母親は死んだと聞かされていたし、写真を見たこともなかった。だからその人が『久しぶり』と微笑んだ時も、誰と勘違いしているんだろうって思った。
「・・・すみませんけど、人違いですよ」
そう言うとその人は不思議そうにした後に“自分の子供を間違えるわけないじゃない”と笑った。
・・・・・・自分の子供?
えーっと女の人と子供っていうことは、母親と子供、だよね。
「・・・僕の母は死んでますけど?」
どういうつもりなのかなー、からかうにしては変だし、おかしい人にも見えないし。そんなことを考えながら答えた。
そうしたらその人は表情を一変させた。といっても笑顔は笑顔のまま。
ただそれが凍った。
ように見えた。
それまでは本当に笑っていたのに、見た目はそのままでそれは一気に作り笑いになった。すごい。
「・・・そう。あの人、そんなこと言ってたの・・・」
声のトーンも一段低い。そのまま一端うつむくと今度はまた違う笑顔を僕に向ける。
「ちょっと待っててね」
そういってバッグから携帯を取り出す。耳に当てながらくるりと背を向ける。相手は2コールくらいで出たみたいで『もしもし? 私です』と話し始める。
誰かと話しているその人の背中を見ながら、“母さんかぁ”って思ってた。写真も残っていない人のことはほんの一欠けらだって記憶にない。父さんが全部処分したから、家に“母さん”を思うようなものは一個もない。写真くらい残しておいてくれても良かったのにって何度思ったかわからないことをまた考えてたら目の前に携帯が差し出された。
「あなたと話したいって」
誰だろう?
「もしもし」
『私だ』
父さんだった。珍しい。いつもは忙しいってほとんど自分じゃ応対しないくせに。
『その人は間違いなくお前の母親だ』
「はぁ」
としか答えられない。父さんの声はいつも通りに聞こえたけど、ちょっと早口になっているようにも感じた。
『死んだというのは嘘だ。すまない』
すまない? スマナイ?
「え、うん。いいけど」
いいのかな? でも他にどう答えればいいんだ。その返事で大体の会話を察したのか、目の前の“母さん”は携帯を僕の手から取り
「後は帰ってから。ね」
電話の向こうにそう告げると通話を切る。そしてパクンと携帯を折って僕に向き直った。
「ごめんなさい。あの人のことわかってたつもりだったけど、そんなこと言ってるとは思わなかったわ。
・・・・・・長い間放っておいてごめんね」
そういって黙る。少し目を細めて、それからその手が少し上がる。少し上がって途中で止まって
「抱っこしてもいい?」
そう聞いてきた。“抱っこ”という単語に少し抵抗を覚えたけど、でも、首を降ることはできなかった。目が、口元が、小さく震える指が見えて、首なんて振れるはずがなかった。小さくうなずく。
自分の体の周りに、こんな風に人の体があった経験がなくて、どうしたらいいのかわからない。抱き込まれた胸の中で、僕はほぼ直立不動のまま。
力具合というか、ぬくもりと言うか。触れ方がなんか“お母さん”って感じで、匂いとか柔らかい感触とかいろんなものが僕をいっぱいいっぱいにした。
「シンジ」
耳に近いところで囁かれた名前にすごく泣きそうになったけど、“ここは外だ”って必死にそれを押しとどめていた。

そのままいきなり親子3人の生活が始まった。とはいっても父さんは相変わらずほとんど帰らなかったけど。
“再会”した日。そのまま僕は母さんのマンションに“帰る”ことになった。というかほとんど有無を言わさずに連れて行かれた。母さんの話では元々そこに3人で暮らしていて、僕と父さんが出た、ということらしい。こんな展開夢にだって見るわけがないんだから、引越しなんて出来るわけもなく。だから『荷物とか・・・』と言ったけれど、母さんは『問題ないわ』と笑うだけだった。
その日の夕方にリビングで初めて(僕的には初めてだ)3人顔をあわせる。父さんの様子はある意味で見ものではあった。一生懸命いつも通りに振舞おうとしているんだけど、緊張しているのは明白で。
一方母さんは笑いながら怒っていた。
とりあえず『寄りを戻すことになった』ということで二人の間では話は進んでいたらしい。ただどうせ父さんのことだから僕に言わないとなんて考えもしなかったんだろう。でいきなりの母さん来襲となったようだった。
僕はといえばこのいきなりの展開にまったく! ついて行けておらず、何を言われても『はぁ』としか答えていなかったように思う。

翌日、引越し業者が前の家から荷物を運んできた。それを片付けながらも、起こっていることが現実かどうか今ひとつまだ実感できないでいた。
大体朝起きてもご飯の支度をしなくてもいいとか、掃除も洗濯もしてもらえるとか、それだけでどう対応したらいいのかわからなかった。本当にお願いしてもいいのかな? なんて思いながら
「あのー、食器くらい洗いますけど?」
なんて口調からして親子じゃない。

学校も転校することになった。
隣に住む超絶美形の渚君と同じ学校で、引っ越して翌週から通い始めた。
渚君は以前僕が此処に住んでいた頃を知っているらしく、挨拶に行ったら『元気だった?』といわれた。銀に近い髪に深い落ち着いた赤の瞳。そんな外見の人を覚えてないなんてありえないと自分でも思うけど、でも僕はまったく覚えていなかった。申し訳なくもそういったら『小さかったからね』って渚君は笑った。これで怒らないってなんていい人なんだろうってちょっと思った。
新しい学校に新しい関係構築なんて正直億劫で、学校くらい前のとこでもいいのに、なんて思ったりもしたけど、渚君と一緒だったからマシだった。いきなり全然知らない人ばっかりの所に放り込まれて普通にできるわけなんてなかったけど、渚君が話しかけてくれるおかげで一人きりになることもなく、少しずつだけれどもクラスメイトとも馴染んでいけた。もし渚君がいなかったら、なんて考えただけでも気が滅入る。

帰ったら母さんが『お帰りなさい』って言ってくれた。それはたぶん普通で当たり前なんだろうけど、でもどうにも慣れなくて。ちゃんと『ただいま』って言えるようになるまで結構な時間がかかってしまった。
何もかもを母さんにさせることに抵抗があってあれこれ手伝いはするんだけど、話しかけられると逃げ出したくなった。だって何を話せばいいのかわかんないし。兎に角色々聞いてくる母さんに一生懸命返事をしていた。

ある日母さんは苦笑しながら
「シンちゃん、無理しなくていいのよ? ごめんね。またこうして一緒に暮らせるのが嬉しくてお母さん舞い上がっちゃったけど、貴方は私が『死んだ』って聞かされてたんだものね。時間はあるんだし、ゆっくりやっていきましょう」
そう言った。かなり情けなかった。

母さんと暮らすようになって1ヶ月ちょっと。とりあえずこれが夢じゃないことはわかった。
実は父さんの再婚相手とかで、面倒だから僕には母親だって言ってるんじゃないか、とかそんな可能性も頭をよぎったりしていたんだけれど、それはカヲル君に笑い飛ばされた。別にそんな本気で思ってたわけじゃないし、無理矢理言わせたのはカヲル君なのにそんなに笑わなくてもいいじゃないか、ってくらいの爆笑だった。
「お母さんとの生活、慣れた?」
そんな風に聞かれて、笑ってるけど心配そうで。だからちょっと真剣に考えた。
何とか母さんのいる生活というものを受け入れつつはある。けど”慣れたのか”と言われれば・・・。
答えられなくて黙っていたらカヲル君が苦笑する。
「別におばさんに言ったりしないし、僕にくらい正直に話していいのに」
チラッとカヲル君を見る。うん、たぶん本当にカヲル君は母さんに言ったりはしないだろう。それを疑っているわけじゃない。
「嬉しくないわけじゃないんだ」
ぽそっと小さく。口にすることに、少し抵抗があるだけだ。
「“お母さん”って欲しかったし。ただ、ずっと“あの”父さんと二人っきりの生活でそれが普通だったから・・・」
今ここはカヲル君の部屋だ。すぐに家には帰らないでこうしてカヲル君のところに寄る事が最近ちょっと増えていた。それは別に母さんといることが苦痛だとかそういうわけじゃなくて。ただ上手く話せない自分が嫌になるから、できるだけそう言う状況を作りたくないっていうか。・・・どういっても同じかな。
「おばさんはもうずっとシンジ君と暮らすの楽しみにしてたからね。気持ちはわかるんだろう?」
「うん」
カヲル君は母さんの事情にも詳しくて、僕のこともわかってる。お隣さんの同級生に家庭のことで甘えるってどうなんだろうって思うけど、でも母さんと話すよりカヲル君と話すほうが気楽で、つい甘えてしまう。
それに最近ちょっと思っていることがあった。他に話せる人いないし、カヲル君にちょっと聞いてもらおうかなと口を開く。
「確信ないんだけどさ、母さん、仕事に戻りたいんじゃないかなって思うんだ」
「どうして?」
「うん。電話がね、掛かってくるんだ。結構」
「電話?」
「最初は友達多いなーみたいに見てたんだけど、違うんだ。あれきっと職場の人からなんだよ」
一緒に暮らすようになる前の話はそんなに詳しく聞いていない。掛かってくるのは仕事がらみだとは思うものの、どういう仕事をしていたのか、は聞いたことがない。最初の頃にもうちょっと色々聞いておけば良かったのかもしれないけど僕はそれどころじゃなかったし、今はそう言う話を切り出せるほど“慣れて”はいない。悲しいけど。そもそもの離婚(離婚だったのかもわからない)の原因もすごく興味があるけど聞けないでいる。
ただ、ぼんやり見ててもわかる。母さんは仕事をしていて、たぶん“できる人”だったんだと思う。仕事は辞めたのかわからないけど、でもこの電話の掛かり方はたぶん休んでるんだろうなと思う。辞めてこれなら僕が思う以上にできるんだ。
「あんまり電話してこないで、みたいな事を言ってるのを聞いたこともあるんだ。でも話してるときなんか楽しそうなんだよね、母さん。だから仕事好きなんだろうなって。それでさ、なんで仕事しないのかなって考えたら、僕が原因なんだよね」
「そういう言い方はどうかと思うけど」
今の状況が気詰まりだからって気持ちがないとは言わない。でもそういうのを抜きにしても母さんが仕事を続けたいなら続けて欲しいと思う。忙しくなるかもしれないけど、でも今は一緒に暮らしてるんだし。母さんは僕に何かをいっぱいしたいみたいだけど、僕だって母さんにできることがあると思うんだ。
「大事にしてくれるのは嬉しいし、今まで離れてたからそういうのを早く埋めたいって母さんの気持ちもわかるんだ。でも」
「無理はして欲しくない?」
「うん。そんな感じかな」
電話がかかってきて、ごめんねって席を立つ母さんを見るたびに、無理に家にいなくてもいいのにって思ってた。ただ自分がまだ上手く話せないことも自覚しているから、どう言えばいいのかなって考えてた。
「母さんのことを面倒臭がってるって思われたくはないんだ」
わがままかもしれない。ちょっと息苦しいのは本当なのに、邪険にしてるって思われたくない。
「・・・嫌われたくはないんだよ」
声が小さくなってしまった。息苦しいのも何もかも、ヘタをしたら嫌われるんじゃないかなって思いがどこかにあるんだと思う。だってあの人が思うような“子供”かどうかなんてわからない。というか、あの父さんと暮らしてて、そんな子供になれているなんて思えるわけがない。だからできるなら上手く立ち回りたい。失敗したくない。
父さんに対してはもう諦めきっててそんな思いもなくなっていたけど。
「大丈夫だよ」
見るとカヲル君はすごく優しく笑ってた。
「大丈夫。おばさんはシンジ君を嫌いになったりはしない。だから正直に思うように話してみればいいと思うよ」
・・・・・・カヲル君がいてくれてよかったなって思う。こうして話を聞いてくれる。笑って後押ししてくれる。
母さんが仕事に復帰して、家にまた一人になっても、隣にカヲル君がいてくれるなら大丈夫かなって、そんな思いもあったんだ。ほんと、甘えすぎだ。
「ありがとう」
いろんな意味を込めてそう言った。

結局上手くは話せなくて、やっぱり最初は誤解させてしまった。
「一緒に暮らすの、イヤ?」
すごく寂しそうな顔で聞かれて、失敗したって思って。なんかちょっと自分まで泣けてきて。頭をぶんぶん振ってとりあえずなんとか否定して。
うまく言葉にできなくて詰まって。でも母さんは待ってくれて。だからなんとか一緒に居るのが嫌なわけじゃなくてただ、したいことを我慢してまでうちにいなくてもいいと伝えることができた。
僕の言い分自体はわかってもらえたみたいだったけど、それでも母さんはすぐには『じゃあ』とは言わなくて。
父さんは元々母さんが復帰することには賛成だったらしくて、とても簡単に『別に構わないだろう』とか言ってまた怒られていたみたい。
僕が思ってた“仕事が好き”っていうのは間違ってなかったようで、母さんは今の研究職が自分に合ってるって思ってるらしい。それでも迷ってた。迷ってくれてた。一緒にいられなかったから、少しでも一緒にいられる時間を作りたいって言葉は嬉しくて。
カヲル君やおばさんが間に入ってというか、どちらかというと仕事再開の後押しをしてくれて、それで母さんは働き始めた。
そうなると当然、普段の家事は僕がすることが増えた。それに伴って、前はカヲル君のうちによく言っていたけど、逆にカヲル君がうちに来るようにもなった。

当番制ってほどでもないけど、なんとなく母さんが役割分担を振ってくれて、『この日は私休みでいるから、あれとこれはやるわね』ってカレンダーに印をつけている。それでもやっぱり忙しくて、早く帰れるって言ってても遅くなることはあったし、緊急で呼ばれて出勤なんて日も少なくはなかった。
研究ってそんな忙しいものなのかなとは思う。一度なんとか仕事のことを聞いてみたけど、知らない単語が多くて良くわからなかった。実験とか、人に任せられることもあるけど、母さんが直接手を出したり監督したりしないといけないことっていうのも多いらしい。予定通りにいかないのが普通って世界らしいけど、でもやっぱり好きみたい。家の事してたときも別に嫌々には見えなかったというより、好きなんだろうなって思って見てたけど、生き生き度がなんか違う気がする。こんなんならもっと早く戻ってれば良かったのに、って思うけど、言うと悲しそうな顔をするんだろうなぁ。
『ごめん、今日は遅くなるから、ご飯先に食べちゃってて』
そんな電話も結構多かった。
父さんと二人だったときは、ほぼ一人暮らしで、それが当たり前で、何もかも一人でやってたし、ご飯も一人が当たり前で別にそれで文句もなかった。今は母さんが遅いときは確かに一人で食べるけど、時々は隣に呼ばれて一緒に食べるし、たまにはカヲル君がうちに来てくれて一緒に食べたりするから、前みたいに完全な一人ってことはなくなった。
まぁおかげで、一人のときにちょっとだけ『寂しいなー』って思っちゃうようにもなったんだけど。でもそれすら思うことがなかった前に比べたら、たぶんいいことなんだろうなって思う。

一応予定では母さんが夕飯の準備をする日で、『帰りに買い物もしてくるから』って言ってたから買い物にも行かなかった。でももうすぐ子供は寝る時間って頃になっても母さんは帰ってこなくて、コンビニでも行こうかなって思ってたら電話があった。
『もう帰るから! ごめん、ご飯帰ってすぐ作るから。コンビニはダメよ!』
どうも母さんは僕がコンビニご飯でも平気なことが嫌みたいだった。前に一度、母さんがご飯作れない数日を全部コンビニご飯にしたことを知られてから良く『コンビニはダメ』って言われている。別に大丈夫なのになーって言ったら怒るんだろうなきっと。

少し息を切らして帰ってきた母さんは玄関で靴を脱ぐとすぐそのままキッチンに立った。
「すぐ作るから、もうちょっとだけ待っててね」
上着くらい脱ぎなよ、と手を伸ばしてエプロンを渡す。んでも今からかーとか思ってたら、15分くらいで『できたわよ』って声が掛かった。
見るとオムライスとサラダとスープがテーブルに乗ってた。
「早かったね」
「スープは凍らせてた奴だし、オムライスも簡単な奴だから。これが一番早くできるかなって」
確かに早い、と思う。主婦ってすごいなぁ。
聞いたらバターライスはご飯にバターを落として混ぜただけで、玉子は半熟スクランブルを上に乗っけただけよって笑う。うーんでも何かそれだけじゃない匂いがするんだけどな。スープの作り置きがあるのは知ってたけど、玉ねぎもストックしてあったのは知らなかった。今度どれか聞いておこう。サラダはレタスとトマトにきのこ。そういえばテレビCM見てなんかしてたな。
忙しい主婦の料理って感じ。時間があるときとは違う、手早くてでもちゃんとしたご飯。僕はこういうのはできないんだよね。こういう風にパッパッて手早く料理ができるのってちょっと憧れるなーって食べた。
口に入れて、舌に味が乗った時。
“あー・・・これ食べたことある・・・”
って思った。
初めて。
会ってから初めて『思い出した』。思い出したっていうか、覚えてたってのとも違うけど。今までだって母さんの料理は食べてたのにこんな風に思ったことなかった。でもこれは知ってる。知ってる味だって思った。
ら、なんかちょっとじわーって。なんだろう。知ってる味だって思っただけなのに、じわーって涙が出てきた。
「シンジ? どうしたの? え? 何か変だった?」
立ち上がって心配した声で聞いてきた母さんに首を振る。口の中のオムライスを飲み込んでそれから。
「違う。ごめん。これ、この味知ってる。前に、食べたことある」
そう言った。そしたら母さんはしばらく動かなくて、たぶん言葉の意味を飲み込んでいたんだと思うけど、それから泣き出してしまった。
二人でそうやって少し泣いて、それからご飯は全部平らげた。

匂いと記憶って良く聞くけど、味覚も結構記憶に残るものなのかな。

それから、カヲル君に『お母さんと何かあった?』って聞かれる程度には、母さんとの仲は変わった、みたいだった。あんまり自覚はないんだけど。
「何かね、表情? 空気? が違ってる」
カヲル君はそう笑う。そのカヲル君の笑顔もちょっと違う質のもので、なんかちょっと恥ずかしい。
それから時々、時間がある時でも母さんはあのオムライスを作ってくれる。僕と母さんが目を合わせて笑うと、父さんは憮然とする。そんな父さんの顔を見ながら、今度こっそり昔の話を母さんに聞いてみなきゃなと懐かしい味を舌に乗せた。

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