”そう言えばあの人、小指の爪を伸ばしていたわね。いつか理由を聞こうと思っていたのに、聞けなかったわ”
そんなことを、その時思った。
エヴァとの接触実験でその精神とも呼べるものに触れた瞬間、自分はこのまま元の世界には帰れないとわかった。真空の、虚ろを抱くその中に、自分はこのまま取り込まれるのだとわかった。
その時に頭の中に弾けたイメージは、うまく言葉にできない。
過去も未来も何もかもを幾重にも重ねた奇妙な絵を見せられたような、何百人もの囁きを一度に聞かされたような。
時間にしてどのくらいかもわからない。光の瞬きほど。きっと計測できないほど。人間である自分がそれを感知できたのが不思議なくらいの一瞬。
でもそれで十分だった。そして同じくらいの瞬間で、自分は”帰らない”と決めた。
自分の意志で帰らないと。
それが一番いいと思ったのだ。
自分の望みの為に。
世界の為に、人の為に、そしてシンジやあの人の為に。
そう信じて疑わなかった。
「家庭に入ろうかとも思うんです。良い人がいればですけど」
簡単なことだ。そう思っていた。
「あなた絶対に結婚なんてできないわよ」
高校の時に半年くらい男の子と付き合っていた。好きだと言われたのも初めてだったし、したのもその人が初めてだった。どこかでこんなものかと思ったのを覚えている。自分は心を動かされることはなかった。好きだと言われて嬉しかったのは事実だけれど、それだけだった。その人を好きになれたかと聞かれれば”否”と答えるだろう。
「あなた彼のこと好きじゃないでしょ。だから別れてよ。彼が可哀相だわ」
放課後の人気のない屋上に呼び出されてそう言われた。その子の顔も覚えていないのに、夕陽がとてもきれいだったことは鮮やかだ。
私を好きだと言った男の子は、彼女に告白されて付き合い始めているらしい。私はまだはっきりとフられてはいなかったから二股という状態になるんだろう。彼はその子に"私といると疲れる"と言っているらしかった。
別れることに異存はなかった。ただ何故それをこの子に言われないといけないのだろうということだけがわからなかった。
そのことを口にしたとき、彼女は私を侮蔑するような顔をして言ったのだ。
「あなた恋愛できないんだ。可哀相。あなた絶対に結婚なんてできないわよ」
顔は覚えていないの表情は覚えているのは何故だろう。言われた言葉は別に何の意味もなさなかったけれど、何故だかしばらく頭から離れることはなかった。
学校の授業は聞けばわかる。わからないことは自分で調べれば良かった。知ることが楽しかったし、知りたいことも沢山あった。でもクラスメイトの子達のことはわからなかった。興味はあったけれど、知りたいと思うことはもう随分前にやめていた。
両親は普通だったと思う。特に甘やかされてもいないし、厳しかったわけでもない。共働きで帰りは遅かったし、晩御飯は自分で作ったりもしていたけれど、別に淋しいとも思わなかった。両親に不満はなかった。それでも、どこかで本当にこの人達の子供だろうかと思う自分がいた。こんなに違うのに血が繋がっているのかと。自分の思っていることは十分の一も伝わらなかったし、彼らの考えていることもちっともわからなかった。親子でも、こんなに他人だと私は思っていた。
まして本当の他人である人達なんて、わかるはずがない。
好きだといわれてその人と付き合って、もしかしたらこれで自分も彼らと同じようになれるかもしれないと思ったこともあった。けれど、結局は「やっぱり違う」という思いを深めただけ。
だから早く大学へ行きたかった。
大学へ行けば恐らく自分と同じような人がいるだろうと期待していた。自分のしたいことが存分に出来るだろうし、いろんな知識を得られると思っていた。
大学に進学して、自分と話の出来る人は一部の先生方のみで、生徒達は高校と何も変りはしなかった。そのことに自分でも驚くくらい失望した。
それでも、自分の知りたいことを知るには良い場所ではあった。自分の進みたい方向が見えてきていたし、それをやりたいと思った。そして、その道を進み続けて年月は過ぎて行った。
冬月先生は教授の紹介で知ったけれど、なかなか良い先生だった。話が合う。研究についての話をしていてこんなに楽しいことは珍しかった。
「家庭に入ろうかとも思うんです。良い人がいればですけど」
はじめて先生と会った時に言った言葉。こんなことをわざわざ言う必要はなかったはずなのに口にしていた。
自分の中で何か引っかかっていたもの。
結婚して家庭を持つことが自分に出来るだろうか? という問い。
六分儀さんに会ったのはその少し後だったと思う。
体をつなげることに快楽はあったけれど、私はそれにおぼれることはなかった。
自分は色恋におぼれるタイプではない。だから向こうがおぼれ始めると私は身を引く。そんなつきあい方をしてきた。けれど、六分儀さんは違う。彼もおぼれることを恐れている。そう思ったから、彼を選んだ。
結婚するのは簡単だった。紙切れに名前を書いて役所に提出するだけ。
それだけで私は妻となり伴侶を得た。
それからいろいろなことがあった。
世界は壊れた。私は子供を産み、それでも仕事を続けていた。自分のしていることは人類の為に、世界の為に重要なことだという自覚があった。先は見えないけれど、それでも成すべきこと、行くべき道はわかっている。私はただ進めばいい。
大きな流れの前で自分はちっぽけだと思うこともあったけれど、だからといって諦めるという選択肢はなかった。
地下にこもって研究ばかり。そんな毎日でも不思議とストレスはなく、頭の中は新しい研究についていつも思考しているような状態で、子供のことや夫のことも気にはしたし、世話もしたけれどそれを自分の生活の中心に据えることはなかった。
「結局、私は母にも妻にもなれないみたい」
同じ研究者で女性で母でもある赤木博士。彼女もここにこもりっぱなしだった。高校生の娘さんがいるけれど、時々顔を見せに来る程度でほとんど構っている様子はない。
「私は私なのよ。女の喜びだって知ってるのに、子供への愛情だってあるのに、それよりも研究を優先させてる。自分の中で私と母と妻がせめぎあって、でも結局最終的に通すのは研究者としての自分なの。時々思うわ。こんな私に育てられてシンジは幸せになるのかしらって」
普段は考えないこんなことも、時々、本当に時々頭の中に浮かんでくる。ここに来て、私は望むような環境を手に入れた。したいことができる。知りたいことを調べられる。理想の環境で私はますます私でしかなくなっていく。
赤木博士は手にしたカップをテーブルに置いた。
「そうね。それでいくと私はいつでも女だったわ。リツコを産んでも母に預けっぱなしでほとんど育児もしてないし、結局結婚もしなかったから妻でもないし。今は女としての私は必要とされていないから研究者としての私になっているけれど、きっと女としての私を望まれれば、研究なんて捨てて行くわね」
「意外。赤木博士も研究者の方なんだと思ってたわ」
「今はそうだもの。リツコが大きくなったこともあるけれど、きっとあの子がまだ小さくても私はここにこもったでしょうね。今は女の私は眠ってるの。目覚めれば、私はそれに従って生きるわ」
「ちょっと羨ましいかも」
色恋を自分の中心に据えられる人を羨ましいと思った時期があった。赤木博士もそうなのかと思うと久しぶりにその感情が蘇る。自分には無理な心の持ち様。誰かに自分を捧げるほどの恋情。経験してみたいと思うのも確かだけれど。
「男の人はどうなのかしら。仕事と男と父親と、せめぎあってるんだと思う?」
あの人や冬月先生を思い浮かべながら問う。
「どうかしら? でも結局どれも男としての一部みたいな気もするけど。ああ、でも父親になれない男は多いわよ。リツコの父親もそうだった。所長もちょっとそんな感じよね」
「そう、ね。あの人は父親になるのを怖がってる。でも仕事と男は同じモノかもしれないわね。いいなぁ、単純で」
「単純かどうかわわからないけど、時々羨ましくはあるわね。男の人の方がしがらみが少なそう」
「いやね、何だか変な話になっちゃった。ごめんなさい」
「あら、面白かったわよ。自分の中でせめぎあう自分なんて、わかっててもなかなか浮かばないから。ちょっといけるかも」
「なぁに? 仕事のこと? やっぱり研究者じゃない、赤木博士」
「だから今は女じゃないって言ってるじゃない。さ、仕事に戻りましょ。今の思いつき、ちょっと考えたいから」
「上手くいくと良いわね。さて、私にも何か天啓がこないかしらね」
「来るわよ、そのうち。じゃあね」
「じゃあ」
日々の忙しさにそんな話をしたことも忘れた頃に、実験は行われた。
そして私は、この世界から消えた。
その後、眠りについた私の意識をかすかに揺さぶるものがあった。
起こさないで。私はこのまま眠るの。そう思って振り払った時、少しだけ見えたビジョン。
一人で孤独に泣くあの人。
人を傷つけ、自分も傷ついて叫ぶシンジ。
それを見て初めて、少しだけ後悔という感情が浮かんだ。
あの人が、寂しい人だとわかっていた。
自分はもうすでに一人ではなく、妻で母で、家族を持っていて、それがどういうことかもわかっていたつもりだった。
夫を持てば妻になると、子供を産めば母になるとどこかで思っていた。
ヒトがいれば家族になると思っていた。
ごめんなさい、あなた。
ごめんなさい、シンジ。
私にはやっぱり家族を持つ資格はなかったみたい。
それでも、あなた達を泣かせるとわかっていても、きっと迷いはしなかった。
申し訳ないと思うけれど、それでもきっと、私は同じ道を選ぶ。
永遠の孤独が待っていても、その向こうに希望があるのなら、私は一人で旅することができる。
あなた達をこの星に置き去りにして。
きっともう謝るチャンスはないだろうけれど、恨まれてしまうだろうけれど。
ごめんなさい。
何もしてあげられない、何もしない未来を選んでしまって。
それでも涙も浮かばなかった。
そのままもう一度眠りにつく。
ごめんなさい。
きっと良い夢は見られないけれど、それでも私は望むように生きる。
それしかできないから。それが私だから。
それでも。
それでも−−−