彼が気になったのは、妙にちぐはぐな印象を受けたから。
マンションへの帰り道、敷地内の縁石に座って空を見上げていたその人は、服は薄汚れてよれよれなのに、とても綺麗だった。
遠目から見ても肌も指も爪も汚れていない。清潔な印象。色のない髪に白い包帯を巻いていて、それは右目を覆っていた。そしてその包帯もなぜか真っ白で綺麗だった。なのに服はどこかで転んだみたいに土がついていたし、なんだかもう何日も着ているみたいで、そのアンバランスが目を引いた。
その顔があんまりにも綺麗で、そんな人が汚れた服を着ているのがなんとなく許せなくて、声をかけて連れて帰ってしまった。
とりあえずお風呂に入ってもらって、サイズは合わなかったけれど僕の服に着替えて貰うと、ちぐはぐは消えて綺麗なだけになった。
部屋に入るまで気付かなかったけれど、その人の目は赤くて肌も異常なくらいに白かった。人間離れした、まるで人形のように見える。
「おなか空いてない?」
「少し、空いてるかな」
「じゃちょっと待ってて。晩御飯作るから」
「君がつくるの?」
「うん。おかしい?」
「ううん。楽しみにしているよ。ところで君の名前を教えてくれないだろうか」
そこで初めて僕は、彼の名前も聞いていなかったと気付く。
「ごめん。僕は碇シンジ。ここには父さんと二人で住んでいるんだけど、父さんはほとんど帰ってこないから、遠慮しなくていいからね」
「僕はカヲル。渚カヲル。よろしくね」
それから簡単に夕食を作って二人で食べた。食べながら、自分が変なことをしていると思った。初対面の、名前も知らなかった人を家に上げて一緒に夕食を食べているんだから。いつもの自分なら絶対にしない。できるだけ厄介事には関わらないようにしているし、他人と関わるのだって最低限にしているのに。どうしてこの人を連れてきてしまったんだろうと思う。
「渚君、口に合うかな?」
「カヲルでいいよ」
「え?」
「名前。カヲルでいいよ」
「あ、うん。わかった。えと、じゃ僕もシンジでいいよ」
「シンジ君ね。うん、おいしいよ」
「え?」
「料理」
「あ。そう。よかった」
食べ終わって、食器を下げて洗っているとカヲル君が来て手伝ってくれた。いいのに、って言ったけどそれくらいはさせて欲しいと言われて了承した。
それから居間でぼんやりとふたりでテレビを眺める。眺めながら考えていたのはカヲル君のことだった。
僕はどういうつもりなんだろう。このままカヲル君、泊めるのかな。でも今更追い出すなんてできないし。なんであんなところに座り込んでいたんだろう。あんな格好で。色々と気になる。気になるんだけど、聞いていいのかな。あんまり触れられたくないことだったらどうしよう。あの包帯も。ケガしてるんなら薬とか病院とか必要なんだよね。そういうの聞いた方がいいのかな。それとも言ってくれるのを待った方がいいのかな。
そんなことをグルグルと考えていて、テレビはまったく目に入っていなかった。
「シンジ君」
「ぅわぁ!」
急に側で声をかけられてびっくりして変な声を出してしまった。そんな僕に逆に驚いているカヲル君。
「ご、ごめん。ちょっと考え事してたから」
「それはいいんだけど。僕はここにいいていいのかい?」
その質問には答えにくかった。でもなんでだろう。出ていって欲しいとは思っていなかった。他人と一緒にいると居心地が悪くなってしまう僕が、カヲル君だと全然平気で。ちょっと色々と考えてしまっているけど、それは嫌だからとかじゃない。
「行くところがないんなら、ここにいてくれていいよ」
頭じゃない、どこかがそう答えていた。
「そう。じゃあお邪魔じゃなかったら、しばらく居させてもらっていいだろうか」
「うん。いいよ」
それから僕は客用布団を一式、居間に持ってきた。それを見たカヲル君が僕もここで寝るのかと聞いたから、僕の部屋は別だと言うと、一緒がいいと言われた。ちょっとだけ迷ったけれど、僕は客用布団を自分の部屋に敷いた。
自分じゃない人が近くで寝ていると言う状況には慣れていない。それでもカヲル君だと嫌だとは思えなくて。ただ緊張していた。何を緊張しているんだろうと自分でも考えてみるけれど、よくわからない。もしかしたらあまりにも綺麗で、本当に人間じゃないみたいに見えるから、そのせいで緊張しているのかなと思った。
ちらりとカヲル君を見てみると、彼も僕の方を見ていて視線が合ってしまった。
隻眼の視線。
すごく綺麗なのに、これで両目が揃っていたらもっと綺麗だろうにと思ったらするっと聞いてしまっていた。
「そっちの目は怪我をしているの?」
聞いてからやばいと思ったけれど、カヲル君は表情一つ変えないで答えてくれた。
「ううん。怪我をしているわけじゃない」
「見えないの?」
「いいや。見えるよ、普通にね。ちゃんとあるしちゃんと見える」
「じゃあなんで包帯なんてしているの?」
「この目は番いを探している。だから隠しておくのさ。何も見えないように」
「??」
何を言っているのか判らなかったけれど、あんまり突っ込んで聞くのも躊躇われて返事をしなかったら、今度はカヲル君から色々と聞かれた。自分のことをつらつらと聞かれるままに答えているうちに僕は眠り込んでしまった。
それからなんだか不思議な共同生活が始まった。
僕は学校があるから日中は部屋を空ける。帰ってきたらカヲル君は掃除や洗濯をしてくれていた。そんなことしなくてもいいのに、と言ったら家賃代わりだと言われた。
父さんは全然構ってくれないけれど、お金だけはきっちり入れてくれていたし、、その金額も随分余裕があるから居候が一人くらい増えたって生活面で困ることはないと思う。それに僕も家のことをするのは嫌いじゃない。逆に帰ってきてからが手持ち無沙汰で、今までの生活パターンが崩れてしばらくは戸惑っていた。
それでもやっぱり帰ったときに「お帰り」と言ってくれる人がいて、家のことを誰かとして、くだらないテレビを見て一緒に笑える人がいるのは嬉しかった。
たぶんカヲル君だからだ。他の人だったらきっとこんな風には馴染めない。どうしてだかわからないけれど、カヲル君だととても自然に側にいられた。ほんの数日しか経っていないのに、まるでもう何年も一緒に暮らしているような気がするくらい、カヲル君の存在は僕の中に馴染んでいた。
カヲル君はとても白い。肌も髪も。別にそれを奇異には感じなかったけれど、白いから普段は馴染んでいる包帯が、時々妙に目に付いた。何て言うんだろう。そっちの目では見られていないはずなのに、妙に視線を感じることがあった。それはカヲル君も意識しているわけじゃないみたいで、普通に会話していて左目は笑っているのに、なんだか強い視線を包帯の向こうから感じることがあるのだ。そんな時は妙にその包帯が気になって、僕はその包帯に視線を向けてカヲル君と話している。そしてふと自分が見ているものに気付いてカヲル君の表情を見る。カヲル君は何も変わらないで僕を見ている。
そんなことが何度かあって、僕はカヲル君の隠れている目を見たいなと思っていた。
もちろんその奇妙な視線だけが理由じゃなくて、僕が綺麗だと思うその紅玉の目が二つ揃っていたらどんなにか素敵だろうって思うからでもあった。
とても綺麗で深い色をしたカヲル君の目が、僕は大好きだった。
でも、包帯を取って見せて欲しいとはねだれなかった。
唯一、入浴するときには外しているようだけれど、さすがにお風呂には一緒に入っていない。お風呂から上がってくる時にはすでに、自分でどうやって巻いているのだろうと思うくらいに、いつもきれいにぴっちりと巻いてある。解れそうな気配もなかった。
だから僕は、見たいけれどカヲル君の両目が見られることはないんだろうなと思っていた。
それはたぶん偶然だった。
いつものように二人で寝て、いつものように目が醒めた。
カヲル君はまだ眠っていた。
その包帯は少し乱れて、隙間からいつもは隠れている右の瞼が見えていた。
寝ぼけた頭で「めずらしいな」と僕は思っていた。今までそんなことは一度もなかった。どんな朝だって、まるで眠ったりしていないかのように包帯はぴっちりと巻かれていたから。
思い返して見れば「目を見てはいけない」とは確かに言われたことはなかったから、その目を眺めていることに何の感情もなかった。禁忌だとも思っていなかった。
そのうちに、ぱちり、とカヲル君の両目が開いた。
いつも見ているのと同じ、赤い瞳。
どちらも変わらないのに、両の目で見られると僕は石になったかのように動けなくなった。
その綺麗な容貌にただ見惚れた。
カヲル君はしばらく無表情に僕を見ていたけれど、その口の端を上げる。
「やっぱり君の目はきれいだね」
そうカヲル君の声がした。
僕は「綺麗なのは君のほうだ」と思ったけれど唇は動かなかった。
カヲル君の手が伸びてきて僕の左の瞼に触れる。親指が下瞼を撫でるように動く。
「好みだってわかっていたから、ずっと見せないようにしていたのに、見せちゃったねシンジ君。思ったとおり、君が欲しいとこの目が言っているよ」
言葉の意味がわからない。それを考える前にずぶりと指が一本、眼窩へと押し入ってきた。動けない体がそれでも小刻みに震える。
痛みはない。痛くはないけれどただ物凄い圧迫感と、歪んだ視界が怖かった。
ぐるりと眼球を撫でるように指が一周してから親指も指し込まれた。
片目で嗤うカヲル君を、片目で視界を覆う手のひらを見ていた。
指はそのまま眼球を掴んで、収まっている場所から引き剥がそうと動く。
がぽ。
なんだか間抜けな音がして、左目の視界は暗転した。微笑むカヲル君しか見えない。
眼窩から抜けた眼球とまだ繋がっている神経が引っ張られて伸びているのが判る。
どうしたらいいんだろうとどこかのん気に考えている自分を自覚する。
なんだかおかしい。自分はもっと慌てるとか怖がるとかした方がいいんじゃないだろうか。だって目を刳り抜かれたんじゃないのか? これは。
そんなことを考えているうちに、プツっと神経が切れたのが判った。
「あ、あああ・・・」
やっと声が出た。でもそれもどこか拍子抜けするような音で。
なくした眼球を惜しむかのように両目から涙が零れて、僕は目を閉じた。
目が醒めて最初に見えたのはいつもの自分の部屋の天井だったけれど、なんだか妙な違和感があった。
ぱちぱちと瞬きすると違和感は消える。なんだったんだろうと思ううちに思い出した。
そうだ、僕、カヲル君に目を取られたんだった。
でも視界は変わらず普通にある。手で片目ずつ覆ってみたけれど、両方ともちゃんと見えていた。
夢だったんだろうか。そう考えているところにドアが開く。
「やあ、目が醒めたんだね。気分はどう? シンジ君」
入ってきたカヲル君を見て僕は驚く。包帯のないその顔の、いつも見えていた方の目、左目が黒い。
赤い目と黒い目。その不思議な配色。
驚いて言葉もでない僕に、カヲル君はくすくすと笑って、
「こっちの目はね、君のだよ。交換したんだ」
と言った。
こうかん?
漢字が浮かばない。頭の中で漢字に変わる前に鏡が差し出された。
そこに映る自分の顔の、カヲル君に取られたはずの目は、赤い色をしていた。
「え?」
ちゃんと見えている。両目でしっかりと見えている。視界は何も変わらない。なのに僕の瞳は赤い色になっていた。
「そっちは僕のね。ちゃんと見えてるだろう? 相性がいいから馴染みも良かったしね。僕の方もすぐに見えるようになったよ」
そういってカヲル君は笑った。
つられて僕も笑っていた。
自分の目は自分じゃほとんど見ないから、結局あまり気にはならなかった。異物感と言うか違和感もないし、見え方も変わらないし。
学校にも普通に通っている。どうも他の人は僕の目の色が違うことに気付いていないようだった。誰にも指摘されることなく僕は外を歩いている。
カヲル君の赤い目で見ると世界は違って見えるんじゃないかと思っていたこともあったけれど、実際にカヲル君の目で見ても、世界は全然変わらなかった。
それでも恐らくこの目はカヲル君のままなんだと思う。
あれから時々僕の意識がカヲル君に侵蝕されているような気がするんだ。自分で考えていないのに体が勝手に動くことがあって、僕は戸惑っている。
そんなつもりはないのに、まるで自分からカヲル君を誘うように動く手足。
感じているのは僕だけれど、動かしているのはカヲル君みたいに、彼の思う形をとる身体。
たぶん、カヲル君の目に僕はこのまま支配されていくんじゃないかなって考える。
別に怖くはない。少しも怖くなくて。
完全に支配されてしまったら、カヲル君がふたりになるのかな?
なんて思ったりしながら、僕はカヲル君の下で目を閉じる。
このままカヲル君と同化できるのなら、それは幸せなことなのかもしれない。
きっと。