あれから10年が過ぎた。
結局、父さんは戻らなかった。
ミサトさんとリツコさんも。
もしかしたらどこか遠くの街にいて、何も知らせて来ないだけかもしれないけれど。そんなことはないと、どこかでわかっている。

あの出来事は夢のように不確かなものとして僕の中に残っている。
あの赤い海から人々がぼんやりと帰って、気がついたら変わらない日常が戻っていた。
街や生活をどうやって再建したかなんて誰も覚えていない。
ふと見まわしたら以前と同じ雑踏の中にいた。そんな感じで。
皆、あの不思議な出来事を何かしら覚えているようには感じるけれど、臨死体験のようなあれは、恐らく記憶には留めておけないのだろう。誰も口にはしない。まるで何もなかったかのように振舞っている。
夢の残骸は綾波やエヴァの形を残してはいたけれど、それももう風化してしまった。

僕は、僕とアスカは、副指令の援助でとりあえず普通の生活を続けることができた。あのマンションに住み、学校へ通って。
最低限の補償はあったとはいえ、何もしないわけにはいかなかった。
明日が来るから、勉強をしてアルバイトをして、料理を作ってお風呂に入った。

アスカは時々部屋に篭ることがあった。まるで以前の僕のように。
閉ざされた扉を横目に見て、僕もそうしたいと思うこともあった。全てを拒否して篭ってそのまま終われたらいいと願ったりもしたけど。
僕は変わらない生活を続けるしかなかった。
高校卒業と同時にアスカはドイツに渡って音信不通だ。
僕は皆と同じように進学して就職した。今はごく普通の会社員として定時に出勤して定時に帰るのを繰り返している。

苗字は知っているけれど名前は知らない、そんな同僚に話があると帰り際に声をかけられた。
誰かに似ていると思ったけれど思い出せない。
人気のない公園に向かう後を、どんな用件か何てことも考えないでただぼんやりと付いていく。

「好きなんです」
俯いて長い間沈黙した後に告げられた言葉に少なからず驚いた。
そしてその言葉は鮮やかに彼を蘇えらせた。
もうずっと曖昧だったそれが急に鮮明に。声や表情や肌の感じとか匂いとか。
頭の中では彼を思い出して反芻しながら、目の前の人を見た。
「ごめん」
まるでマニュアルを読むように言う。その言葉に少し傷ついたような顔をして、それから
「誰か他に好きな人、いるんですか?」
と聞いた。その表情がやっぱり誰かに似ているように思える。ぼんやりと言葉を繰り返す。
「好きな人?」

好きな人。
彼を。
今でも好きだと言えるのだろうか? あの時は確かに好きだったけれど。もうずいぶんと曖昧なままだった。
エヴァも綾波も彼も。全ては間違いなく真実で、本当にあったし、彼はそこにいたし、僕は彼を握りつぶしたのに。
もう思い浮かべる映像さえ靄の向こうで、今こんなに鮮やかに思い出せることが信じられないくらいなのに。
でも。
ただ。
それでも。
「忘れられないんだ」
独り言のように呟く。
曖昧だったけれど、夢のようだったけれど、一度も忘れたことはなくて。頭から消したこともなくて。
ただ忘れられなくて。
僕は今あの日々の名残のように生きている。
「そう、ですか」
そうだ、綾波だ。彼女に少しだけ似ている気がする。声のトーンとか、髪の感じとか。
そう思うけれど、それ以上の気持は生まれてはこなくて、僕は何も言わずにただ立っていた。
「すみません、変なコト言って。あのできたら気にしないで普通に、あの明日から、してください」
俯いたまま一度も顔を上げないでそのまま振り向いて去っていった。
普通にできないのは、君の方だろうけど。

夢を見た。
天気のいい夏の日で、空は真っ青で水平線には入道雲。
浜辺には誰もいなくて、波の音と風の音だけが聞こえる。
僕は中学の制服を着ていて、あまりにも強い日差しに手で陰を作っている。
遠く、海の向こうを見渡すけどなにもなかった。船もないし、鳥も見えない。
じりじりと日差しが指しているはずなのに、暑いとも痛いとも感じていなかった。
僕は足を進める。
ざぁっと寄って来た波は靴を乗り越えて足を濡らす。そのままばしゃばしゃと歩みを続ける。
膝まで濡れると随分歩きにくくなった。ズボンが水の中で抵抗する。まるで沖へ行くなと言うように。
それでも僕は歩く。
ずんずんと真っ直ぐに。
腰まで浸かると今度は波が邪魔をした。波の山が当たると、前へと向かう動きが止まる。気をつけないと逆に押される。
それでも僕は歩いた。
胸くらいまで水が来て、このまま行けばもうすぐ頭も沈むなと思ったていたのに、だんだん海は浅くなりはじめた。
沖へ、浜辺を離れて海の中へと向かっているはずなのに、どんどん水深は浅くなり、水は僕の膝までしかなくなった。
歩くのを止めて振り向く。
浜辺はもう随分遠く、こんなところに浅瀬があるなんて信じられない。
けれどこの浅い海はかなり広く続いているようだった。
僕は立ち尽くす。
戻る気はなかった。
でも、再び沖を目指す気もなかった。
中途半端な、とても中途半端なところで僕は立っていることしかできない。
しゃがみこむことも、手をつくこともなく、ただ立っている。
そんな夢だった。

何も変わらない普通の日々を、僕は生きていく。
それしかすることがないから。
ただ、忘れない。
忘れられないで生きていく。

アスカを探してみようかと、少し、思った。

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