教員室に珍しく誰もいなかったのでタバコを吹かしていた。最近では健康なんたら法とかで病院では例えそこが患者の来るはずのない研究室であっても禁煙になってしまった。世知辛い世の中だ。タバコくらい自由に吸わせて欲しいと思うが、受動喫煙の害くらいはわかっているので文句を言ったことはない。
ここの助手の先生方は何故だか俺を気に入ってくれたらしく、何くれとなく世話を焼いてくれる。有り難いのだが始終傍にいられるとやはり五月蝿いと思ってしまう。タバコも吸えないし。
だからこんな風に誰もいないときは、すかさずタバコに火をつけるのが癖になってしまった。
軽いノックの音がしてドアが開く。慌ててタバコを灰皿に押しつけて見ると碇だった。白い紙を胸に持っている。恐らく先日出した課題のレポートだろう。碇はペーパーテスト自体は特に良い成績というわけではないが、こういうのはかなり早くに仕上げてくる。内容もまあまあだ。
おずおずと言った感じでレポートを提出しに来た旨を告げるのを見ながら、今日は渚が一緒じゃないなと思う。
一つしかないクラスで、二人しかいない男子生徒。最初はだからいつも一緒なのだと思っていた。
が、どうもそうじゃないらしい。
恐らくクラスの大半も気付いているんだろうが、碇は気付かれていることに気付いていない。
今時の学生にしてはどこか頼り無いというか要領が悪いというかどんくさいというか。
反応が面白いので前々から目をつけてはいたんだが、さすがに生徒だからとからかいもしないでいた。だがこうなってみるとチョットいじっておくべきだったかと思う。
「これ次回の実習資料な。明日にでもクラスに分けといてくれるか」
「わかりました」
A3の用紙を束で渡すとさすがに抱えることになる。片手でぱらぱらと捲りながら背を向けた碇に声をかける。
「そう言えば碇、お前、ちゃんとコンドーム使ってるか?」
「はぁ!?」
帰ってきたのは予想通りの素っ頓狂な声と真っ赤な顔。こういう反応をするからついからかいたくなるのだが、本人に自覚はないんだろう。
ぱくぱくと口を動かすだけで声も出せない碇に追い討ちをかける。
「一応医療従事者になろうってんだから、感染予防はしっかりしとかないとダメだぞ。STD予防にはやっぱりコンドームだしな」
「あの、ぼ、僕はそんな……女の子とは……全然……」
”男の子とはしてるってか?”と、首まで赤い顔でしどろもどろになりながらも何とか返した答えに心でつっこむ。女のことを言ってるわけじゃないことは恐らくわかっているんだろうが、誤魔化しもそれが精一杯のようだった。
心の中では大笑いしながら、何でもない顔で続けた。
「性感染症は女性だけの問題じゃないんだぞ。男だって危険はあるんだ。習わなかったのか? 細菌とかで。
普通同性間での感染って言ったらエイズだって思われるけど、それだけじゃない。梅毒だって肝炎だって肛門性交でうつるんだ。B型肝炎くらいだったらワクチンを打つって手もあるが、ウイルスだけじゃないし。こないだもアメーバ肝炎なんて珍しいと思ったら男性経験ありって患者だったしな。自分が感染したら患者にうつすかもしれないんだ。”感染対策は十分に!”な。
ちゃんと渚に言ってコンドーム使ってもらわないとダメだぞ」
もう碇は動転を通り越してパニック状態のようだった。顔には素直に”なんで先生にバレてるんだっ!!”と書かれている。本当にバレてるって気付いていないのか……。これじゃぁ渚も先が思いやられるだろうなぁと渚に同情しながら碇を眺める。
首どころか腕まで真っ赤にした碇は呼吸さえも忘れているように見えた。思考も止まっているんだろう、反応ができていない。
その状態が可笑しくて、さすがに我慢しきれずにクッと笑う。それで金縛りが解けたらしく、碇は
「し、失礼しますっ」
そう言って振り向いてドアノブに手をかけた。だがパニックを起こした頭ではドアさえまともに開けないらしく、何度も無駄にガチャガチャ言わせてやっと開いたドアを無理矢理通った。ガッって物凄い音がして、思いっきり肩をぶつけたようだったがそのままダッシュで逃げ去った。
今は何ともないだろうが、あれは後で痛むだろうなぁ。
碇の姿が見えなくなるとさすがにもう我慢できずに大笑いしてしまう。まさに腹を抱えて笑うってやつだ。机につっぷしていると助手の一人、伊吹さんが入ってきた。
「何かあったんですか?」
不審げに問う彼女に一生懸命笑いを堪えながら”思い出し笑いです”と答えたら、ますます変な顔をされてしまったが、まあいいだろう。
「先生、シンジ君に何言ったんですか?」
それから数日後、今度は渚が教員室に来た。恐らく碇と同じレポートの提出だろうが、部屋に入って第一声がそれだった。レポートを取り出そうとすらしないで睨みつける。
「何ってSTDについてだよ? いくら体液を交えなければ感染しないとは言っても、病院に勤める者がむやみやたらと何にでも感染していたら困るだろう?」
「先生の場合、それが心配からじゃないのが問題なんです」
「心外だなぁ。ちゃんと碇を心配して言ったんだぞ? お前は結構遊んでそうだし、もし碇が感染するとしたら渚からしか考えられないしな。ああいう性格だし、絶対に自分からコンドームつけろなんて言えないだろうから、ちゃんと言えるだけの根拠を教えてやったんじゃないか」
「言い方とかタイミングとかあるでしょう」
「さりげなく言ったつもりだが?」
渚が大きくため息をつく。これは何か面白い展開にでもなったか?
「で、何があったんだ?」
「別に。何もありませんよ。ただシンジ君が自分でコンドーム用意してくれてて、訳を聞いたら真っ赤になって唸るだけだったから、これは何かあったなと思っただけです」
「それで何で俺だって思ったわけ?」
「カマをかけたら引っかかってくれたので」
「うーん、やっぱ碇は可愛いな」
「手、出したら殺しますよ」
本当に視線だけで殺しかねない勢いで睨む。内心”くわばらくわばら”と唱えながらも、からかうのは止められない。困ったもんだと思う。
「しかし、碇は本気でバレてないと思ってるのか?」
「ええ、思ってますよ」
「俺だけじゃなくてクラスにもだぞ?」
「ええ、思ってます」
あれだけあからさまな態度で、そしてキスマークまでしっかり晒していながらバレていないと思えるのは、それはそれで妙な所ですごいヤツだと思う。
「シンジ君は普通の態度を取っているつもりですから」
「あれで」
「ええ」
「お前らのクラスの女子は大人だから誰も指摘しないのかもしれんが、こないだだってモロつけてたじゃないか、ここ」
そう言って首の付け根、鎖骨の間やや右よりを指差す。まったく気にした様子もなく痣を晒す碇に、意外と大胆というか度胸があるなと感心していたのだが。
「うちの女子は大人なんで、誰も言わないんです。今までだって一度も」
「お前、ワザとだろ?」
「余計な虫は遠ざけたいので」
「んなことしなくてもあれは初心すぎて女の子は手が出せないだろう?」
「そんなこともないんですよ」
渚の言い方に、思っている以上にこいつの方が惚れ込んでいるのかもしれないと思い直した。遊びだと思っていたからこそからかってみたのだが。
だとしたらこれ以上はマジでヤバイか。下手にちょっかい出すと本気で渚に殺されかねない。
「まぁ、ちゃんと予防してたんなら余計なお世話だったかな」
「……」
「なんだ、つけてなかったのか?」
「答える必要が?」
「別にない。ただ相手が大事なら、そこまで考えてやるんだな」
少しだけ渋い顔をした渚を見遣り、こんなもんかと思って話題を変えた。
「で、レポート提出に来たんじゃなかったのか?」
「ええ、そうですよ」
そう言って渚はカバンから紙束を取り出してぱさ、と机に置いた。
”ほいほい”とそれを手に取り簡単に中身を確認する。まぁ渚のことだから、不可になるようなものは提出しないのはわかっている。
「ん、さすがだな。俺はお前が何で医学部じゃなくてこっちにいるのかいつも不思議だよ」
「人体に興味はありますが、余計な責任は負いたくなかったので」
「真面目だな」
「ここに入ってあなたを見て、医者でも良かったかと思ったりもしましたが」
「俺はいつも真面目に患者と向き合ってるよ?」
「良く知ってますよ。だからこそそれくらい精神的にタフじゃないと無理だとも思いました」
「誉め言葉だと聞いておくよ」
そう言うと”では”と渚は踵を返した。
「碇が患者になるようなことはするなよ?」
そう声をかけたら”せいぜい気をつけます”と振り向きもしないで出て行く。
”それでも性懲りもなく次はどうやって碇をからかおうか考えているんだ”と言ったら、やっぱり殺されるのかなぁなどと思いながら渚のレポートをカバンに突っ込んだ。