子供の頃、どうしてだかわからないけど、ベッドから、掛け布団から、はみ出して寝てはいけないと思っていた。はみ出してしまったら、そこの部分は「何か」に持っていかれてしまうのだと、その「何か」もわからないないのにそう思っていた。はみ出して空に浮いた部分は食べられてしまうのだ、と密かに恐れていた。
だから必死に行儀良く、暑くても布団から足を出したりしないし、寝返りもあまり打たないように眠っていた。
たぶん子供は良く布団から転がり出てしまって風邪を引いたりするから、それを戒めるためにできた話なんじゃないかと思うのだけど、具体的にそういわれて脅された覚えはない。
どこで聞いたのか、誰に聞いたのかもわからない、でも僕を縛るには十分な内容で、ずいぶんと長い間それを信じていたように思う。
今ではもう、僕はそんな事を考えていた事さえ忘れてしまっていた。それでも寝相はいいほうだと思うけど、最近では朝、掛け布団が落ちていたりもする。まあ、さすがにベッドから落ちたりまではしないけど。
それでも時々、掛け布団から完全にはみ出した手がひやりとして、無意識にしまいこんでいたりもした。
カヲルくんと会って、僕はどきどきして、最初はなんだか難しい感じの話になっちゃったんだけど、どうでもいいような話も少しだけした。それから、なんとなく、手をつないで眠る事になって、でも僕らはベッドと布団のままで、どちらかに移る事もしなくって。
カヲル君が僕の左手を取って、その薬指の付け根に口付ける。
僕はびっくりして手を引っ込めてしまったけれど、それをもう一度取りなおして、カヲル君は今度は手の甲に口付けた。やっぱり逃げようとして引く僕の手を、カヲル君は強く握って離してくれなかった。
起き上がってベッドの上と布団の上で向かい合って、微妙にある距離が少しの安心と少しのもどかしさをくれて。
「左手の薬指って、心臓に一番近いんだって。だからここに指輪をするんだって。知ってた?」
にっこり笑って言うカヲル君に、僕は真っ赤になって、言葉も出なくて、ぶんぶんと頭を振ることしかできなかった。
「永遠に貴方のものっていう約束を心臓に近い指に賭けてするなんて、とてもロマンチックだね。
僕らは恋人同士にはなれないけど、親友にはなれるよね?
ここに、約束していい?」
「え?」
「ダメ?」
「ううん。ダメじゃ、ない。ただびっくりして」
「じゃあ、シンジ君もここにね。約束」
そう言って左手を伸ばしてくる。恭しい気持ちでその手を取って、何だかすごく恥ずかしいことをしているようにも感じて躊躇って。ゆっくり、ゆっくりとその手の左指の辺りに唇をつけた。
カヲル君はそれを見て微笑んで、もう一度僕の左手を取ると今度は手のひらに口付けた。
それから、うつぶせたカヲル君の右手と、うつぶせた僕の左手を掛け橋のように繋いで、そのまま眠った。
少しひやりとした感覚がどこか気になっていたけれど、それでもカヲル君の手の温もりを嬉しいと思いながら眠った。
さすがに朝になったら手は離れていて、僕の手は床の上にあった。昨日の温もりは消えて、少し肌寒かった。ちょっと残念だなと思っていたらカヲルくんが「おはよう」と言って起きてきて、僕もおはようと言って布団から起き上がる。
「朝ご飯をいっしょに食べよう」
そういわれて頷いた。
それから、僕には信じられない、信じたくない出来事が起こって。
使徒だという彼に思わず伸ばしたのは左手だった。彼を実際に握ったのは、僕の手じゃなくてエヴァの手だったんだけど、僕の左手が、左手の薬指が、どくんと脈打ったのを、僕は感じていた。彼は沢山の言葉を並べて僕に何かを告げてくれたけれど、僕は何も考えられなくて、何も考えたくなくて。
何も分からなくなって、何もかもが夢見たいで、嘘みたいで。
どうしたらいいのか、どうすればいいのか、何もかもどうでもよくなって、
そうしようと思ったわけじゃないけれど、カヲル君を握りつぶした。
その瞬間。
パン!
弾けたのはカヲル君だけじゃなくて、エヴァの左手も一緒に弾けていて。LCLの色が変わってきたのに気づいてよくみたら、僕の左手も弾けてしまっていた。
手首から先が、完全になくなっていた。
「ああああああああああっっ!!!!」
漂う肉片。透明な液体を、それでも赤く染める血。血は噴出しはせず、ゆるゆると流れ、靄のようにLCLを漂っていた。自分を包むLCLが液体だったのだと、そのとき初めて意識した。
なくした左手を見つめたまま、僕は動かない。
頭はからっぽで、心もからっぽで。
それでも呼吸をするとそれが、その「血」が、体の中に入ってしまうと思うくらいはできて、そうすると息ができなくなって、僕はそのまま呼吸を止めて、そのうち目の前が暗くなって見えなくなった。
それからどうなったのか覚えていない。気がついたら病室のベッドの上で、ミサトさんが側にいた。左手が本当に弾けて飛んでしまったことを、エヴァの左手も弾けて消えてしまったことを、ミサトさんは僕に告げる。
「使徒を握りつぶすなんて危険なことをどうして。武器は色々あったでしょう? 他の方法で殲滅できなかったの?」
ミサトさんの声は僕には届いていなくって、僕はゆっくりと左手を上げてみる。
左腕には包帯がぐるぐる巻かれて、棒のようになっていた。その先にあるべきものはなくて、指を動かそうとするとじくりと痛んだ。
「あは、ははははっ。
みっともないなぁ。これじゃ何にもできないや」
そんなことを言った僕に、ミサトさんの表情が固まる。
「これじゃ、エヴァにももう乗れないかなぁ?父さんはもう僕がいらなくなっちゃうね」
僕が泣いたから、ミサトさんは部屋を出ていった。たぶん手をなくしたことで泣いたと思われただろうけど、本当は違う。そんなのが理由じゃない。
約束は、その証と一緒に消えてしまった。僕はもう僕さえも要らないと思っている。
どうでもいい。もう何もかもどうでもいい。手がなくてもエヴァに乗れなくても。誰にわかってもらえなくても、誰にかまってもらえなくても。
もういいんだ。
何も考えずにただふらふらとここにきて、薄暗い階段の下にしゃがみ込む。この何も無い腕を見ていると口元が緩んだ。
そういえば布団の結界から出してたもんね。
「どうせなら僕ごと弾けてくれればよかったのに」