大地の終わりを越えて海の向こう、世界の西の果てには時間の止まった島があり、辿りついた人々はそこで変わらぬ姿のまま、扉が開くのを待つと言う。
そこには終末を迎えた人が集められていた。
すでに世界を正しく認識することは不可能で。会話も成り立たず見ているモノも違う。
過去を映し、過去に住み、過去を夢見る。
家族を忘れ、家族と暮らせず、死ぬこともなく生きている。
そういう人々が集められた場所。
言葉は通じない。
見ている物が違うから。
どんなに優しく声をかけても、どんなに繰り返し理を説いても、彼らは自分だけの世界に住む。
そうした場所は数多くあり、どこもたいして変わりはしない。
ただここには「彼」がいた。
彼はいつも優しく微笑み、目を見て手を伸ばし声をかける。
二人で話をしているとき、そこに漂う空気はまるで恋人同士のように暖かい。
深い皺が刻まれ、斑の染みが浮かぶその肌に触れる指の優しさは偽りではなくて。
彼が来ると誰もが静まった。
彼だけが、同じ世界を見ることができた。
彼だけが、過去の世界を知ることができた。
「どうしたの?」
彼の言葉だけが心に届く。
でも、彼はいつも「違う名前」で呼び掛けられる。
彼らの見ている彼らの世界の住人として、「違う名前」で呼ばれてしまう。
彼の優しさは本物なのに、彼を彼として見、その優しさを受け取る人はいない。
その「名前」が誰なのか、知るのは本人と彼だけで。
彼はその誰かとして振るまい、その誰かとして言葉を紡ぐ。
彼には見えているのだ。
違う世界が、過去の世界が。
その人が心で、頭で見ているように。
彼にはそれが見えてしまう。
他の誰も知ることのできない光景。
こちら側に生きる人には見えない景色。
「もし彼らとちゃんとコミュニケーションできれば、彼らは家に帰ることができ、家族も彼らと暮らせるのではないか?」
それが始まりだった。
色々な思考が重ねられ、試行が重ねられ、とりあえずの形ができる。
彼が選ばれたのは、彼がそのチームの一員であり、志願したからだった。
彼は「父親」との会話を望んでいた。
「父親」にちゃんと見てもらうことを望んでいた。
離れて暮らしていたから碌に会話もしたことがなく、「父親」はいつも何か違うものを追い掛けており彼を見ることがなかった。
それでもいつかと思っていたのに、「父親」は病に倒れ、永遠に彼を省みることがなくなった。
そのまま捨て置いてもいいはずなのに、何故か悔しくて、「自分を見てもらうために」チームに入った。
彼は頭に種を植える。
他人と同じ夢を見られる種を。
実験は成功した。
結果、彼は「彼」ではなくなった。
考えてみれば当たり前だった。
父親の見ている世界を「見る」のだ。父親の世界を「変える」わけではない。
父の世界には住む人に成り代わってしまただけで、結局彼は自分を見ては貰えなかった。
それでも、視線が自分に向いていて、言葉も自分に向いていたから。
今までそんな風に真っ直ぐ見て会話をしたこともなくて。
自分を見ているんじゃない。他の人だと思っているだけだと、わかっていたけれど、そのまま錯覚することにした。
父親は、頭の中だけの存在ではない相手を得たことで、症状が改善する。
種を植えた人には辛いかもしれないけれど、これは使えると皆が思った。
状態がよくなったと思われていた父親の容態は、ある日急に悪化する。
それは実験のせいではなく、病に由来するもので、どうしようもなかった。
彼は身内として、父親の側についていた。
死の瞬間も側にいた。
ベッドサイドで父親の手を握っていた彼の周囲が色を変える。
光。
見まわすと大きな扉があって、それはゆっくりと開こうとしていた。
「ユイ!」
声に振り向けば、若い頃の姿の父親がそこにいた。
握っていた手を振り解いて、父親は扉へと走る。
扉の向こうには人影が見えたが、彼には、誰か知ることができない。
今まで自分に向けられていた言葉が、扉の向こうにいる存在へ移る。
振り返りもせずに走りゆく。
とても幸福な顔をして、簡単に。
そうして父親が扉の向こうに消えた瞬間、世界が暗闇に閉ざされる。
置いて行かれた。
それだけを思って意識が消える。
次に目が覚めた時、彼はベッド上で色々なものを取りつけられていた。
父親が死んだ瞬間、彼の体も死に掛けたということだった。
種を植えていると、死者に引きずられる。
他の人で確認を取るわけにもいかず、結局、実験は彼だけで終わった。
彼の頭の種は取り除かれず、彼は他人の夢が見えるまま。
それからこうして違う世界を渡り歩いている。
それから何度も。
何度も何度も彼は見送ってきた。
死にかけて、それでも彼らの側にいることをやめなかった。
その理由を尋ねられても、彼は黙して答えない。
大地の終わりを越えて海の向こう、世界の西の果てには時間の止まった島があり、辿りついた人々はそこで変わらぬ姿のまま、扉が開くのを待つと言う。
その扉をくぐれるのは、時を終えた者だけ。
生者は扉をくぐれない。
けれど彼はここにきてしまった。
世界の果て、時の止まった場所へ。
置いて行かれた彼は、戻ることもできない。
扉が開くのをただ見送り、何度もここに置いていかれる。
門をくぐる人を見送り続けて既に彼はここの住人だった。
門の番人だった。
彼岸の岸、黄昏の島に彼は。生きながらにして夕暮れに住む。
笑う。話す。触れる。手を取る。
側にいる。
ただそれだけ。
もう誰でもない。
もう誰も、彼の本当の名を呼ばない。