大きな窓からいっぱいの光。白い部屋のベッドの上で、そっと笑っている。
それが叔父の記憶。
声を、名前を呼ぶ声も覚えているけれど、それは映像とは別の所に仕舞われているようで、どうしてもいっしょには出て来ない。
私は、ずっと、叔父に名前を呼ばれるのが好きだった。
誰よりも誰よりもやさしい音で呼んでくれた。
特別なもののように。
叔父や父が生まれる前に大きな惨事があった。
それは世界を一瞬にして壊してしまった出来事で、学校でもちゃんと習う。それからしばらく経って、今度は大きな化物が現れ、人間はそれを科学の力でやっつけた。でも世界を壊したセカンドインパクトについては詳しく習うのに、その後の出来事は曖昧だ。化物がどうやって倒されたのかは書かれない。ただ「倒された」とだけ書かれている。それを疑問に思う人が「とんでも本」などと呼ばれるものを書いていたりする。
ただ、これは後で知ったのだけれど、その化物との戦いに、叔父は関係していたらしい。そのことが原因で入院していたのだと、余り話したがらない父から一度だけ聞いた。
たぶん、年に1回程度だったんだと思うけれど、家族で見舞に行くことになっていて、それは年中行事で、だから本当に小さい頃は何もわかってはいなかった。そこがどこかも、叔父がどうしてそこにいるのかも、叔父とうちとの関係も。父の従兄弟だということを知ったのは随分後の事だったりする。
叔父の声はいつも優しく、笑っている顔以外はほとんど見たことがないせいもあって、私は叔父が大好きだった。子供の無邪気さで、怒らない優しい大人が好きだった。
両親は共働きで、かつ自分の人生を楽しむことも頑張っていた。のだと思う。
よく趣味のあれこれで家を空けていた。兄がいたため少しは安心だったのだろう。子供だけで留守番していた記憶は多い。帰っても家に誰もいないことも多く、小学校に上がると、なんとなく学校帰りに病院に寄るようになっていた。
学校が終わってからの数時間を叔父と他愛もない話をして過ごす。
そのうちに私がピアノを習うようになると、今度は音楽の話をするようになった。
楽譜を持って病室を尋ね、指が動かないとかうまく弾けないとか愚痴を言って聞いてもらう。
長く続ければ指も動くようになる。高学年になる頃には練習ではなく「曲」を弾くこともできるようになっていた。
新しい曲を貰うと叔父のところへ行く。叔父は楽譜をみて感想を言う。
綺麗な曲、楽しそうな曲、悲しそうな曲、不思議な曲。
いろんな言葉を聞いて、私はそれを心に入れる。そしてそれを思い浮かべながら鍵盤を叩く。
そうすればどんな曲も好きになれたし、誉めてもらえた。
親や兄、学校の先生、友達の兄弟。
叔父はどの人とも違う。
病院で会う他の人とも違うし、医者や看護婦とも違った。
「違う」ということだけで好きになれるほど、私は子供だった。
それでも、話の途中にふと窓の外を見る叔父の様子に、言葉をなくすくらい見入るようになったのもこの頃からだ。
叔父が優しいのは、そんな風に外を見るからだと、思うようになっていた。
それはとても私を悲しくさせたけれど、そんな叔父の姿を見ているのは嫌じゃなかった。
それからしばらくして、病室を訪ねても寝ていることが増えた。点滴をしていることも。
声とか顔色とかちょっとした動きとか、そう言うものが恐らく予感を形作る。
あるいは匂いか。
ほとんどいつも音楽の話だけだったけれど、時折少しだけ学校の話とかをする。
「春には中学生だね」
「入学式には制服を見せに来るね」
「楽しみだね。似合うんだろうな」
ぽつりぽつりと返る答えを、いつのまにか必死に覚えておこうとしている。
聞き逃すまいと、できる限り覚えておこうと。
そうして気づく。
私の名前の奥に、誰かを見ていることに。
夢を見て目が醒める。涙で枕が濡れている。
胸が苦しい。
こんな気持を何て言うのか知らない。学校では習わない。友達も教えてくれない。誰も教えてくれない。
胸が苦しい。
涙が出る。
その日も新しい楽譜を持って訪ねた。
「やっぱりピアノ曲はピアノで弾いた方が合ってるような気がする」
「弾いたことがあるの?」
「うん、チェロ用にアレンジされたものだけどね。綺麗で優しくて好きだったけど、1箇所だけどうしても上手く指が動かなくて苦労した覚えがある」
「どこ?」
「ここ」
指差した先には早い音符が高低差を作って並んでいた。確かに練習しないと指が動かないかもしれない。弦楽器はわからないけれど、これだけ高低差があればやっぱり難しいんだろうなと思う。
指。細くて爪も綺麗に手入れされていた。自分でしているのだろうか? 多分違うだろう。看護婦さんが手入れしているはずだ。この綺麗な手を綺麗になるように。
仕事、だから。
ふと視線を上げると、とても優しい目で楽譜を見ていた。口元はいつものように笑っていて。でも何かが違った。
手をついて身を乗り出す。
自分が何をしたのか理解するのに時間が必要だった。
少しかさついた感触だけが強く残っていて。
一方的に押しつけただけの、それでもそれはキスだった。
したいと思ったかさえわからないままで。
ただびっくりして、慌てて逃げ出した。
しばらく病院に行けなかった。
怒られると思っていたわけじゃない。普通にされてしまうのじゃないかという不安が、私の足を引く。
私じゃなくて誰を見てるの? とか、そんなことを聞いてしまいそうな予感もあった。
子供扱いされたら、もっとみっともない所を見せてしまいそうだった。
実際まだ子供だったけれど。
連絡は何故か私の携帯に掛かってきた。
駆けつけた時は意識がなかった。
マスクの下で弱々しい呼吸を繰り返している。
「ご両親は?」
看護婦に聞かれる。私の目は叔父を捕らえたままで、口だけが勝手に動いた。
「まだ、来ません」
今日は家に誰もいない。携帯にメッセージは残したけれど、たぶんしばらくは気づかないだろう。
ベッドの側でパイプ椅子に座って、ただ叔父を見ていた。
モニタはナースセンターにあるのか装置も音もない。ただ小さなコポコポという水の音とシューっという気体の音と弱い弱い呼吸音が聞こえるだけの、奇妙な静けさを感じる空間だった。
叔父の目は開かない。ベッドサイドには数本のボトル。
時間が止まればいいなと思ってそれから、こんなところで止まったら叔父がかわいそうだと思った。
そのまましばらく変わらない時間が続いて、最後は呆気ないくらいにあっという間だった。
駆けこんできた医者や看護師が群がるように見え、何か言ったりしたりしたけれど効果はなくて、そのままするりと、叔父の心臓は止まったようだった。
廊下へ出されてしばらくしてから部屋を替わると連れていかれた。
地下は寒くて暗かった。そこでしばらく二人でいた。
両親が来て、早々に私を連れて帰って。あとは私には関係のないところで進んで行った。
それからしばらく、無自覚に病院を訪れるのを止められなかった。
学校帰りにふと気付くと病室の前に立っている。
もうそこに叔父はいないことは分かっていた。分かっていたけれど繰り返した。
看護婦に心配されて、診察を受けたりもして、小学校を卒業する頃には、もうそんなこともしなくなっていた。
あれからもうずいぶん経って、私ももうすぐ結婚する。
あの人が初恋だったのは事実で、そのインパクトが強かったのも事実。あれから妙にどこか冷めた人間になったような気がしているけれど。それでも次の恋は来た。
似ている人と恋をするかと思っていたけれど、そんなことはなかった。結婚する人もまったく似ていない。
あれは。
綺麗な恋。綺麗な人。綺麗な思い出。
良い意味ではなく、私の中でもう別格で。
だから、綺麗なものはたぶん要らないんだ。
私は、ずっと、叔父に名前を呼ばれるのが好きだった。
今でも思い出すと涙が出る。
それは、とても複雑な涙だ。