが繋がらない。そのまま日本の携帯にもかけてみる。やはりこちらも繋がらない。
「今は無理だな」
「どうしよう。父さん、大丈夫かな」
「落ち着けって。こっちでも情報集めるように指示してあるから待てよ。焦ったって出来ることなんざないんだから」
「でも」
視線をテレビに向ける。ニュースは次のものに変わっていたが、多分しばらくは繰り返し流れるだろう。誰だか知らないがやってくれる、とイギリスは内心で舌を打つ。報道自体は多分早々に規制できる。適当な内容で終わらせて、明日以降は消えていくだろう。だがこうしてシンジが見てしまったのだから、目的は達成されていた。
これが国内だけで放送されているのか、イギリスは気になった。他国でも報道されていればいいのだが。爆発についてはわからない。しかしこの報道はシンジをあぶり出すためのものだ。
シンジは立ったり座ったりして落ち着かない。
「アーサー、あの」
言って「あ、でも」と腰を下ろす。また電話をかけて欲しいとか、携帯を貸して欲しいとか恐らくそういうことだろうが、言ってもいいのか迷っている。固定電話は使い方がわからないのだろう。視線をそちらに向けるがすぐに下を向いた。
動揺し狼狽しているシンジに比べてイギリスは落ち着いていた。関係者ではない、というのもあるが、少しは裏を読めることも大きい。何もわからない状況で焦ることの無意味さを良くわかっているというのもある。何より、テレビの報道などより正確で早い情報を手に入れられる。これが一番大きかった。
恐らくこの後、何らかの形で父親についての情報も流す予定だったはずだ。シンジを誘い出すつもりならそうする。だから規制をかけた。わかっていれば対応できる。なのにシンジのこの焦り様は。
イギリスでさえ把握しているシンジ自身の事をシンジは知らないということだろう。シンジの様子からそうかもしれないと思っていたが、それでもイギリスは驚いていた。
携帯が鳴る。シンジが顔を上げる。日本からだった。
『こちらもまだ確実な情報は得られていないんです。碇氏については所在、安否ともに不明です。現場内にまだ居る可能性も十分にあって、急がせているんですが』
「シンジが心配しているんだ。赤木博士か誰か、連絡が取れないか?」
とりあえずシンジの耳に、知っている誰かの声で話を聞かせたかった。
『こちらでも連絡を取ってみます。イギリスさんの携帯でいいですね』
「ああ。あとシンジに変わって良いか?」
それで日本は察してくれたようだった。『日本だ』と言って携帯を渡す。
「本田さん!」
シンジがしがみつくように携帯を取る。シンジの知りたいことを今知るのは無理だ。だが、日本のことだから上手くここで待っているよう言ってくれるはずだ。小さく『はい』と繰り返すシンジはずっと俯いていた。そして泣きそうな顔で携帯を差し出す。イギリスは簡単に挨拶をして通話を切った。
ソファの上で膝を抱えて丸くなってしまったシンジを眺める。落ち着けば、イギリスの側にいる方が確実な情報を手に入れられるとわかるだろうか。とにかく今は様子を見るか、とイギリスはため息を吐いた。
結局、その夜はまったく情報が入らず、一晩まんじりともしないで明かしたシンジはテレビのチャンネルを変えてニュース番組をチェックしている。けれどすでに規制がかかったらしく、あれ以降まともに事故のニュースが流れることはなかった。それがシンジを苛立たせている。
赤木か、せめて日本が電話してきてくれないだろうか、とイギリスは思ったが携帯は沈黙していた。
数時間もせずいくつかの情報がイギリスの元に届くだろう。もしゲンドウの状態が悪かった場合、どうしたもんだろうなと考えながらイギリスは立ち上がった。
「飯にしよう」
動いていた方が気が紛れるのか、食事は作るとシンジが言うので任せた。
シンジを一人にしておくのはまずいと判断したイギリスは家で仕事をすることにした。書類を運ばせ指示を出す。シンジの様子を見ていたかったので、オフィスには上がらずリビングで仕事をする。シンジはテレビの前から動かない。
携帯が鳴った。赤木からだった。赤木自身も怪我をして病院に運ばれているらしい。簡潔に情報を伝えた赤木は『シンジ君のこと、もう少しお願いします』と言った。けれどその肝心のシンジが現状をまったくわかっていないのだ。その事に少し腹を立てていたイギリスは
「必要なら俺が全て話すぞ」
と告げ、シンジと換わる。シンジはもぎ取るように携帯を手にすると父親の状況を聞いた。
”どこかの病院に搬送されているはずだが確認が取れてない”
それはわからないのと同義だったが、自身もベッドの上らしい赤木にそれ以上のことがわからないのも仕方がなかった。
昼前に秘書官が書類を持ってきた。玄関で受け取りその場で目を通す。長いため息を吐いてイギリスはリビングに戻る。
ソファの上で頭を抱えて丸くなっているシンジの足元に座る。
「シンジ。親父さんのことがわかった」
シンジは顔を跳ね上げた。
「無事なの」
イギリスはゆっくりと言葉を繋ぐ。
「この爆発で、当時所内にいた人間は全員が何らかの形で負傷した」
「そんなことどうでも」
「聞け」
イギリスは強く制する。
シンジ自身はあまり足を向けたことがないのかもしれないが、それでも研究所に知り合いがいるのではないのだろうか。向こうで爆発があったのは昼間。スタッフは通常勤務中だった。その全員が程度の差こそあれ負傷したのだ。3桁には達しないが、かなりの人数になるのに、父親以外をまったく気にしていない。
「現在のところ、死亡者は出ていない」
その言葉に目に見えてシンジの肩から力が抜ける。
「負傷者はあちこちの病院に搬送されて、誰が何処にいるのかなどの確認に手間取ったらしい。お前の父親は最初運ばれた病院では対応できずに再搬送されていたために尚更時間が掛かった。現在、意識不明の重体だ」
目を見開き手を伸ばしてイギリスの腕をつかんだ。握る力は強い。イギリスは痛いと思ったが、表情を変えないよう努力した。
「お前の父親が一番重傷だ。どうも爆心近くにいたらしい」
「帰る」
シンジがソファから立ち上がる。
「ダメだ。日本も言っていただろう、ここにいろ!」
肩をつかんでソファに引き倒す。
「なんで?! 父さんが危ないのにこんな所にいられないよ」
「ばかかお前は! のこのこ日本に帰って自分から捕まるつもりか?」
「はぁ? 捕まるって何だよ、家族が怪我して危ないって聞いたら駆けつけるのが普通でしょう?」
睨みつける目。こんな顔もできるんだなと頭のどこかで思う。いつも笑っていて感情を見せることが少なかった。恋しがるそぶりは見せていなかったけれどやはり父親は特別なのか、こんな風に取り乱す。
気に入っているシンジの事だ。イギリスだって普通に心配して大丈夫だと言って、あれこれ手配して力になってやりたい。こんな風に押さえつけて睨みあってなんてしたくないのに。
「”普通”はな。お前なんで自分が”こんな所”に預けられてるのかわからないのか?」
「知らないよそんなの。父さんやリツコさんが勝手に、」
その言い草にイギリスはどうしようもなく泣きたくなった。これは、この感情は何だ?
「お前、今までほんとに何も考えてなかったんだな」
人のせいにして自分はただ巻き込まれただけだと言うのは楽だ。”あいつがあいつが”なんてイギリスだって言う。けれど自分がまったく悪くないことなどこの世にはないとイギリスはわかっている。思考停止して”何もしない”ことは十分に罪悪だ。
けれどシンジにはわからないのか。
子供だから?
でも。
どうして日本国内ではなく、こんな地球の反対側まで連れてこられたのか。
どうしてこれほどの期間、休学してまで預けられることになっているのか。
考えなかったのだろうか。
それとも考えられなくなっているのだろうか。言われるままにあちこち預けられるのが常態になりすぎて、今回も同じだとしか思えなくなっているのだろうか。
そして。
どうして周囲の大人達は、シンジに本当のことを告げていないのだろう。知る権利がシンジにはあるはずだし、こんな事になる前に、せめてここに来る前には話しておくべきだったのではないか?
怒りに近い感情で、イギリスはシンジの父親や赤木に対して、何故、と思った。
自分は今回の件では外にいる。部外者と言っていい。だから黙って預かっていたけれど。
”こんなことなら一度、シンジに話を振っておくんだったな”
「アーサー? なんでアーサーがそんな顔してるの」
『そんな顔』がどんな顔か、イギリスにはわからなかった。ただいろんな意味でらしくない顔をしているだろうなと自嘲する。感情を出さないのはうまい方だと思っていたのに。
「お前、自分から聞かなかったのか」
「何を」
「いつもと同じだって思ってたのか」
息を飲み込むように止めてシンジはイギリスを見る。数秒。唇が開く。
「・・・ここに連れてこられるまでは、っていうか飛行機に乗せられるまでは、いつもと同じだと思ってた。ちょっと急だなとは思ったけど。でもその時にはもう、リツコさんとは離れてて・・・」
流石に、まったく何も感じずにいたわけではないようだった。当たり前か。これで何も感じていなければただのバカだ。
「とにかく、ここからは出せない。少なくとももう少し向こうの状況がわかるまではな」
考え込むシンジを見ながら、イギリスは我慢した。
「それに、どうやって帰るつもりだ? チケット取れるのか? 金は? 俺は貸さないぞ」
ぐ、と何かを堪えてシンジは視線を落とした。”帰る”のが駄々に近いことなのはわかっているのだ。けれど言わずにはいられない。イギリスには言っても大丈夫と思われているのなら、それは甘えだが、こんな場面でなければ喜ぶべきことなのかもしれなかった。
小さくノブが軋む音がした。
「どこに行くつもりだ」
イギリスが声を掛けるとシンジが声を上げて振り向いた。
「アーサー・・・」
「理解できたと思っていたんだがな」
「わかってるよ。今僕ひとりじゃ帰れないことくらい。でも眠ってられなくて、ちょっと外に・・・」
声は尻すぼみでがくりと肩を落とす。確かに荷物は持っていないようだったが、パスポートと金は身につけているはずだ。
「外の空気吸うだけなら庭で十分だろう」
「・・・」
「庭に出よう」
そういって半ば強引に腕を引いた。
「飲めよ」
シンジはおとなしくグラスを手に取った。こくりと飲んで噎せる。
「あ、アーサー? これ、ゲホ」
「ん? サングリア、もどき、だが」
「サングリア?」
「ワインをオレンジジュースで割ったんだ。オレンジ多めにしたし、そんなにアルコール強くないぞ」
「僕まだ未成年です」
「こんなの酒って言わねぇよ」
イギリスはぐいっと一息で飲み干した。それを見てシンジはごくりと一口飲んだがやはり噎せた。仕方なく舐めるように口にする。
「イギリスは、」
「ん?」
「夜、静かですよね」
「そうか?」
一瞬、自分のことかと思いイギリスはびっくりした。
昼間に比べれば確かに静かだが、それでも通り行く車の音や人の立てる気配、音は完全には消えない。特に夜は遠くの音も響いてくるので決して静かとは思わなかった。
「日本だと夏はセミが夜でも鳴いてたりして、秋になれば虫が鳴くし、街だったら車がもっと多いかな。夜がこんなに静かなのはちょっと変な感じがします。月も見えないし」
「夏は夜が短いからな」
「冬は月がきれいですか」
「どうだろう。そんなこと思って見たことない。ああでも冬は妖精が静かだな」
「え」
「お前には聞こえないんだよな。もったいねぇな。今歌ってる」
イギリスは目を閉じる。庭の隅から小さな歌声が聞こえていた。昔は、これを子守唄にしていた。こんな風に夜でも彼らの気配がある。イギリスにとっての四季は、いつも彼らと共にあった。
「そういえば日本は月や虫、花で季節を見るんだったな。前に一度、秋の月を一緒に見たことがある」
「団子を食べて?」
「いや団子は食べなかったけど、ススキ、というのを飾った。月をあんなふうに見たのは初めてだったかもしれないな。きれいだった」
「イギリスでだって見れると思うんですけど」
「そうだな。でも、夜にゆっくり空を見るってのは結構できないもんだ」
夏とはいえ夜は少し寒い。シンジは外出着だったがイギリスはパジャマにカーディガンだった。アルコールを少し入れたからましだが、このまま外にいれば風邪を引くだろう。
けれど、しばらくそうして静かにただ座っていた。
「すみませんでした」
シンジが小さく謝る。謝ってほしかったわけではないが、イギリスは黙ってそれを受けた。
「うちの情報部も日本も調べてる。たぶん一番正確な情報だ。だから待て」
「はい」
シンジは素直に返事をした。
いつまでここにいるのだろう、とは思っていた。
シンジが物心付いた頃から、いきなり『明日から誰某の家に行け』と言われるのは日常茶飯事で、小さいうちは訳もわからずに言われるままだったし、ある程度大きくなってからはそれ以上話さない父親に対して少なからず意固地になっていた。なので今でもはっきりとした理由を聞いたことはない。
最初は叔父の家が多かった。ただ、少し離れているので短期であれば部下の家、ということもあった。その中に葛城ミサトがいたし、ごく短い期間であれば赤木リツコということもあった。期間はまちまちで、最長で1年くらい。そのときは流石に転校、という形になったが。
シンジがはまったく知らない人の所に預けられたこともあり、最初は緊張して体調を崩すこともあった。だがそれも繰り返すうちに慣れてしまった。
どこに行っても大人しく、言われるとおりに過ごして余計なことをしない。相手を見て喜びそうであれば手伝いをする。そうしていればまず、問題なかった。
中学生になって、なんとか一人で家の事ができるようになってからは預けられることはなくなっていたから、今回のことは久しぶりといえば久しぶりで、何故今頃、という疑問はあったのだ。
加えて。
今までは必ずゲンドウが直接シンジに指示していた。電話だったりもしたが、それでも『行け』というのはいつもゲンドウの口から聞いていた。だが今回は赤木から言われるのみでゲンドウからは何も聞いていない。
だからつい、ゲンドウが何かを言ってくるのを待ってしまった。
本田と会った段階で、いつもと違うことに気づきはした。”違う”ということはわかっていた。預けられて2週間が過ぎた頃にはさすがに待っている場合じゃないのかもしれないとも思った。だから赤木に聞こうとした。
だが聞けなかった。
理由は情けなくも簡単で、シンジは赤木が、特に電話での彼女が苦手だっただけだ。顔を会わせてだと気にならないのに、電話だと事務口調がとても冷たく感じられるのだ。何か言われたり変な態度を取られたことはないのに。
結局、何も聞けないまま放置してしまっていた。
シンジはこの家が好きだったし、この庭が好きだったし、アーサーの事も好きだと思っていた。
そのアーサーが、およそ彼らしくない、痛みを堪えるような泣き出しそうな表情で話すのは、シンジには衝撃だった。
シンジにとってアーサーは『大人』だった。成人しているという意味でなく、在り方が大人だった。
見た目からは想像できないくらい落ち着いていて、いつもいろんな事を考えている。冬月が近いだろうか。いや彼よりももっと『完成』されている。
思考が深く、シンジではわからないことが多い。それはいろんな事を知っているからだろうと思っているが、それは時間さえ経過すれば手に入るというものではないことくらいはシンジにもわかっていた。
”ずるいくらいが丁度いいんだ”といったのは加持だが、分別、思慮だけでなくそう言う面も持っている。ただの堅物だというわけでもない。
こんな風にはなりたいという気持ちと、なれないという諦めと。彼に認められるのは難しいという後込みと、それでも気に入られたいという望みと。
だからアーサーにそんな顔をさせるのも、これ以上アーサーに失望されるのも嫌だった。
それでも一人で部屋にいればゲンドウの容態を考えて悶々とするしかない。ぐるぐると廻る思考はありえない所にまで転がっていく。ばかなことを考えていると思う。思うけれど。
ヒッチハイクしてとりあえず空港まで行ければ。人の良さそうな誰かを捕まえて事情を話せば。
最悪。アーサーや本田の名前を出せば。
そんなことを考えてしまう。
とにかくゲンドウの所へ行って自分の目で確認したかった。言葉では楽観にも悲観にも振れ過ぎてダメだった。
自分に超能力とか魔法とかが使えたら今すぐ日本に飛んで帰るのに。そんなばかなことを真剣に考えた。ばかだとわかっていて真剣に考えた。
事故についての情報はその後もアーサーから、本田から、赤木から届けられた。確かにどこよりも正確で早かったろう。
赤木はすぐ退院することになった。事故の処理で動かなければならないため、無理を言って退院するのだと本田は言った。そこでようやくシンジは、ゲンドウの側についていたいだろうに、と思えた。
皆いろんな事を抱えていて、その上で行動しているのだと、改めて思う。
では自分はどうなんだろう。どうすればよいのだろう。ただここで待つ事が皆のため自分のためなのか。
とりあえずは今まで通りにしているけれど。
午後になってアーサーから電話があった。
『親父さんの意識が戻ったそうだ』
ホッとして少し涙が滲んだ。今回の件でシンジは、思っているより父親が大事らしいと自覚した。”あんな父親”と口にしたこともあるのに。
退院できるのは1ヶ月から数ヶ月先だろうとのことだったが、とりあえずこれで少し安心できた。
『あと、こんなときに悪いが』
ゲンドウについての報告の後にアーサーは続けた。
『しばらく帰れない』
預けられてからこっち、なんだかんだとアーサーは必ず家に帰ってきていた。どんな仕事をしているのか未だによくわらかないが、街中にも家を持っていると言うのだから忙しければここに帰らないこともあるのだろう。でも今まで日中以外でシンジを一人にしたことはなかった。
『家の周囲にはガードを配置しているが、今はちょっと注意が必要だしな。こんな予定じゃなかったんだが。家、出なくても問題ないよな』
「はい」
『できれば日中も窓には鍵かけとけよ。あと誰が来ても絶対に戸開けんな。さっさと方つけて帰るから』
「はい」
そう返事するしかなかった。
食事の準備。食器の音。家の中の気配。ふと動きを止めたときの静かさ。自分の声だけが聞こえる部屋。つい言ってしまう独り言。
日本ではずっと当たり前だったそれらを、シンジは随分と久しぶりだと感じていた。懐かしいとは思いたくないのだけれど、懐かしいを否定したら寂しいになりそうな気がした。
帰ればまたこれが普通になる。
”嫌だな”
と思ってシンジはハッとした。あちこち預けられたけれどそんな風に思ったことはあまりなかった。随分小さい頃どこかに”ずっと居たい”と思った記憶はある。でもどちらかといえば居心地が悪いことが多くて、一人のが気楽だと思っいたのだけれど。
”まずいよなぁ”と思いながらベッドに潜り込んだ。
学校があるわけでもないただずっと家に居るだけの時間は、はっきり言って暇でしかない。アーサーに頼まれたので水遣りは増えた。けれど大量の暇を消費するほどではない。シンジにはやっぱり見えないけれど、妖精のためにミルクやお菓子を置いたりもした。でも話し相手にはできない。
アーサーが居れば、ご飯何にしようかとか、帰ってきたら〜などと考える事もあって時間を気にしたことはあまりなかった。日中はまだいいのだ。今まで通りで変わらないから。夜はかなり時間を持て余す。
庭くらいいいかな、と思って奥の一角でお茶をしたりするけれど、一人ではやはりつまらなかった。ふと周囲を見回して『見えればいいのにな』とつぶやく。そよと風が流れるのを感じながらつい
「アーサー早く帰ってこないかな」
などと言ってしまう。
そうしてアーサーが居ない3日目の夜。
シャララ・・・シャン・・・チリリン
ツリーチャイムが小さく響いていた。円を描くように遠く、近く。
とても綺麗な曲だけれど聞き覚えがない。こんなに綺麗な曲なら有名だと思うのに。なんて曲だろう、とシンジはぼんやり考える。それからゆっくり覚醒した。
部屋だ。ベッドの中。何か音楽が聴こえていたと思ったけれど。
シンジはそのまま気配を探った。静かだ。でも。
なんだろう。何か変な感じがする。
体を起こす。部屋に異常はない。
けれど落ち着かない。そわそわする。
”水でも飲もうかな”と思案していたらノックの音がした。
「わぁっ!」
驚いてつい大声を上げてしまう。誰だ?! 今家には誰も・・・
『俺だ』
「え? アーサー?」
慌ててドアを開けると間違いなくアーサーが立っていた。
「起きていたか」
「なんでアーサーが居るの?」
それには答えずアーサーは言う。
「逃げるぞ」
「え?」
視線は壁の向こうを見るように遠い。
「着替えている時間はない、かな。パスポート取ってこい」
「え、あはい」
とって返して引き出しを開ける。
「靴は履けよ」
言われて素足をスニーカーにつっこんだ。
「こっちだ」
アーサーに引かれて進む。引かれながらシンジの頭の中では疑問符が大量発生していた。何故アーサーがここにいる? 帰れないと言っていたし帰るとの連絡ももらっていない。それは仕事が片付いたのかもしれないけれど。
逃げる? どこから? 何から?
ダイニングから庭に出る。そのまま奥の茂みの方へ歩を進める。
「コールはしてあるからすぐうちの連中が来る。少しの我慢だ」
「あの逃げるって」
「あ? ああ、まだちょっと距離あるけど、ここに向かってきてる奴らがいる」
「え?」
思わず振り返った。
「見えねぇよ。まだうちの敷地には入ってない。陽動があってガードがそっちに行ってるんだ。だからちょっと時間稼がないとな」
茂みの奥、いつもと同じテーブルとベンチが白く浮いている。アーサーがその奥のもう塀しかない場所にごそりと分け入った。
「え?」
塀が、音も立てずに開く。
「ぼけっとしてんな」
言われてシンジも外に出る。ここにこんな扉があっただろうか? 塀だと思っていたのだけれど。というかなかったはずだ。と振り返ると今通ったはずの場所には元通りに塀があった。
「え?」
呆然とするシンジの手をアーサーが引く。周囲に目をやりながら、ドラマのようにこっそりと二人は道を進んだ。1区画先には公園がある。どうもそこに向かっていた。
日曜日には地元のランナーが集まって小さな大会を開いているというその公園は結構広かった。木々が茂り池があり遊歩道がある。実際に足を踏み入れたのは初めてだ。奥に向かってアーサーはどんどんと歩く。
しばらく行くと茂みの中へと押し込まれる。ガサガサと何歩か行くと小さな空間があった。ちょうど低木が隙間を作っている。アーサーはそこにシンジを座らせた。
「とりあえずここにいろ」
「あの、アーサー何が起こってるんですか」
「お前がうちにいるってばれた」
「誰に」
「あー・・・、うん、それは後で話す。とりあえず俺が預かってるのに連れてかれるわけにいかねぇからな。こうして助けに来たんだ」
「はぁ。あの、ありがとう」
シンジは今ひとつ理解していなかったけれどここはお礼を言ってもいいんだろう。たぶん。
「その人たちのこと、わかってるなら逃げなくても」
「だから陽動があったって。俺もこいつらに教えられたんだ。じゃなかったらやばかった」
「こいつらって・・・えと、妖精?」
アーサーがにんまりと笑う。
「下手なシステムや人間より優秀だからな」
周囲を見回すがシンジには何も感じ取れない。やっぱり無理か。ちょっと肩を落としているとアーサーが言う。
「お前、俺が行く前に起きてただろ? 何でだ?」
その顔はにやにやという形容が良く似合うものだった。なんでこんな楽しそうなんだ?
「え? えーっと、何か変な感じがして目が覚めたっていうか。・・・そういえば何か綺麗な音楽が聞こえたような・・・」
「うん、それこいつら」
「へ?」
思わず変な声が出てしまう。こいつら? こいつらって?
「お前にも見えたらおもしろいのにな。ちゃんと起こしたんだから褒めろってさ」
そう言ってアーサーは手を伸ばして何かを撫でた。どうもシンジを起こしてくれたのは妖精らしかった。
そうか、あれは彼らからの合図だったのか。なんかもうぼんやりとしか覚えてないけれど。勿体ない。
アーサーは楽しそうだ。こういうのが好きなんだろうか? シンジにはふたりぼっちだけれどアーサーにはそうでないせいだろうか。
「ああ、来たみたいだな」
アーサーが家の方を見ながら言う。シンジもそちらを伺うが、黒い緑以外何も見えない。アーサーには見えているのかと思ったが、もしかしたら妖精たちに実況されてるのかもしれなかった。
ぱん、と小さく何かが弾けたような音がしたのはその時だった。アーサーが立ちあがる。表情が少しだけど険しくなっている。それを見てシンジは、今のは銃声なのかと思った。爆竹みたいに聞こえたけれど。
「音、立てんなよ」
アーサーの台詞に思わずシンジは縋るようにしてしまった。
「え、行くの」
「ちょっと様子を見に行くだけだ」
「でも待った方が」
アーサーはシンジの手をそっと外し向き直ると両肩を叩くように手を置いた。しっかりとシンジの目を見て、そうして笑った。
「大丈夫だ」
そして続ける。
「耳澄ましてろ。こいつらが助けてくれる」
言うとぱっと身を翻して茂みを出て行った。
茂みの中は街灯の光も届かず暗い。アーサーが居なくなったら静けさが妙に息苦しくなった。シンジは膝を抱えるようにうずくまる。
こいつらが助けてくれる、ってことはたぶん今ここに彼らがいるんだろう。シンジには見えないけれど。
顔を上げて視線を周囲に向けてみる。闇の中に動くものはない。
「見えたらいいのに」
つぶやく。
「ごめんね、ありがとう」
音を立てるな言われたので、シンジはそのままじっとしていた。
どのくらい経ったのかわからない。でもたぶんそれほどじゃない。
チリン
小さな、銀がぶつかったみたいな小さな音がしたような気がした。
はっと顔を上げる。音はもうしなかった。けれど何か圧迫されるような重い感じがする。
何だろうと思っていたら、つん、と髪を引かれたような気がした。振り返るけれど誰もいない。もう一度今度は前髪を引かれた。実際に引っ張られたのかはわからない。何も見えない。
でも。
そっと立ち上がって踏み出す。ゆっくり少しずつ。止まればまた髪を引かれた。それを繰り返す。
がさ、と少し遠くで何かが動く音がした。シンジは出しそうになった声を両手で塞いで進みを早める。音がするけど構ってられない。もうどこにひっぱられてるかもわからない。ただ音から逃げるように進む。
だがそれはどんどん近づいてきていた。このままじゃ捕まる、パニックを起こしかけた時。
「シンジ、こっちだ!」
アーサーの声がした。声の方向がはっきりとわかる。シンジはそこに向かって走った。
蛍のような小さい光がすうっと動くのが遠く先に見える。何も考えずにそれを追う。
視界が開ける。アーサーがいた。蛍をいくつか纏わせて。
「アーサー!」
転げ込むように手を伸ばす。その腕を取ってアーサーはシンジの体を後ろへと隠すように抱えた。
「そこまでだ」
別の人の声と、複数人の気配。シンジを追って茂みから現れた男は向けられたいくつもの銃に黙って手を挙げた。
シンジを追ってきた男は確保された。
銃を手に周囲を警戒してくれている人たちが警察なのか軍なのかシンジにはわからない。久しぶりに人を見たなと、ついじっくり眺めてしまったが、忙しそうに行き来している彼らはシンジに直に接することはなかった。対応はすべてアーサーがしてくれたので何かを聞かれたりもしていない。シンジはただぼけっと、ワゴンの後部に座っているだけだった。
アーサーが上着を貸してくれたけれどパジャマでは少し肌寒く感じられた。でも我慢できないほとじゃないし、みんな忙しそうだしなと思っていたら、アーサーがどこかからお茶を一杯貰ってきてくれた。
「風邪ひかれたら困るからな」
礼を言うとすぐに呼ばれて行ってしまう。
体格が良いというより”ごつい”と言っていい人たちの中にいると、アーサーは華奢だった。小さいとは言わないが、細い。そして目立つ。目を引く。
見るともなしに見ていて、シンジはその指示の早さに驚いた。報告を受けて指示を出すまでにタイムラグがない。これが『国』というものなのか。それとも上に立つ人は皆こうなんだろうか。
今まであまり実感を持っていなかったけれど、自分は結構とんでもない人の側に居たんじゃないだろうか。
貰ったお茶を飲み終わるころ、『帰るぞ』と声がかけられた。
ベッドに入っても寝付けなかった。怖いわけではない。確かに公園で追いかけられたときは怖かったけれど、もう終わったとわかっている。何より今は隣の部屋にちゃんとアーサーが居る。
でも神経がぴりぴりして治まらない。
シンジは何度も寝返りを打ちもぞもぞしていたが、やがて眠ることを諦めた。カーディガンを羽織って部屋を出る。
アーサーの部屋をノックするとすぐにドアが開く。アーサーも起きていたようだった。
「少し、いいですか」
シンジが言うと、アーサーはシンジを部屋に招いた。
シンジの部屋より一回りくらい大きい部屋には窓際に大きなベッドが置かれていた。シーツ、壁、カーペット、ソファやクッションまで、やわらかい色合いで纏められていてホッとする。薄く、何か花のような甘い匂いがした。
小さな椅子に座るよう促される。
「で?」
丸い小さなテーブルを挟んでアーサーも座る。そしてすぐに聞いてきた。
「アーサーは、今回のこと全部知ってるんですよね」
シンジはアーサーの顔を見ながらそう聞いた。
「んなわけないだろう。調べられたものだけだ」
椅子の背に手を回し凭れるようにしてアーサーは天井を見た。そして
「聞くんだな?」
シンジはこっくりと頷いた。
アーサーから聞いた話は他人事にしか聞こえなくてどうしたものかと思う。
「あのー、それホントなんですか」
思わず漏らしてしまった言葉にアーサーは苦笑しか返さなかった。本気で疑っていたわけではないが、それで本当らしいとシンジは思う。
本当だとして。さてどうすれば良いんだろう。
「確認していいですか?」
「ああ」
「僕の中にウイルスが居て、それを欲しがってる人達がいるってことですよね?」
「そうだな」
「じゃあ僕がその人達に血液とか提供すればいいんじゃないんですか?」
「うーん、何て説明したもんかな」
「違うの?」
「一つずつ行こう。まず、本当にお前の中にウイルスが居るのかはっきりしていない。これはわかってるな」
「はい」
「で居たとして、ウイルスを探さないといけないんだが、お前の体のどこにいるかわからない」
「血液じゃないの?」
「大概のウイルスではそうだ。だが特定の臓器にのみ感染している場合もある。血液調べて見つけられなかったとき”居ませんでした”じゃなくて、じゃあ何処にいるかって話になる。そしたら結局お前の体が必要になる」
「そっか」
「あとウイルスそのものが原因なのかって問題がある」
「どういうこと?」
「ウイルスってのは自分じゃ自分を複製できないから人間の細胞に寄生して自分を作らせる。つまり本来人間が作らない物質とかを作らせちまう可能性があるんだ」
「ああ、そっちが僕を健康にしているかもしれないってことか」
「Right。だから調べたいことは山ほどあるはずなんだ。単純に試料を提供して終わりって話にはたぶんならない」
「難しいなぁ」
「あと利権が絡む」
「利権?」
「ボランティアじゃねぇんだ、お前の体調べてそれが使えるって話になったら特許取って商品化ってことになるんだよ。わかるだろ?」
「ああ」
「向こうはできれば全部、でなくてもできるだけ取り分を多く持っていきたいだろう。強引にお前を搾取しようとしたのだって未成年なのをいいことに自分達の都合のよいように扱いたかっただけだ。親父さんはわかってたから交渉に応じてないし、お前を逃がした」
「・・・そうなんだ」
「それだけじゃないかもしれないが、まぁそこは俺にはわからん。権利云々って言うんだったら、そのウイルスの変異がもし人為的でそれをお前のお袋さんがやったって証明できれば、また話が違ってくるんだ」
「なんだかややこしい」
「まぁ、普通のガキには関わりのない世界の話ではあるよな」
「アーサー詳しいですね」
「そりゃ情報部が全部調べてくれたからな」
「じゃなくて、ウイルスとかにも。大人だったら普通に知ってることなの?」
「普通はどうか知らねぇけど、俺は知り合いに科学者とかもいるから」
「へぇ。じゃあその人に相談して」
「ただの科学者だぞ? お前の体を調べることはできてもそれ以上は無理だろう。それにだったら親父さんや赤木博士がいる」
「そっか。あーあ。大体病弱だったって言われてもなー」
放って置けば死んでいたと言われても、まったくピンと来ない。この間ひいた風邪が久しぶりの病気で、今まで病院にかかった記憶もほとんどないのに。本当かどうかわからない情報だけでこんな風に振り回されてるのか。
ふと甘い考えが浮かんでシンジは体を乗り出した。
「向こうが諦めてってことは」
「一時的に大人しくはなってもどうかな。向こうにも都合がある」
「アーサーは相手のことも知ってるんだ」
「うん? まぁ、な。一応」
「誰だか聞いても?」
「アメリカの、企業。と雇われた連中」
「企業」
「資本主義大国だけあってアメリカのはでかいから色々複雑だけど、今回は個人の思惑と企業の思惑が絡んでて尚更面倒かもな」
「どうしよ。なんかどうしたらいいのかわかんないや」
「好きにすればいいじゃねーか」
「ええ? もう追っかけないで下さいって言うの?」
「納得はしないだろうな。それでもいいし情報やるから協力しろでもいいし」
「血液あげるのと何か違うの?」
「主導権を握ってるかどうかだな。お前がジョーカーなんだから、お前の言うように動かせばいいことだろ?」
「僕みたいな子供には無理です」
「だったら誰か大人を頼れよ。親父さんでも赤木博士でも。他にも誰かいないのか? お前が預けられてたところとかで」
「アーサーは?」
「は?」
「あ」
思わず口をついたけれど、さすがにそれはまずかったかとシンジは口を塞ぐ。今更遅かったが。
「俺に、何をして欲しいんだ?」
にやぁ、と笑ってアーサーが言った。その人の悪い笑みを見ながら”こういう笑い方ができる人、他に知らないんだよな”と思う。加持は近いかもしれないが、根本土台が違いすぎる。
無謀な事かもしれないけれど、たぶん、言っていい。というか、言えとアーサーの目が命じていた。
「交渉? っていうか、僕できたら自分で自分のこと調べたい。だからそうできるようにして欲しい」
「何年かかるんだ?」
「それは、がんばるから」
「親父さんじゃなくていいのか」
「父さんだとなんかギクシャクする。っていうか僕がたぶんダメ」
「親子だろう」
「だから」
「ま、いいけど。んで? 俺のメリットは?」
「え」
「世の中はGive and Takeだ。交渉を引き受けるとして、お前は俺に何くれるんだ?」
「ええっと。ぼ、僕?」
お金も何も自分のものがないシンジにあるのは自身だけだったし、さっきのアーサーの話からいけば今後シンジに絡んで生じる利益があるはずだ。だからついそう言ったのだけれど。
「よし乗った! シンジは俺のものってことでいいな」
「ちょ、ちょっと待って。今のは言葉のあやっていうか、えっと、ち、違う!」
「ばーか。冗談だよ。まー今のでお前には駆け引きっつーか・・・無理だな」
「アーサーと一緒にしないで・・・」
本気で焦ったシンジはほっとして頭を落とす。アーサーはそんなシンジをしばらくにやにやと眺めて『さて』と立ち上がった。
「夜も遅い。この話はまた明日以降に詰めよう。とりあえず今日は寝ようぜ」
3ヵ月後。イギリスに新しいバイオテクノロジーの会社が作られた。
イギリス国内だけでなくアメリカや日本からもスタッフを集めてスタートした会社は、数年でヨーロッパでも名の知られる存在になる。大学との連携や企業との提携で業績を上げ、ベンチャー企業としての地位を確立していく。
その中に碇シンジの名が見られるのはまだ数年先の話になる。
アメリカとの交渉は一切をアーサーに任せた。やはりすぐに解決というわけにはいかないらしく、もうしばらくシンジはアーサーの所に居ることになった。早く帰ってゲンドウの顔を見たかったけれど、『そんなにかかんねーよ』との事なのでそこは我慢する。
シンジの今後については、アーサーと本田とゲンドウ(赤木)の話し合いでとりあえず中学を卒業するまでは日本で、ということになった。義務教育は出ておけ、と他でもないアーサーがそう言った。その後はイギリスで、アーサーが立ち上げる研究所と学業を兼務する予定だった。
どちらにしても、ここにいられる時間は限られた。卒業してイギリスに来ても、今みたいにアーサーの所で暮らすことはないだろう。簡単に会えるかもわからない。手紙やメールは送ろうと思っている。許されるなら電話だってするけれど。
だからシンジは、
「日本の料理を一緒に作りませんか」
と声をかけた。
アーサーの料理は正直おいしいとは言えない。でも、たぶんほんのちょっとのことで普通になるんじゃないかとシンジは思っていた。だから一度一緒に作ってどんな風に料理しているのかわかれば、自分にだって少しくらいアドバイスができる。
でもそれだけじゃなくて。
この家にシンジが居た跡なんてきっとすぐに消える。でも思い出だったら残る。この先それを作るたびに、シンジのことを思い出してくれるかもしれない。食事は毎日のものだ。作りながらふと、そういえば一緒に作ったな、なんて思い出してくれたら。何年後でも、もしかしたら何百年後だったとしても、思い出してくれたら。
アーサーはなんだか変わった顔でたぶん笑って、それから普通に『いいぜ』と笑った。
シンジが帰る日が来た。ゲンドウはまだ退院できておらず、迎えには日本が来た。
日本は、何故かフランスを連れて来た。
フランスにシンジを会わせてしまった話はしていたから、彼にも挨拶をさせようと思ったのかもしれない。
別にこんな奴呼ばなくても、とイギリスは思ったが、日本とシンジの手前それは口にしない。できるだけ視線を向けないように会話もしないよう努力する。フランスとの掛け合い漫才(と以前日本に言われた)はできるだけシンジに見せたくなかった。
シンジはフランスとした約束とも言えない話を律儀に覚えていたらしく、今度パリにも遊びに行きますなどと言っていた。思わず”ダメだ、危険だ”と叫びそうになって、イギリスは必死に堪える。
別れはスマートに、さり気なく終わらせたかった。
「では、そろそろお暇させていただきましょう」
日本が言ってシンジが頷く。
「もう、行くのか」
「空港での時間もありますので、少し余裕を持って着いておきたいですしね」
「そんなの俺が言って」
「お気持ちは嬉しいですが、公私混同ですよ、イギリスさん」
ふわりと日本に微笑まれてしまっては、イギリスに言えることはなかった。
シンジがイギリスの前に立って手を差し出す。その手をイギリスは少し、眺めて、それから握る。ぎゅっと。
「アーサー。本当に色々とありがとう。ほんとに、ありがとう」
「これで終わりじゃねぇ。がんばって自分で何とかするんだろ? 待ってるからな」
「うん」
そうだ、別に今生の別れって訳じゃない。イギリスはシンジの笑い顔を見て自分に言い聞かせる。
最後に玄関でハグをして、そうしてシンジは去って行った。
見送って見えなくなって。それでもイギリスはしばらくそこに立っていた。
その姿を眺めながら、フランスは悔しいなぁと思う。シンジとは1度しか会わなかったが、良い子なのはよくわかった。イギリスが気に入ったのもわかったから寂しがるだろうとは思っていたが、こんな姿を見せるとは思っていなかった。こんな背中を見せるとは。
ドアを閉めたイギリスはフランスを見ようとせず、そのままキッチンへと向かう。それをフランスは追っかけた。
「向こうで待ってろよ」
小さく言うイギリスに、フランスは
「いいじゃん、久しぶりなんだし、一緒に淹れようよ。そのままキッチンで飲んでもいいし」
と答える。立ち止まりフランスを見たイギリスの表情は不機嫌そうで、それでも了承したのか、無視なのか何も言わなかった。
お湯が沸くのを待つ間、フランスはイギリスに圧し掛かって肩に顎を乗せた。
「今日泊まってもいい?」
変な意図はなかったが、
「しないぞ」
と即答されてしまった。それにどう返事をしたものか刹那の間考えて
「え、何それあいつの方がいいって事?!」
とフランスは茶化す方を選択した。
「ば、ち、違うっ! そんなんじゃねぇよ・・・。今日くらい、浸ったっていいだろう?」
俯いてフランス相手なのに寂しいのを隠しもしないで。そんな態度を取られてしまえば、フランスはもう何もできなかった。
「いいけど。なんかほんと妬けちゃうよな」
「ほんとにお前が思うようなことはしてないぞ」
「わかってるよ。でもさー」
「良い奴だったんだ」
「それはわかるけどさ」
「今日だけ、だから」
「うん」
俯くイギリスの頭をフランスはそっと撫でた。
何もしなくても、フランスが居ればイギリスは泣かないだろう。