扉で、どんなに隔てられていてもわからないわけが無かった。夜毎に魘されるその声に、私は必死に耳を塞ぐ。
微かな囁きのような声は、けれども決して甘いものではなく、自分の中の何かをそれは巻き上げて乱す。
引き摺られそうで怖かった。聞いているだけで自分までもが死にそうに思える。
いつからかなんて知らない。でもたぶん私が来る前から。
毎日じゃない。毎日じゃないけど、こんなのを聞いて寝られるわがない。
知っていたら、ここに住もうなんて思わなかった。誰も何も言ってはくれなかった。
ミサトがあえて黙っているのなら、下手に何か言うのはまずいのだろうか。
それは、使徒の侵攻だけが理由ではなかった。
エヴァに乗ることが理由ではなかった。
確執があるという、司令が理由でもなかった。
それでもシンジが何かを内に溜めた結果なのだとはわかる。
暗に、シンジ自身の性格を指摘して、気晴らしでもなんでもしてこれが消えれば、と思ったこともあったけれど、鈍いシンジに「暗に」なんてものが通じるわけがなかった。けれど明確に指摘したら、どちらに転ぶのだろう。専門家ではないからわからない。
そう、専門家が必要なはずなのだ。
エヴァのパイロットなのだから、専門のカウンセラーの一人でもつければよいのにと思う。
赤木博士に言えば、あるいは。
いえ、彼女では逆効果だろうか?
なぜこんなことを私が考えなければならないんだろう。それは私の仕事じゃない。ミサトがすべきことだ。
ミサトは、何も言わなかった。私にも、シンジにも。夜帰るのが遅いから、もしかしたら本当に知らないのかと思ったりもしたけれど、そんなわけがない。
どうしてかは知らない。でもミサトは知らぬふりをしていた。だから、私も知らないふりをしていた。まるきり、気づきもしないでいるのだと振る舞っていた。そんなことに意味があるわけでもなく、そんなことでそれから逃れられるわけでもなかったけれど。シンジ自身に自覚がまったくないから、どうしようもなかったのも事実だった。
家に居るとき。ミサトがどうしているのかはわからない。朝も時間帯がずれているので顔をあわせることはほとんどない。朝以外の時間では鉄壁の下で読めないし。
耳をふさいでも聞こえる。
仕方がないので安眠用の耳栓をつける。それでも完全ではない。一番離れた部屋の隅で、手で押さえ、上掛けをかぶって眠る。
あの日。
ミサトの代わりに加持さんが泊まりに来た。
ミサトが話しているのかわからないから、そして毎日というわけでもないから、私は何も言わなかった。
シンジと加持さんが居間で眠ることになったとき。これだけ近くに人がいれば、あれも起こらないかもしれないとわずかに期待した。
せっかく加持さんと一緒に居られるのに、その喜びも半減だ。
夜、夜中。
襖越しにやはりそれは聞こえてきた。聞きたくない、聞いていられない呻き。苦しくて苦しくてでも叫ぶことは出来ずに漏れる声。タオルケットを被り耳を塞ぎ「聞こえない聞こえない…」と繰り返す。
しばらくして、静かになっていることに気が付いた。
何が起きたのか、私は襖を薄く、開ける。
加持さんが、シンジを膝に抱えていた。
シンジの、人形のような虚ろな目からは涙が流れていた。大人と比べればまだ華奢で小さいその体を腕の中において、加持さんはその頭を、頬を、肩を腕を手を体を優しく撫でている。耳元で何かを囁きつづけてあやしていた。それでも、シンジの涙は止まらなかったけれど、声を発することはなかった。
いやいやいやいやいやいやいやいやっ………………
布団に潜り込んで必死に流れてくる涙を止めようとしたけれど、声を殺すのがやっとで涙までは止められなかった。
悔しい、悔しい悔しい悔しい!!!!なんであんたがそんな風にされるのっ!!!
私だって、私だって!!
あれじゃあ、あれじゃあまるで…
叫びたかった。「加持さんは私のものよ!」でもできなかった。
自分の中で暴れまわる感情を殺し続けて朝を迎えた。
翌日、シンジは何も覚えていないようだった。
「どうだか…」そう疑う自分がいる。でも「本当に覚えてなどいないのだ」と言う自分もいた。
覚えていられないのだ、と私は知っている。忘れるから、あいつは笑うことが出来る。だからそれは夜毎に現れ、消えるのだ。
シンジの狂気の理由を、私は知らない。でも自分の中にも似たものがあることを私は知っている。その狂気があんなふうに暴れ出したとき、誰か私をあやしてくれるだろうか?
あの腕が私の為に伸ばされることがあるのだろうか?
どこか絶望的な気分で私は二人を見た。
どうしてあんたばっかりが……
それでも、そんなことは誰にも言えなかった。