中古のチェロを買った。
大人になってから始めた楽器はやはり上達も遅く、また「音の出るもの」はそう思い切り練習するのも難しい。
同じ教室で仲良くなった人は一軒家に住んでいて、時々遊びに行っては練習させてもらっていた。
その人が今度転勤することになった。最初は単身赴任も考えていたようだったけれど、結局一家で揃って引っ越すことにしたらしく、家をどうするか、という話になった。私から話をふった訳ではなかったけれど、随分と前に住む所や楽器の話をしたことは確かにあって、結局、都合が良いといえば都合が良過ぎるほどの機会で、借家と楽器を手に入れたわけだ。

元々がアパート暮らしだから荷物もそう多くはなく、引越しは簡単に済んだ。
それまでは毎日なんてできなかった練習も、ここでならできる。
下手は下手なりに毎日チェロに触るようになった。その甲斐あってか、以前よりは指も滑らかに動かせるようになった気がして嬉しくなる。

子供の頃に少しだけピアノを習っていたことがあって、楽譜を読むことは辛うじてできた。
それでも鍵盤と弦はまったく違うものな上、すでに衰える一方の体では中々思うようには演奏できない。
昔取ったなんとかでピアノにしてもよかったはずなのにチェロにしたのは、簡単に言えばまぁ有名な演奏家の演奏を聞いてしまったからだった。
いいな、と単純に思った。
それだけではさすがに動かなかったのだけれど、同僚経由で先生を知ることができ、楽器もとりあえずは借りて始められるというのでやってみた。そしたら思いの外ハマってしまい、結果こうして人の家を借りてしまっていたりする。
人生、意外と何があるかわからないものだなぁなんて思ってみたり。

そんなこんなで引っ越してしばらく経った頃に夢を見た。
青い空に白い雲。心地良い風がさわさわと吹いて。
恐らくは草原とか丘の上とか言った場所なのだと思うけれど、私は座っていて、
目の前で少年が、同じように座って歌っている。

目が覚めてしまえばどんな歌だったかも忘れてしまったけれど、こっちまで気分が良くなるような歌だった事は覚えていた。
これはどんな夢占いかと思ったものの、そのまま仕事で忘れてしまい、思い出したのはまたしばらくしてからだった。

同じ夢を見たのだ。
同じ少年が同じように歌う夢。
また同じ夢だと思いながら目覚めて、今度は忘れることもなく人に話して聞かせた。

そうしてまた同じ夢を見る。
何度も何度も同じ夢を見るようになった。
夢に出てくる少年は細い体躯で子供っぽさも残っている。制服らしきズボンとシャツ。中学生くらいに思えた。
男の子らしい髪は艶やかな黒で、今時の子のように染めてはいない。
はにかむような、少し遠慮がちの態で、それでも楽しそうに歌う。

目覚めるといつも曲は覚えていなかった。それでも聞いているのは楽しいし、一緒にいるのも楽しいしで、そのうち夢の中で一緒に歌うようになった。
私が歌い始めた時、少年はちょっとだけびっくりしたような顔をしたけれど、そのまま笑って歌い続けた。
そうして一緒に歌う夢を、何度も何度も見るようになった。

「最近、演奏中も楽しそうですね」
先生にそう言われて、そういえば以前はうまく動かない指にイライラすることもあったのにと思う。
練習量が増えて指も少しは動くようになったからかなと思っていたけれど、ふとあの夢のせいかもしれないと思った。
チェロを弾いているとどうもあの夢の中の楽しい感じを思い出してしまう。
一度思い出すと、なんだか本当に彼と歌っている気になってしまい、心にその姿を思い描きながら演奏する。
そうすると少し、うまくなったように感じられるのだ。
まぁ、気持だけのことなんだけれど。

ある日夢の中で聞いてみた。
「君、もしかしてチェロ?」
そしたら少年は頷くでもなく首を振るでもなく、にこりと何も言わなかった。
それで私も、まぁ別にいいかと思う。

夢は相変らず見ている。
少年と二人で夢の中で合唱する。
チェロも相変らず続けている。
たぶんこれ以上うまくなることはないだろうけれど、それでも楽しい。

きっと、このままで。
何も変わらないでずっと。

お話へ