この形も、終局の中の一つ。
オレンジ色に揺らめく優しい光の中で、ユイはシンジを腕に抱いていた。
ユイが知っている幼い頃の姿。指をしゃぶり、ユイの胸にもたれかかって眠っている。
微笑みながら、そんなシンジをしっかりと抱き締めている。
不意に、その前にカヲルとレイの姿が現れた。
「いつまでそうしているんだい?」
静かに問うカヲル。見た目の年齢でいけばユイの方が随分年上なのだが、ユイはカヲルの口調に頓着しない。
腕の中のシンジをゆっくりと揺らしながら、その寝顔からは視線をそらさずにユイは答えた。
「だって、母親らしいことなんてしてやれなかったんだもの。そしてこれからもしてやれないんだもの。もう少し」
我が子を腕に抱いているという事実が嬉しくて、言葉はとても優しい響きを纏う。
そんなユイの様子に苦笑めいた笑顔でカヲルは息を吐く。
「別に、貴女が無理をする必要はないって言ったはずだよ」
それは随分前の台詞だ。彼女がエヴァの中に留まると決めた時の。ユイが一人で何もかもを背負う必要はないと、あの時彼は言った。
「いいえ、私がするの。そう決めたの。だからいいのよ。ただこの先の長い長い時間のことを思えば、今一瞬くらい」
あの時もユイはそう言ったのだ。自分がやると。一瞬で彼女は全てを決めた。迷わなかった。そしてその後もずっと彼女は迷わなかった。
今も、幼いシンジを前にして、再びその体に触れられる事実を目の前にしても、ユイの心は揺らぎを見せない。
その気丈さにレイは少し眉根を寄せる。
「だけど、シンジ君には起きてもらわなければ」
「もう、起こすの?」
ユイはカヲルを見上げた。初めてその表情が曇っている。カヲルとて、もう少し時間をあげたい気持ちはあった。それはユイの強さに対してでもあり、シンジの心に対してでもある。
しかし余り長い時間を許されているわけではない。それは自分がどうこうできる事象ではないのだ。
そして、
「それが、彼の為でもある」
そう告げた。その言葉にユイは少しだけ寂しそうにシンジの頬を撫でた。柔らかい幸福そのものの頬を撫で、名残惜しそうに指は離れた。
そうしてユイが頷くと、ゆらりとその輪郭が崩れ、その姿はレイに変わる。
代わりに、カヲルの隣に立っていたレイがユイへと変わる。
夢の中の夢で、遊んでいるシンジ。その姿は子供に戻っており、子供の頃をやり直しているようにも見えた。
きゃらきゃらと笑い、はしゃぎ廻り、次から次へと遊具を渡る。
少年と少女が来てシンジの傍らに立った。
「シンジ君。さぁ、もう帰らないと」
きょとんとした表情でシンジは少年を見上げた。不審さを表すこともなく素直な言葉を口に乗せる。
「おにいちゃん達、誰?」
その問いに少年はにこりと笑い、ポケットに手を入れたまま少し体を屈めると視線を合わせた。
「僕はカヲル。この子はレイ。君の知り合いだよ」
「……? 僕、知らないよ?」
「思い出したくないんだよ」
その声色は少しだけ淋しげだった。シンジは言葉の意味はわからなかったけれど、その声を聞くとなんだかとても悲しい気持ちになった。
「知らないってば」
その悲しい気持ちを振り払う様に、語調が強くなる。拒否しなければ。この人たちを、その言葉を拒否しないと悲しいことが起こる。そんなことが何故か頭に浮かんでシンジは不安になった。
そんなシンジをどこか哀しそうな、それでも優しい笑顔で見ながら、少年は言葉を継ぐ。
「本当はもう少し、君に時間をあげたかったけど、これ以上はLCLになったヒトが持たない。これが僕の罪滅ぼし。最後の仕事だ」
「最後?」
『最後』
この世の終わりのような言葉。
「そう、最後。本当はもういないんだから、当然だね。君を目覚めさせたら、僕は消える」
「いやだっ! 消えちゃいやだ。それなら僕は起きない」
思わず口をついて出た言葉を少年は見過ごさず、からかうような口調で言葉尻を捕らえる。
「あれ? 僕なんて知らないんじゃなかったの?」
「知らないよ! でも消えて欲しくないんだよ。このままずっとここにいようよ。一緒に遊ぼう? ここでならずっと変わらないでいられる」
「そうだね、君が本当に心からそれを願えば、レイはそれを叶えるだろうね。でも、それでいいのかい? シンジ君。君がこのまま目覚めなければ、LCLとなってしまった人々の体は、もう再生することができなくなる」
『もう再生することができなくなる』
その言葉を聞いて、シンジは表情を無くす。そんなシンジを少年は痛ましげに見下ろす。
「でも、僕は……君が、君に……」
幼い子供の外見がゆらりと揺れる。ふと14歳の姿が現れまた子供に戻り、また揺らぐ。
そんなシンジの様子にも手を出さず、ふたりはじっと見守っている。
「ここは、楽しいのに、でもここは……」
シンジもわかっているのだ。
けれど。
心の何処かが願っている。このまま永遠に。
そしてそれを許さない自分もまた、確かにいた。
シンジの姿はしばらく不安定に形を変え、ついに大きく揺らぐと、14歳のシンジになった。
制服を着たシンジは静かに泣いている。零れる涙がそのまま滴り、シャツに染みをつくる。
そうして
「カヲル君」
少年の名を呼んだ。
カヲルは、シンジに微笑む。最上の、自分に出来る一番優しい顔で。
これが最後だ。もうこんな風に会うことはできない。だから。
「思い出してくれたみたいだね」
シンジが覚えていてくれる姿が、今の姿であるように、願う。
シンジが思い出したことで世界は様相を変え始める。
何処かぼやけていた空間に空が広がり始める。青い青い、そして白い雲のかかる空。
そして足の下には同じく青く碧い海。さざめく波が不思議な紋様を浮かび上がらせ、反射する光が三人を照らす。
「一緒にいたかったんだ」
シンジが呟くように口にした。
それはカヲルも同じだ。レイも。
ずっと友達のように、人間のように、一緒にいることが許されるなら。
でもそれは無理なのだ。
「僕はここにいるよ?」
カヲルに言えるのはそれだけだ。ここに、現実には会えないこの場所にしか自分は存在できない。
取り残されるのは自分だけ。
カヲルのその言葉に、シンジはゆるりと首を振る。
「そうじゃなくて、そうじゃなくて、僕は」
「わかっているよ。でもそれは無理なんだ」
”僕はもう死んでいるんだから”
その言葉は口にはしなかった。言わなくても、わかっている。
「レイが、傍にいるよ」
カヲルは説き伏せるようにそう告げ、傍らのレイを見遣る。
レイも視線をカヲルに向け、それからシンジを見て、淋しそうに微笑んだ。
綾波よりも、綾波じゃなくて。
そんな言葉を口にしそうになって、シンジは唇を噛む。
二人にだってどうにもできないことなんだということはわかっている。
だからこれ以上は二人を困らせるだけだ。
ただ、思い切れない。
この時間を、終わらせられない。
「シンジ君」
「碇君」
二人からの言葉は、終わりを求めるものだった。
シンジが口にしなければいけない言葉。
言いたくなかった。子供のように泣き喚いて手足をばたつかせて”嫌だ”と言うことができるなら。
でも、言わなければいけない。
「僕、行くね」
それを口にした途端、視界が揺らいだ。
シンジは思わず手を伸ばす。
せめてちゃんと姿を見て。
けれど、それさえも許されなかった。
シンジが消えると世界は暮れ始める。
空がオレンジに染まる。それを映して海も暗く、オレンジに揺れる。
「じゃあ、カヲル。また会いましょう」
「ああ、またね。レイ」
そうしてレイの体も消える。
カヲルだけが、セピア色の風景の中に佇み続ける。
現実。
波音のする世界で目覚めるシンジ。
体を起こし、打ち寄せる波を見る。
海は、水の色を変えていた。常識では考えられないようなオレンジ色。それは、人々の眠る夢の世界の色。
世界はまだLCLの中にあった。
それでもシンジは知っている。
人々が戻ってくることを。
その中にカヲルはいないことを。
膝を抱えて、じっと、ずっと水平線を眺めている。
ポンと肩に置かれる手。
ゆっくりと振り仰ぎ、寂しげに笑う。
手は、アスカのものだった。
「おかえり」
「もう少し嬉しそうには言えないの?」
「そうだね。おかえり」
「ただいま。……これからどうなるのかしら?」
「どうにもならないよ。みんな帰って来て、また普通の生活が始まる」
「どこが普通だって言うのよ。街も何もかもなくなっちゃったじゃない!」
「でも、すぐに戻るよ。少しずつでも戻ってしまうよ」
「なんだか嫌そうね」
「……ちょっとだけ」
「結局、あんたも全然変わんなかった、ってことか」
「アスカは? 変わったの?」
「そんなのなんであんたに言わなきゃいけないのよ!」
「そうだね」
人々が再び街を作り生活を始める。
たぶんもう海から帰ってくる人はいない。
シンジは、もういなくなってしまった両親に代わり、結局ミサトやアスカと暮らしている。
エヴァがなくなったこと以外、まるで以前と変わらない様に見える。
どこか、深い深い所に小さな火種が屑ぶっているような、そんな気配だけを残して、ユイはエヴァに乗って行ってしまった。
見てはいないけれど、それはわかっていた。
遠く遠く星々の間を漂う初号機は、いつかどこかに辿り着くのだろう。
その頃にはもう自分は、もしかしたらこの地球さえ消えているかもしれないけれど。
空を見上げて溜め息を一つ吐くとシンジは再び歩き出す。
人込みの中を。
彼の良く知る赤い目の少女がその雑踏の中を歩いていた事を、シンジはまだ気付くことはなかった。
このシンジは、カヲルを待つこともしないし、カヲルを追いかけることもないと思います。
2004-11-28:2文字ほど修正