「いやだぁぁっ!やだっ、やめて!」
叫び声で目を覚ます。隣に寝ているシンジ君が喚きながら暴れている。
振りまわされているその手を注意して掴んで抑えつけ、体重をかけて抱え込み手足を封じる。
そしてゆっくりとその耳に言葉を注ぐ。
「大丈夫、大丈夫だから。それは夢だよ。今君の側にいるのは僕だよ、シンジ君」
喚いて全身に力を入れてもがいている最初のうちは届かない。それでもずっと言葉を紡ぐ。
良くあることだし、どうすればいいのかもわかってるから、もう僕までもパニックになることはない。
初めてそれを目にしたときは、僕もびっくりして、どうすればいいのかわからなくて、暴れるシンジ君を抑えつけるのに格闘して、お互いに痣を作ったりしていた。
今はそんな風に無駄なケガをすることもない。
暫くしてシンジ君は僕が目の前に居ることに気づくと、動きを止める。ホッとしてシンジ君を抑えている腕を緩めると、シンジ君が僕の頬に手を伸ばす。
「・・・カヲルくん・・・?」
「そう、僕だよ」
そう言うとシンジ君は僕の首に縋りつき、涙をこぼす。泣きながら僕に口付けて体をこすり付けてその先を誘う。
パジャマ代わりのTシャツをたくし上げて、細い体を撫でまわす。

深く穿つと安心したように笑って、僕を引き寄せて舌を絡ませた。

こんな風に欲しがるシンジ君が哀れだった。
実父にされたのと同じ事のはずなのに、他人に触れられるのがまだ怖いはずなのに、僕にそれを求めてくる。
普段は見ないようにしている、忘れている記憶を夢に見て、それを忘れるために僕に抱かれて。
シンジ君の中で、何がどう処理されているのか、僕にはわからないけれど、それで彼が落ちつくから求められるままに何度も抱いている。

シンジ君が保護されたとき、彼を引き取れる人間はいなかった。彼のお母さんはずいぶん早くに亡くなっていたし、両親のどちらも天涯孤独の身で、シンジ君にも兄弟はいなかった。シンジ君を庇護してくれる大人は誰一人として存在しておらず、逆に持余していることがわかった僕は、シンジ君と暮らすことを押し通した。
僕は完全な未成年で、本当ならシンジ君を引き取るなんてことはできない。でも僕には強力なバックグラウンドがあった。今までそれを望んだことなんて一度もなかったし、逆に面倒だと思っていたくらいだったけれど、このときだけは自分の境遇を天に感謝した。使えるものは全て使って、環境を整えて、僕は彼との生活を手に入れた。

最初は本当に友人として、友達として好きだった。
初めてシンジ君を抱いたときだって、恋愛感情よりはおかしくなっているシンジ君に引きずられてと言った方が正しい。体から先行した関係だったけれど、それでも僕は彼を抱くことに嫌悪感なんてなかったし、愛おしくて仕方がないという気持ちの方が強かった。泣きながらすがりついてくるシンジ君を何とかしたかった。僕の腕の中で落ち着くシンジ君を見て、たとえようのない心地にもなった。
今では正直シンジ君を抱きたいという欲望を持って抱いている。ただ、思いのままに手を伸ばすことに、どうしてもためらいが生じるのも確かだった。
悪夢を見た時以外のシンジ君は、欲望で触れられるのを怖がる。できるだけそういう空気を作らないように手を伸ばすけれど、興奮してしいるのを完全に押さえることなんてできるわけがなかった。
それでも彼に触れられるのは僕だけだった。怖がりながらも僕の手を拒否したことはなかった。快楽に酔ってはくれないけれど、それでも僕を拒絶はしない。
そんな小さな事実が僕の心の支えだった。

二人で暮らすようになって最初の頃は、ずっと家にこもりっぱなしのシンジ君に少しでも気分転換をと思って、外に連れ出したりもした。他人が、特に大人の男の人がダメなシンジ君は、道で男の人とすれ違うだけでも冷や汗を流して呼吸を荒くして立ちすくむ。それでもずっと家にいる方が不健康な気がして、できるだけ人に出会わないですむように細心の注意を払って外へと連れて行った。
でも、シンジ君は怯えた顔で僕の服をつかんだ手を離すことはなかった。家にいればくつろいだ表情も見せてくれるのに、外では強張った顔で。
だから外へ連れ出すことはしなくなった。

それからはもう随分と長い間、シンジ君は落ちついていたし、うまくやってこれたと思っていたし、このまま変らずに二人で過ごせると思っていた。

ある日、仕事から帰ってきた僕にシンジ君はとても嬉しそうにこう言った。
「僕、子供ができたよ」
言葉の意味を理解するのに数秒かかった。
「シンジ君?」
「ここにね、居るんだよ。僕らの子供だよ」
お腹を撫でながら言うシンジ君の顔は冗談を言っているうようには見えなかった。
「シンジ君、僕らは男同士なんだから、子供なんてできるわけが・・・」
「ううん、ちゃんといるんだよ、ここに。赤ちゃん」
「それはおかしいよ」
こればかりは頷けない。というより本当にシンジ君がそう思っているなら、それはそれでまずいのではないだろうか。
言葉は少しきつかったかもしれない。さすがにびっくりしていたから。そしたらシンジ君は泣きそうな顔になった。
「カヲル君は、僕らの子供、いらないの?」
そう言う問題じゃない。でもシンジ君の目には涙が溜まっていて、今あんまり強く言うのはマズイのではないかと思えた。
「そうじゃないよ。できるものなら欲しいと思うけど。でも君が心配なんだ」
「大丈夫だよ」
「そうは言っても、シンジ君はあんまり体丈夫じゃないだろう? 今度先生にちゃんと見てもらおう? 病院に行ったわけじゃないんだろう」
そう言うと頷いた。行けるわけがない、と判っていて聞いている。
「今度の診察日に、一緒にみてもらおう」
しぶしぶと言う顔でシンジ君は頷いた。

シンジ君は定期的に医者にかかっている。赤木先生はいつもと同じ短めのスカートに白衣。医者としてこういう格好はどうなんだろう? と思うけれど、ここは彼女の病院だし、誰も何も言わないのであればいいのだろう。
「調子はいかが?」
「はい、大丈夫です」
シンジ君はいつも同じ答えをする。赤木先生もわかっていて聞いている。
変らない問答の後、僕に向かって聞いてきた。
「渚君からはどう? 何かある?」
あるにはあるけれど、シンジ君の目の前では答えにくかった。直ぐに答えなかったことで察してくれた赤木先生はシンジ君に向き直った。
「今日は久しぶりに少しテストを受けて欲しいのだけれど、いいかしらシンジ君」
シンジ君は素直に頷いた。

テストは別室で伊吹さんが行う。シンジ君がチラッと不安げに僕を見て、それから伊吹さんとドアを出て行った。
「で、何があったのかしら?」
赤木先生は引出しからタバコを出すと1本咥えて火をつけた。患者の前では絶対に吸わないようだけれど、僕は患者じゃないからいいのだと以前言っていた。
「シンジ君が、妊娠してるって言うんです」
「妊娠?」
「男だし、そんなことはないって言うんだけど・・・」
「そう、それは珍しい話ね」
赤木先生は僕らのことを知っている。発作の事もあるから、全て話してある。だから妊娠したという言葉も、それほどの衝撃ではなかったのかもしれない。
「そういうのってあるんですか?」
「女性ならあるわよ。でも男性での症例はほとんどないわね」
「否定してもいいのか、肯定した方がいいのかわからなくって、とりあえず今日先生に見てもらおうって言ってたんですけど」
「今日の面接をみる限りでは本人も特に変化は見られないようだったけれど。
他におかしいと感じることはない? 眠れないとか食欲がないといったことは?」
赤木先生の質問に、出きる限り詳しく思い出して答えた。少なくとも僕から見て変わったところというのはなかった。 

それから赤木先生はテストの終わったシンジ君に色々と質問した。
いつもと違うことにシンジ君が戸惑っているのがわかる。僕を見る回数が増える。すぐ側に立ってその肩にそっと手を置くと、少しは安心したようだった。
「今日はちょっと長くなってしまったわね。疲れていない? シンジ君」
「いえ、大丈夫です」
「そう、ならいいけど。調子もいいみたいだから、次は少し期間をあけることもできるけど、シンジ君、どうしたい?」
「え、別に、いつも通りで構いませんけど・・・」
「そう、ではいつもと同じで」
そう言って赤木先生は立ちあがる。僕らを見送りながら、視線だけで僕に合図をくれた。

はっきり言えばよくわからないというのが先生の意見だった。
「テストや面接を見ても、特に悪化とかはないようだし。幻覚や幻聴が見られないから、薬が必要かは微妙ね。不安といえば不安なんでしょうけど」
結局シンジ君は赤木先生には妊娠の話をしなかった。
「一応私に言える話ではないといった程度にはちゃんと判っているということだと思うわ」
僕に対してのシンジ君なりのアプローチと行った所なんだろうか。でも何を言いたいのか、僕にどうして欲しいのかなんて全然わからないけど。
「何か他の症状が現れたらすぐに連れてきてちょうだい。それまでは様子をみましょう」
赤木先生はそう言って電話を切った。

結局シンジ君の妊娠妄想はそのまま消えることがなくて、ずっとお腹を撫でては「早く大きくならないかなぁ」なんて言っている。
そんなときのシンジ君の顔は妙に幸せそうに見えた。本当の妊婦さんみたいに。
だから、シンジ君の妄想につきあってもいいかな、と少し思う。

「名前何にしようか?カヲル君はどんな名前がいい?」
そんな話を嬉しそうにしてくる。
「そうだね、でもまだ男か女かもわからないし」
「女の子だよ」
「そうなの?」
「うん」

でもじゃあ育児用品とかを欲しがるかといえば、そんなことはなかった。
シンジ君の性格だったら、オムツやミルクなんかの用意を言い出すんじゃないかと思っていたけれど、そういうことは一言も言わなかった。
僕も下手なことを言いたくなかったから、自分からそういう話題を振ることはしなかった。

妄想がシンジ君の不安だと言うのなら、僕はもっとシンジ君に構わないといけないのかもしれない。
でも仕事はこれ以上はどうにもできない。残業にならないように、就業時間中に全部終わらせてはいるけれど、時折自分のせいではないどうしようもない理由で遅くなることはある。
家に仕事を持ち帰ってしまうこともなくすことはできない。できるだけシンジ君の前では仕事をしないと思っていても、時間の制約上仕方のないこともあった。
接待や飲み会といった付き合いは全部断っている。それがマイナス評価になると判っていても、それ以外の部分で取り返す自信はあるから気にしてはいない。
休みの日もシンジ君といる。
これ以上、なにをどうしたらいいのか、僕にはわからなかった。

しばらくして、シンジ君が夜うなされるのが減っている事に気付く。結果として僕らがセックスする回数も減っていた。
あんまりそういうことに執着しているつもりはないけれど、それでも時々やっぱりシンジ君に触れたいと思うのは仕方がないと思う。
でもシンジ君は「赤ちゃんが居るから」というようになった。
僕が言い募ればやらせてくれるけれど、どこか嫌そうなのはわかる。
そういうシンジ君を見ると、妄想に付き合おうかなんて思っていた気持ちは吹っ飛んで、本当はやっぱり僕とするのは嫌だったんだろうかと思ってしまう。だから妊娠なんて理由で拒絶しているんじゃないかと。

次のシンジ君の診察の時に、僕はその考えを赤木先生に言ってみた。でも赤木先生はそれを否定した。
「シンジ君が本当にあなたといるのがダメだと思っているなら、一緒に暮らすことはできないでしょうね。セックスだけがダメとかそういう付き合い方ができるとは思えないわ。
妊娠はたぶん、あなたとの子供が欲しかった、ってことでしょう。それがシンジ君にとってどういう意味があるのかはわからないけれど」
それでも、明確に「拒否」されているのだ。やっぱり僕を受けていれくれないのだと思ってしまう。
「シンジ君が拒否しているのは、たぶん自分自身で、あなたじゃないわ。あなたには辛いかもしれないけれど、しばらくは様子をみていなさい」
そういわれても僕の中のモヤモヤが消えるわけがなかった。

仕事が立て込んでいて疲れていた。だからシンジ君に甘えたいと思った。
しばらくしてなかったし、シンジ君に手を伸ばしたらやっぱり赤ちゃんを理由に渋られた。
「本当は僕としたくないんじゃないのかい? 赤ちゃんって言うけど、それはただの口実なんじゃないのかい?」
思わず口にしてしまった瞬間、シンジ君は酷く傷ついた顔をした。しまったと思ったときには当たり前だけどもう遅い。
「ごめん、仕事で疲れてたんだ。気にしないで、忘れて」
そんなことを言っても忘れられるわけがないと、判っていたけどそう言った。
シンジ君はぼろぼろと涙をこぼして、声を出さずに泣き出す。
「ゴメン、ごめんよ、シンジ君。泣かないで」
一生懸命謝って宥めた。それでもシンジ君は泣き止まず、「もう寝よう?」と言って僕はシンジ君を抱き締めたままベッドに入った。

うつらうつらとしていたら、がばりと隣でシンジ君が起きあがったのがわかった。
「・・・シンジ君?」
お腹に手を当ててシンジ君は呆然と言った。
「赤ちゃん、消えちゃった」
「え?」
「赤ちゃん、消えちゃった!」
そう言ってベッドから降りてドアへ駆け出す。いつものシンジ君からは想像も出来ない早さで、ドアを空けると飛び出していった。
「シンジ君!」
そう言って追いかけるけれど、もう彼は玄関を飛び出して行った後だった。
マズイと思って必死に追いかける。

玄関を出て左右を見まわすと右手奥の非常階段の扉が締まるところだった。駆けつけて扉を開けると、下方からカンカンという足音が聞こえる。
「シンジ君、待って」
そう言って追いかける。何度か落ちそうになりながら駆け下りて1階に辿りつく。
すでにシンジ君の姿は見えなかった。
どっちに言ったのかも判らない。
「シンジ君」
名前を呼びながら、とりあえず走り出す。
最近は病院へ行く時以外に外になんて出たことはない。その時だって車だ。シンジ君がこの辺の地理をわかっているとは思えない。
それでなくても外になんて出て行けないくせに。そう思って必死に探しまわった。
でもシンジ君は見つけられなかった。

しばらく外を探しまわって、もう一度マンションに戻る。
でもシンジ君は帰っていなかった。
僕は着替えて警察へと向かった。

親身になって探してくれるとも思ってはいなかったけれど、シンジ君の状態を話したらすぐに交番などに連絡をしてくれた。
警邏の人が探してくれると言う。
とりあえずお礼を言って自分ももう一度シンジ君を探しに出た。

シンジ君が見つかったのは2日後。
マンションから少し離れた川の下流でのことだった。

身元不明の水死体ということで警察に連絡があり、その年恰好から僕のところに確認が来た。

僕が駆けつけたときにはすでに川からは引き上げられていた。
水死体は見た目がひどい事になる、という話を聞いたことがあったけれど、シンジ君は最後に見た時のままだった。
閉じた瞳も寝ている時のまま。塗れた髪が額に張りついて。ただ顔色が悪いだけで。生きていないって風に青いだけで。
その腕にはふやけてボロボロになったぬいぐるみが抱かれていた。

ぬいぐるみを抱えて川に落ちたのか、ぬいぐるみを拾おうとして川に入ったのか。川は増水してもいなかったけれど。

後悔しても遅い。何もかもが遅い。涙が止まらなくて、人前も気にしないで泣いた。
泣いて泣いて、両手を打ちつけて。
「お願いだから、誰か殺して」
呟きは誰にも届かなかった。


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