僕の通う中学校は、公立のくせに”吹奏楽部”の他に”弦楽部”というのがある。
バイオリン、ビオラ、チェロ、コントラバス。
”吹奏楽部”に人数は取られてそんなに大所帯じゃなかったけれど、ピアノやなんかと違ってあまり身近にない楽器ばかりなので、興味本位で入部する人もいる。初心者でも先生が教本からちゃんと教えてくれて、卒業するまでにはそこそこ弾けるようになる。
うちの音楽の先生というのが自分でもバイオリンを弾く人で、本当は音楽教室でも開きたいところなのだけれど、無理だから学校でやっているのだと聞いた。
本当のところはどうだか知らないけれど。
でも教えるのは上手だと思う。バイオリンが専門のわりにはどれもちゃんと教えてくれた。
僕は小さいころからチェロを習っていた。
母さんが好きだった、というのが大きな理由だけれど、たまたま母さんの知り合いで教えてくれる人がいたこともある。
子供には大きい楽器だから最初は苦労した。
でも僕はチェロの音が好きだった。うまくはなかったし、練習、と言われる部分は好きじゃなかったけれど、この心地よい音の中に沈むはとても好きだった。
学校に”弦楽部”なんてものがあったのは本当に偶然だったけれど、ちょうど教えてくれていた先生が遠方へ嫁いでしまうところだったので、運がよかったといえば言える。
うちの部はちょっと特殊で、吹奏楽部みたいにみんなで合奏、なんてことはしない。みんな好き勝手に好きな曲を弾く。一曲にどれだけ時間をかけても構わない。噂では三年間ずっと同じ曲を弾いていた人もいるらしい。もし重奏がしたければ適当に相手をみつけて一緒に弾こうと言えばいいだけだ。
先生のモットーが”いろんな曲を楽しく弾く”で、先生から”これをやろう”って強制されないからなんだけど、だからうちの部はあんまりまとまりはない。みんな勝手に来て勝手に練習して帰る。
まあ、秋の学習発表会だけは仕方がないからみんなで演奏する。
それだって夏休み前に曲を決めて、後はほとんど自前で練習して、直前に先生がまとめるだけだ。それでも何とか形にはなる。
”吹奏楽部”の方は結構厳しいらしいから、僕らは羨ましがられたり睨まれたりして、あまり仲良くはないのがちょっと寂しいけれど。
「今度は四人でやらないかい?」
渚先輩にそう言われたのは一年の発表会の直後。
先輩が入部してからは先輩目的の女の子がたくさん入部するようになって、でもいつもは夏までにはほとんどの子は辞めていった。先輩がほとんど相手にしないから。でも今年は根性のある子が多かったのか以外と楽しいと思ってくれたのかいつもよりたくさんの子が残っていて、だから今年はバイオリンだけのグループと、残りの重奏に分けて演奏することになった。当然先輩は”一緒に弾きたい”っていう子達とバイオリングループだった。
先輩は重奏の方に入りたいって結構ごねたらしいんだけど、先生からのお達しが出てしまい、しぶしぶ承知したんだとこぼしていた。
だからその台詞は来年に向けての布石だということは理解できたし、僕は素直に了承した。
渚先輩はよく”一緒に弾こう”と声をかけてくれる。先輩目当ての女の子から逃れる意味だろうとは思うけれど、先輩のバイオリンはすごく好きだから一緒に弾けるのは嬉しかった。
僕ら一年生の中で先輩に興味を示していないのは、僕の幼なじみの綾波レイと、勝ち気で人気のある惣流=アスカ=ラングレーくらいで、ちょうど楽器の配分もよかったので四人で一緒に弾くことが多かった。僕らは一人でやるより他の楽器と合わせるのが好きだったっていうのもあるんだけれど。だから今度の”四人”っていうのもこのメンバーだろう。
僕は了承したものの確定事項とは思ってなかった。来年の話だし、先輩の気もどうかわるかわからない。でも先輩はその後綾波とアスカに話をつけると、先生にも”来年は四人でやる”と通してしまった。そしてその話を公にしてしまったから、女の子達からのブーイングはすごかった。
綾波とアスカはやっかまれてなんだかんだと結構酷いことも言われていたけれど、綾波はほとんど無視に近かったし、アスカに食って掛かれるほどの子もいなくて、結局はぐちぐちと引き下がっていった。
とりあえずは来年まで自分のパートを練習、ということになった。
気の長い話だけれど。
僕はよく夢を見る。いつも同じ夢だ。同じだとわかっているけれど、覚えているわけじゃない。ただいつもいつも、ひどくうなされて起きて”ああ、あの夢だ”と思うのだ。
悪夢、なんだと思う。
見たくない、と思わないわけじゃないけど、夢のコントロールなんてできるわけがなくて、それはいつも勝手にやってくる。
一度、先輩に夢の話をした。こんな夢を見るのだと。
そしたら先輩は顔を強張らせて、青くなってしまった。
「先輩?」
「なんでもない。シンジ君の話を聞いていたら僕までなんか恐くなって……」
「でも、そんな具体的に内容覚えてるわけじゃないし、恐がるような話かな?」
「自分の見た嫌な夢を思い出しちゃったんだよ」
無理矢理笑ってそんな風に言う先輩にどこか変な印象を受けたけれど、それ以上何も言うことはなくて、その話は終わった。
でもそれから先輩が時々”まだ夢を見る?”って聞いてくるようになった。相変わらず不定期に夢は見ていて、だから”はい”って答えるんだけど、そうすると先輩はいつも顔を曇らせて”そう”って言う。どうして先輩がそんなに気にしてくれて、そんな顔をするのかいつもわからなくて聞くんだけれど、いつも誤魔化されていた。
僕の夢は先輩には何か意味があるんだろうか?
二年になって僕はトウジやケンスケと同じクラスになった。綾波とアスカは隣のクラスだったけれど、部活の用とかでうちのクラスを覗くことは多い。渚先輩が来ることも多かったから、僕は女子からも男子からも羨望の眼差しというか、嫉妬の視線を向けられてしまい、苦笑して廊下へ逃げ出すこともあった。
中には妙な風に思い込んで、僕に意地悪する奴等もいて、そんな時はため息がでる。
アスカや綾波との間に恋愛感情なんてものは全然ないんだけど、男女が一緒にいるとどうしてもそういう噂を立てたい奴がいるらしい。僕なんかより渚先輩とできてるっていう方がありえるだろうに、先輩が相手じゃそういう噂も立てられないみたいで、矛先は僕に向いてしまうみたいだった。
綾波は男どもがどんなに言い寄ってもまるきり相手にしなかった。元々あまり口を開くことはないけれど、余計なことは言わないでただ”ごめんなさい”だけ。追いすがるような余地もなく去っていく後ろ姿に、がっくりと肩を落とす級友の姿を何度か見かけたりもした。
アスカは気に入らない相手だとたとえ男でも平気で文句を言い、辛辣な言葉を浴びせ掛けた。
一度そういう場面に出くわして、びっくりしたことがある。
思わず相手に同情してしまうくらいにアスカの言葉は強烈で、完膚なきまで叩きのめす、といった感じだった。
「そんな言い方すると逆恨みされるよ」
そう言ったけれど
「はん。上等よ。あんな情けない奴、逆恨みさえできっこないわよ」
なんて言う。
その強さに憧れないではないけれど、せっかく美人なんだからもう少し大人しかったらな、なんて思う。
綾波とアスカ、足して二で割ったら丁度いいくらいかもしれない。
でもまあどちらにしても所詮は他人事、だった。
その三年男子がアスカにしつこく絡んでいたことは知っていた。でも僕はまるきり関係ないって思ってたから、こっちに歩いてくるのと見ても何とも思わなかった。
でも眼前に立たれてものすごい顔で睨まれて、やばいと思ったけど遅すぎた。
ちょっと来いって特別教室の棟の、人気のない廊下へ連れ込まれる。
胸座をつかまれて壁に押し付けられる。気に食わない、なんて言われてもどうしようもない。どうしようか考えながら、それでも逃れようと手をかけると、手首をつかまれてものすごい力で引き剥がされた。
その時。
頭の中で何かが弾けた。
夢が、溢れてくる。
僕を飲み込む。
恐怖――――――――――――――
「う、うわああああああああああああああああああああっ!!」
自分に伸ばされた腕。何本もの腕。押さえつけられて銃口を向けられた。下卑た笑い。硬いプロテクター。殴られて口が切れて血の味がして。
「い、嫌だ。嫌だ嫌だ!!やめて、痛い、恐い、嫌だああっ!」
僕の様子に最初は驚いていたその人は、それでも何とか僕を押さえようとした。でも僕は触れられたくなくて、その人が恐くて恐くて、僕の目が見ているのは違う男達だったけれど、恐くて怖くて、暴れて自分が壁に頭とかをぶつけていても関係なかった。
「お、い、どうしたんだよ?大丈夫か?」
「嫌だ嫌だ嫌だ!放せよ、触るなあ!ああああああっ!!」
その人は僕を宥め様と、自分で自分を壊しそうなのを放っておけなくて、押さえつけてきたけどそれはまったく逆効果で。
見ている幻と重なって、僕にはもう恐怖しかなかった。
誰か助けて助けて助けて……
「シンジ君!」
その声は、おかしくなっていた僕の耳にもちゃんと届いた。
びくんとなって見上げた僕の視界に、銀の髪が映る。
「……カヲル君……」
僕の呼びかけに先輩は顔を歪めた。
僕は今まで先輩を名前で呼んだことはない。でもその時は、ずっとそう呼んでいたかのようにすっと名前が出た。
とにかく僕はもう正気じゃなくて、自分の頭の中の何かから逃れるのに必死だった。
「カヲル君!」
手を伸ばしてそう言って僕は先輩にすがり付く。泣き喚きながら痛いくらいにその腕を掴む僕を抱きとめて宥めながら、先輩はその人に行くように促した。
「誰か、呼んでくるか?」
その問いに先輩は首を振って
「いらないよ。大丈夫、僕が見るから」
そういった。
その人が離れていく足音が微かに聞こえた。
「シンジ君。大丈夫、何も恐くないよ。誰もいないよ? 誰も君を傷つけたりしないよ? ここは何もない世界だから。君を傷つける人はいないから、大丈夫」
先輩はそんな言葉を繰り返して僕をなだめる。額から瞼から頬から耳から口付けて、涙を舌でぬぐって、それから唇にやさしく口付ける。僕は先輩の肩口を握り締めて、赤ん坊のように縋って、自分から貪るように口付けた。
先輩を取り込むことで自分の中の嵐が治まるとでも言うかのように、縋りついて舌を絡めた。そんなキスをしたことなんてなかったはずなのに。
抱え込むようにすっぽりと腕の中に抱き込んで、背中を撫でたり、髪を梳いたり。頬を撫でて時々口付けて、耳元でずっと大丈夫と繰り返して。
温もりが、僕の体を優しく覆うその人肌がとても心地よくて、嬉しくて少しずつ心が緩む。
もっとそうしていて欲しくて、もっとその温かくて優しいものを感じていたくて、僕は先輩に体を摺り寄せるようにしてしがみついた。
あまりにもそこが、先輩の腕の中が心地よくて、逆に涙が出て来てしまうくらいに、自分がもう溶けて小さい赤ん坊か何かにでもなって、ずっとその中にいたいくらいに。
しばらくそうやって僕をあやした後、先輩は僕の頬に手を当てて、じっと目を見た。
「大丈夫。恐いことは何もない。忘れていいんだ。思い出さなくていい。君はこのまま幸せになればいいんだよ」
吸い込まれるような赤い瞳に不思議な光が宿る。
僕はすっと気が遠くなるのを自覚した。
「……カヲ、ル、くん……」
目を覚ますと自分の部屋だった。
いつベッドに入ったのか覚えていない。
昨日何をしてたっけ、と考えるけれど記憶はぼやけていて、ないに等しかった。放課後廊下を歩いていたあたりまでしか覚えてない。なにかあったような気もするんだけど……?
ふと、先輩の顔を思い出した。
昨日は部活にも出なかったし、先輩とは会ってないのに。
なんだかすごく気になって、でもどうしてかはわからなかった。
それから手首をつかまれるのが恐くなった。
軽くでもなんでも誰かの手が、たとえそれが両親や友達でも、手首に回るのを感じると恐くて振り払ってしまう。ただ一人、渚先輩だけは大丈夫なのだけれど、それが何故かはわからない。
先輩とは前以上に良く話すようになって、トウジやケンスケよりも仲良くなった。
時々何か言いたげな視線を向けられるのが気にはなったけど、聞いても答えてはくれない。
相変わらず悪夢は見る。
急に不安になることが増えた。
でも息が苦しくなって胸が動悸を打ち始めると必ず先輩が声をかけてくれる。そうすると僕は楽になる。
それが何か意味のあることかもしれないと何処かで思うけど、深く考えちゃいけないと思う自分もいて、結局は何も考えないで過ぎる。
”ワスレテイインダオモイダサナクテイイ”
もしかしたら、僕は大事なことを忘れているのかもしれない。
でも別にそれでいい。
それでいいんだ。