月食の予報は出ていた。
そして欠けるとしたら皆既月食になるとも。
僕は朝からずっと落ち着かなくて、うずうずしていた。
“月食だったらいいな。そしたら会えるのに”
そう思うと本当に落ち着かなくて、もう授業も右から左、先生に指されても返事もしないくらいで
それでもどうして僕がそうなっているのか、先生もわかっていたから「しょうがないな」だけで怒られない。
学校が終わると走って家に帰り、夜の為の準備をする。
帰ってくる途中もいろんな人に声を掛けられた。
「月食だってね」
「欠けたらお邪魔しに行くよ」
「お父さんによろしく言っておいてね」
僕は「うん」「わかった」とだけ言って返す。
家の棚の奥から、箱を取り出して父さんの帰りを待った。
僕はこの箱を開ける資格がない。
早く帰ってこないかな、と家の中をうろうろしながら待って、帰ってきた父さんに飛びつかんばかりに言う。
「父さん、早く準備をしようよ」
そんな僕に父さんは大きなため息を一つ吐いた。
「お前はそんなに嬉しいのか? 疲れるのはお前なんだぞ」
確かにきっと明日は寝込んでしまって起きられないだろう。
でもそんなこと以上に、僕にとっては意味のあることだから。
「平気だよ。父さんだって母さんに会えるから嬉しいでしょ?」
そういうとやっぱりため息をひとつ吐いて、
「実際に夜にならないと、月が欠けるかどうかなんてわからないというのに・・・とにかく、夜までまだ時間があるんだからそう慌てるものじゃない」
そう言って部屋へ入っていった。
それからも僕はじりじりしながら夜を待った。
月が昇り始めてからは噛り付くようにそれを眺めて、じっと欠けるのを待った。
集まり始めた人達に声を掛けられても生返事だけしか返せないくらいに、
そんなに見てたら月に穴があくよ、と笑われるくらいに、
僕は月を見詰めていた。
そして。
欠け始めた!
月のはしっこ、円の一部が切れ始めたのを見ると、もう我慢できなかった。
「月食が始まるよ」
飛び出してそう大きな声で知らせて回る。
嬉しくて嬉しくて、飛び跳ねそうな足取りで、町中を駆け回って告げて回った。
「月食だよ、月が欠け始めたよ」
もう夜も遅い時間だから、眠っていた人もいたみたいで目を擦りながら窓を開ける人も多い。でも、みんなやっぱり月を見ると目を見開いてその綺麗な姿を焼き付けようとする。
あたりを一回りして戻ると月はもうだいぶ欠けていて、十三夜か十日余の月みたいになっていた。
「父さん、皆既月食だよ。準備しなきゃ」
そういって父さんの部屋に飛び込むと、父さんはもう着替えて準備を終えていた。
「いくらお前の役目とはいえ、もう少し静かにできないか」
いつもと変わらない憮然とした声でそういうと、僕の分の着替えを投げて寄越した。
「早く着替えろ、時間がないぞ」
月が完全に欠けてしまうまでに準備を整えないといけない。
時間はもうわずかしかない。
僕は慌てて着替え出す。
この装束はちょっと面倒な造りになっていて、着替えるのに手間がかかる。
父さんが祭壇の準備をしている間に、着替えて清水を被った。
禊というか、簡単な御清め。
夏でよかった、と思う。これが冬だったら風邪をひいてしまいそうだ。
そして、家の前の庭みたいな所に出ると、もう祭壇は出来上がっていた。
空を見ると月はもう三日月よりも細くなっていた。
祭壇の前に座ると目を閉じてはやる心を落ち着ける。
ゆっくりと数字を数えて、それに合せて息をする。
鼻から吸って口から吐いて。
そのうちに父さんの詠じる声が聞こえ始めると、僕の意識はどんどん静かになっていった。
さざなみひとつ立っていない湖面のような。
そして僕の意識はその水面の下に沈んで息を潜める。
月は完全に欠けて、薄赤い輪郭で辛うじて存在が分かる程度になっている。
父さんが集まった人々をひとりずつ僕の前に座らせ始める。
そして僕の中に、全然知らない人達がやってくる。
依り代。
月食の夜だけ僕はその身に死人を宿らせることができるのだ。
僕が水面下に沈むと、その水の上にぼんやりと誰かが現れる。
僕にはそんな風に見えていた。
順番にいろんな人の望む人を僕は宿らせて行く。
まったく知らない人ばかりで、僕は静かに彼らを見ている。
今日は欠けている時間が長いみたいで、いつもよりもたくさんの人が僕の中に来たみたいだった。
やがて月が戻り始める。
人々が去っていき、僕の中にいた人達も消える。
そして、母さんがやってくる。
僕は水面越しに、父さんは僕の身体を身代わりに、
母さんと話をする。
「元気だった?」
「うん。母さんは?」
「私は変わらないわ。死んでるんですもの。シンジ、今日は疲れたでしょう? 明日は十分に休んで、無理をしちゃだめよ」
「大丈夫だよ、母さん」
そんな風にしばらく話をして、そして母さんが言う。
「じゃあ、替わるわね」
水面の向こうで母さんが揺らいで、
そして、彼が現れる。
「・・・カヲル君」
「やあ、シンジ君。久しぶりだね」
「うん、僕、ずっと君に会いたかった。月食だって聞いてもういてもたってもいられなかったよ」
「僕もだよ。他の皆を押しのけてしまいそうで自分を抑えるのに苦労した」
カヲル君とはもうこの時しか会えない。
彼が死んだときに僕はどんなにショックだったかしれない。
しばらく呆然として、僕は眠ることも食事をすることもできなかったんだから。
父さんに、月食で会えるだろう? と言われても、確かにその通りだったのだけれど、立ち直れなかったくらいに。
こうして今でも時々、本当に時々会うことはできるけれど、その時間はすごく短いし、触れることはできない。
それに自分の為にこういうことをしているわけじゃない。
自分達の会いたい人に会えるのは、おまけみたいなものだった。
月が戻り始めると僕の意識はゆっくりと水から出て行く。
それは自分の意志とは無関係で、そうするとカヲル君が消えるとわかっていてもどうしようもない。
ただ、瞬間、本当に一瞬だけ、淡くなったカヲル君と抱き合うことができる。
この瞬間のためだけに、僕は依り代なんて疲れるものをしている。
「さよなら」
泣きそうになりながらそれだけ互いに告げると、カヲル君はすうっと消える。
僕は完全に水から出て、そうして僕の目が開く。
「カヲル君・・・」
父さんとその頭上に完全に戻った月を見る。
“もう、終わっちゃったんだ”
そう思うととても悲しくて、僕は泣きながら眠りに落ちる。
疲れ果てて体のどこにも力が入らなくて、いつもこうして眠ってしまう。
そして翌日はほぼ1日、眠りっぱなしになるのだった。
夢も見ないで。
本当はカヲル君の夢を見たいと思うのだけれど。
それとも見ないほうがいいのだろうか?
今回は皆既月食でただでさえ欠けている時間が長かったのに、何回かに一度という長さだったらしく、僕の消耗はとんでもなかった。
結局次の日1日では済まなくて、丸2日寝込んだ挙げ句に熱を出してしまった。
今回ほどではないにしろ、いつもいつも月食の度に寝込んでいるのに、どうして僕が月食を楽しみにしているのか、周りの人は不思議がっている。
確かにものすごくしんどくて、時々どうして僕がこんなことをしなくちゃいけないんだろうと思うときもある。
前はもう止めたくて仕方なかったし、ごねて父さんに酷く叱られたこともあったけど。
カヲル君に会えるのだったら、僕はどんなことでも我慢できるのだ。
そうして僕は次の月食を心待ちにする。
少しでも長く、カヲル君と会っていられるよう願いながら。