小学生だったら入学式なんて嬉しくてたまらない行事だっただろうけど、高校生にもなると嬉しいなんて思いもしない。
 僕の入学した学校はそれなりの進学校だったから、初日から宿題のようなものが出たし、すぐに実力試験を実施するなんて話も出た。高校に入るために勉強して、次は大学を目指して勉強するわけだけど、それが世の中と思っていても面白くない。
 じゃあ他に何かあるのかといったところで、部活なんかに燃える気もないし、将来に向けて今のうちにしておきたいこともなかった。

 クラスに戻って連絡事項が伝えられた後、教師の提案で簡単な自己紹介を始める。僕は2番。直ぐに終わって、他の人に興味はなかった。
 でも彼が立った時、目を奪われた。
 女の子だと思ったわけじゃない。線は細いけれど胸もないし、なにより制服が男用だった。
 でもとても綺麗な人だった。僕らの周囲で綺麗といったところでタカが知れているけれど、彼は本当に綺麗な顔をしていた。
 白い肌に映えて輝く黒髪。印象的な口元、そして瞳。
 笑っている表情までもが視線を引き寄せて、クラス中が言葉をなくしている。

「渚カヲルです。東第一中学から来ました。よろしく」

 耳に残る声。女子だけでなく男子も口を開けて見とれていた。
 彼が座っても次の人はしばらく立たなかった。その渚といった彼が振り向いて、どうぞというように首をかしげるまで、誰も動かなかった。

 そのクラスメイトは翌日からもう学校に来なかった。先生は特に何も言わず、みんな不思議に思い、謎のクラスメイトとして噂が飛び交う。
 それからずっと、彼は学校には来なかった。

 僕はその理由をすごく知りたいと思っていたし、すごく彼に興味があったけれど、先生に聞くとか調べるとかそんなことはとてもできなくて、ただ漫然と日々を過ごしていた。

 父の知人(愛人だとも言われてるし、僕もそう思ってる)で女医をしているリツコさんが家に来た時だった。

「そういえばシンジ君、第三高校だったわよね?」
「ええ、そうですよ」
「私の受け持ちの患者で三高の子がいるの。今入院してるんだけど、入学早々の事だったし友達も作れなかったんでしょう。お見舞いもないし、勉強の方もどうなってるのかわからないのよ。よかったらノートのコピーとか貰えないかしら。あと見舞ってあげて貰えると嬉しいんだけど」
「ノートは別に構いませんけど・・・・・・顔も名前も知らない人のお見舞いなんて、行ってもどうすればいいのかわからないし・・・・・・」
「それはそうね。名前は渚カヲル。クラスは聞いてないのだけど。
 ・・・・・・やっぱり知らないわよね。学校には初日しか行ってないし」

 僕はびっくりして思わずリツコさんをまじまじと見てしまった。
 渚カヲルって、もしかしなくても彼?

「リツコさん。その渚君って、もしかして凄く奇麗な人だったりしないですか?」
「ええ、そうよ。シンジ君、知ってるの?」
「え? ええ。あの、多分同じクラスです。僕の、クラス」
「あら? そうなの。じゃあ余計お願いできないかしら?」

 僕は曖昧に肯いた。
 リツコさんは渚君の入院している病室と面会時間をメモに残して帰った。ぜひお願いするわと言って。

 僕はドアの前で大きく息を吸った。話した事もない人を訪ねるのはとても勇気が要る。僕は彼を覚えているけど、彼はきっと僕なんか覚えてないだろうし。
 しばらく躊躇して、でもここまで来てしまったしと自分に言い聞かせてノックした。

「どうぞ」

 やっぱり耳に心地よい声だな、と思いながらドアを開けた。

 渚君は、真っ白いシーツのベッドの上で、真っ白だった。僕はどこか違う世界にでも迷い込んでしまったのかと一瞬戸惑う。
 彼は最初びっくりした顔で僕を見て、それからちょっと不機嫌な顔になる。それを見て「やっぱり余計な事をした」と思って頭に血が上る。でもこのままUターンする訳にも行かないから、ごくりと唾を飲むと無理矢理口を開く。

「あ、あの、ノートのコピーを持ってきたんだ。
渚君、ずっと休んでるから、だから、無いよりは有ったほうがいいかなって、思って・・・・・・」

 僕の言葉を聞いて渚君は笑ってくれたけど、そこに無理を見て僕はもう来ないでおこうと思う。

「・・・・・・ありがとう。ええと、確か碇君だよね。碇シンジ君。ごめんね、先生にでも頼まれたんだろう? 迷惑をかけちゃったね。どうぞ、坐って。何か飲むものくらいならあるから」

 渚君の口から自分の名前が出て僕はびっくりする。

「僕の名前、覚えてたの?」
「皆のを覚えてるよ。ちょっと自信ないけどね。なかなか通えないだろうってことはわかってたからね。人の事は一度で覚えるようにしてるんだ」

 僕なんて、まだクラス全員の名前覚えてないのに、と思ってみていたら、ベッド脇に飾られている花瓶に目が行った。薔薇とカスミソウが少し生けられている。それを見て、お見舞いなんて何も持ってきていないことに気づいた。

「そ、そうだ、ごめん、僕、花も買ってきてないや。コピーのことしか頭に無かったから」
「別に構わないよ」

 そう言って笑った渚君を見て、僕はようやく違和感の原因を知る。

「渚君、髪・・・・・・白い・・・・・・?」

 思ったままの疑問を口にしてしまった僕に、渚君が苦笑した。

「ごめん、あの、失礼な事言っちゃったね。あの」
「いいよ、別に。碇君が気にする事じゃないよ。あの時は髪も染めてたし目もカラーコンタクトしてたから。でもこれが本当の僕の色。アルビノなんだ」
「アルビノ・・・・・・?」
「先天性の色素異常。色素がないんだ。髪にも虹彩にも肌にも。だから真っ白。変でしょ?」
「ううん。きれいだよ・・・・・・ええっとあの、あの、でも、すごく似合ってて、きれいだと思うよ。僕は」
「似合ってる?」
「うん・・・・・・そう、思うけど?」
「そう・・・・・・ありがとう」

 それでも男の人にきれいなんておかしかったかな? と思うと焦ってしまって、もうとにかくなんかしゃべって誤魔化そうとしたけど墓穴を掘ってるだけだった。とりあえずコピーを渡して、学校の事とか教室の事とか授業の事とかをかなり一方的に話まくっていた。
 渚君は静かにただ「そう」って笑って聞いてくれた。
 その内に僕の話も尽きてしまい、沈黙が流れてしまう。僕はここに来てからの自分の行動すべてが恥ずかしくなっていて、俯いてしまったらもう、顔を上げられなかった。

「碇君は、どうして僕の所に来てくれたの?」

 それは何気なく聞かれているようだったけれど、声はどこか緊張しているように感じた。

「・・・・・・父さんの知り合いで、赤木さんっていうお医者さんがいて、頼まれたんだ」

 僕はちょっと考えて、正直に話す。

「赤木先生から? そう。それで来てくれたんだ。優しいね」

 それはなんだか冷たい印象を受ける言葉だった。僕はカヲル君の顔を見た。笑ってはいるけれど、なんだか変だ。

「頼まれて来たのはイケナイ事?」
「そんな事は言ってないよ。でも、ノートのコピーとかなら無理に届けてくれなくても大丈夫だから、碇君、気にしないでいいんだよ」
「・・・・・・それって、もう来るなって事?」
「そうは言わないけど。頼まれて来るのは嫌じゃない? 僕だったら嫌だろうって思っただけ」

 その言葉に、リツコさんに頼まれた時を一瞬だけ思い出す。

「渚君がもう来るなって言うなら来ないよ。でも君の事気になってたんだ。それは本当だよ。自己紹介の時からずっと気になってたんだ。
 そりゃ確かに、すごく綺麗な人だなとか思ったからだし、そういうのは男の子の渚君は嫌がるとは思うけど・・・・・・今日来たこと、やっぱり迷惑だった? それならもう来ないから」

 もう僕は何だか泣きそうだった。最初から迷惑そうな顔されたし、きっとアルビノだってことも知られたくなかったんだろうし、その上こんなふうに言われるってことは、渚君、僕の事相当嫌なんだなって思って。

「来て欲しくないわけじゃないんだ。ちゃんと君の意志で来てくれるならいいんだ。碇君は優しそうだから、断れなかったのかなって思っただけだから」
「そんなことないよ。僕が来たかったんだ。だから、また来るよ。渚君が嫌じゃないんなら、だけど」
「うん・・・・・・ありがとう」

 結局僕は泣いてしまっていて、子供じゃあるまいしこんなふうに泣くなんてと思うと顔を上げることはできなかった。
 僕は逃げるように「じゃあ、また。ちゃんと来るから」って部屋を出た。だから、どうして渚君が入院してるのか、どうして学校に来られないのか聞くのを忘れていた。

 僕は毎日病院へ通った。人との会話があまり得意ではない僕は、言葉が尽きて沈黙してしまう事も多くて、正直行きたくないと思わなかったわけじゃない。でも、1日でも行かなかったらもう行けなくなりそうで半ば無理矢理通った。そこまでする必要があったかと言われればなかったのかもしれない。でも、なんとなく渚君のあの表情が気になっていた。

 僕が黙り込んでしまうと、渚君は嫌な顔もしないで笑って何気なく言葉を出してくれたから、そのうち黙り込んでしまうこともあまり気にならなくなった。
 渚君に会いに行く事に無理を感じなくなって、「渚君」が「カヲル君」になったころ、話すことがなくなると僕は少しずつ自分のことを話した。

 母さんは早くに亡くなって今は父さんと二人暮らしだということ。その父さんも仕事仕事であんまり家には帰らないから、実際は一人暮らしみたいなものだということ。鍵っ子だったから家に友達を呼ぶことがなくて、だからか友達付き合いが苦手なことなんかをぽつりぽつりと話した。

「じゃあ、家事とか上手なんだ」
「そうだね。家の事は一通りできるかな」
「いいなあ。僕はあんまりそういう事させてもらえなかったから。掃除もね、母さんが先にやっちゃって。自分の事くらいできるんだけどなぁ」

 確かにおばさんはカヲル君に甘い様に思う。小さい頃から入退院を繰り返してきたというカヲル君だから、それも当然なのかもしれないけれど、母親に甘えた記憶のない僕としては羨ましい一方、面倒くさそうでもあった。カヲル君が酷そうにしているのを見た事のない僕はごく普通に接していたから、ある意味過保護な感じのするおばさんの態度は奇妙にも思えた。そこまでしなくても、と思わなくもない。カヲル君も苦笑しながら、それでもお母さんだから何も言わないでいる様だった。

 僕の話の合間にカヲル君も自分の話を少し話してくれた。病名とかは言われてもよくわからかったけれど、カヲル君がもうずいぶん長く病気と付き合っていることはわかった。アルビノだというのは前に聞いていたけれど、それ以外にも生まれつきの病気があるのだという。だいたい生れて半年で既に手術を受けているというから、本当にもうずっとだ。ずっと、ずうっと入退院を繰り返していて、病院での生活のほうが長いかもしれないと笑う。

「自分じゃそんなに気にならないんだ。もうずっと病気だからかもしれないけれど、この状態がもう当然だからね。酷かった事もあるけど、今は何とか元気だしね」

 それでも入学式も休めと言われていたのを、無理をいって出たのだと聞いた。そのせいで入院期間が少し延びてしまったのだとも。

「いつ登校できるかわからなかったし、途中からだと転校生みたいだろう? 何となく嫌だったんだ。皆と一緒に自己紹介したかったんだよ」

 カヲル君はそう言った。
 カヲル君はそんな話を、まるで何事でもない様に話す。やんわりと微笑みすら浮かべて。僕なんかには想像も出来ないくらい色々あって、その上でカヲル君はこういう風に笑ってるんだと思うと、同情ということすらおこがましくて出来ない。

 本当にカヲル君はよく笑う。大笑いすることはあんまり無いけれど、いつもにこりとした感じて笑っていて、時折僕は見惚れてしまう。

 病院だからリツコさんに会う事もある。僕がカヲル君の所へ通っているのは知ってるようだけれど、特に何も言わない。カヲル君についてもその後何も言ってくれなかった。リツコさんはいつも何も言わない。その代わり言う時はきっぱりと言葉にする人だから、僕には時々痛い事もある。でもカヲル君にはなんだかいつも優しかった。それは医者と患者なのだから当然なのかもしれないけれど、僕は少し意外でもあった。

 カヲル君の病室でノートを広げて復習も兼ねて僕は授業内容を教える。でもカヲル君は特に僕が教えなくても大丈夫みたいだった。どちらかといえば僕が教わっている事のほうが多い様に思う。そう言ったら、

「病院は暇だからね、ぼーっと教科書を読んでたりするから。
 それに赤木先生がここでは家庭教師みたいな感じで、いろいろと教えてくれるんだ」

と言った。入試でも成績はほぼトップだったと後で聞いた。
 リツコさんが教えてくれるのなら成績も良くなるような気がした。でもだったら最初のノートが云々というのは、ただの口実だったのだろうかと思う。そんなことをする人には思えないのだけれど。

 カヲル君はよく本を読んでいる。僕がドアを開けると大体何かしらの本を手に持っている。どんな本を読むのか興味があってタイトルをチェックしたけれど、国語に出てきそうな固いものからミステリーやタレント本までとものすごい幅で、どんな基準で読んでるのか謎だった。カヲル君は「適当だよ」と笑ったけれど、僕が今まで読んだ総数より、カヲル君が1ヶ月で読む本のほうが絶対に多いと思った。

 日曜日にカヲル君の所へ行くと、必ずお父さんがいた。何かしていくわけでもないようだったけれど、ぽつぽつと話をしていく。僕が行くようになってからは時間をすこしずらしているようだった。だから僕はあまり邪魔にならない様に早めに退散する。
 カヲル君の所は親子の仲がとても良い様に思う。それはカヲル君が病気だからってのもあるのだろうけれど、それでも僕は少し羨ましい。父さんは、僕が熱を出して寝込んでしまっても側になんていてはくれなかったから。だから、僕もカヲル君みたいな病気だったら、とどこかで思う事があった。さすがにそんなことは言わないけれど。

「月曜日から学校に行けそうなんだ」

 そう言った時のカヲル君はやっぱり嬉しそうだった。学校なんてどうでもいいみたいなことを口にした事もあったけれど。
 もう5月も終わろうとしていた。

 謎のクラスメイトだったカヲル君が登校してきたんだから、クラスの子達はカヲル君に群がった。学校へはやっぱり染めた髪で来ていた。僕は元々の色の方が好きだなと思ったけれど言わなかった。

 体育はいつも見学だったし、遅刻や早退も多くて、そんなカヲル君を嫉妬がらみでからかう奴もいた。でもカヲル君はそんな奴はまるきり無視して相手にしない。一度酷い事を言われて、僕のほうが頭に来て言い返そうとした事があったけれど、そんな僕の腕を引いて止めてくれたのもカヲル君だった。

「どうして止めるのさ」
「シンジ君が怒る事じゃないだろう」
「でもあんな事言わせておくなんて」
「構わないよ、そんな事で僕がどうにかなるわけじゃないから」

 そういって笑った。その笑顔に僕は毒気を抜かれてしまう。

 段々暑くなって僕らでもしんどくなってくると、カヲル君は入院する事になった。夏は暑さで、冬は風邪をひくといけないからといって、少しでも調子が悪いと入院していた。だから1年の約半分を病院で過ごしているような状態だ。出席日数とかは特別に考慮されていて、テストの成績だけで進級可能なんだと笑っていた。

 カヲル君が入院している時は、可能な限り毎日病院へ行った。学校へ来れる時はできるだけ一緒にいた。家は離れてるから朝からは無理だったけれど、バス停から学校までは並んで歩いた。帰りは遠回りになるけれどカヲル君の下車するバス停まで一緒に帰った。時折、家に泊まりに行ったりもした。カヲル君が僕の家に泊まることはなかったけれどそれは仕方がないし。

 外へ出掛けるのは、おばさんがあんまり良い顔をしないのでできなかったけれど、それでも少しづつ遊びにも出ることが増えた。天気が良くて、あまり体に負担のかからなさそうな日で、人のあまり多くない場所、そんな風に多少は制限されたけれど、映画を見に行くくらいはできる。カヲル君の趣味もあって、ちょっとマイナーなのを見に行く事が多い。意外と面白かったり、逆に良く分からなかったりもした。

 本屋やCDショップなんかも一緒に行った。カヲル君に薦められて買ったものはほとんどが面白いと思えた。今までは普通の流行歌ばかり聞いていた僕が洋楽を聞くようになったのもカヲル君の影響だった。でも僕がカヲル君に薦めるようなものはあまりなくて、敢えて言うならゲームくらいだった。家でひとりで暇なときは、とりあえずゲームが日常だったから。

 カヲル君と会う前は、ほとんど家にこもっているような日々だった。毎日が暇で退屈だった。面白い事が無い、何もする事が無い。ぼんやりしててもよかったんだけど、それもできなくて、何かしたいなと思っても外へ行く事はあまり考えなかった。漫画雑誌を読み散らすかゲームをするか。あとは家の事をして。そんな感じ。

 カヲル君と会ってからは、日曜とかでもカヲル君の家へ行ったし、学校帰りに家に寄ったりして今までの暇だった時間は格段に減った。カヲル君と一緒にいるのは楽しかった。やってる事はあんまり変らなかったりするけれど、他愛もない話しをする相手がいるのは楽しかった。カヲル君といるととても和む感じがする。リラックスしてるというか安心する。

 カヲル君の御両親にはこっちが居たたまれなくなるくらいにお礼を言われる。仲良くしてくれて有り難う、と。でも僕はそんな風に言われるのは嫌だった。普通に友達として付き合ってるつもりだったし、どちらかと言えばこっちがお礼を言いたいくらいだった。

 僕はカヲル君といるのが好きだった。カヲル君が好きだった。

 ただ普通に、好きだった。なにも考えてはいなかった。

 2年になった。先生方の配慮があったのか、今年も僕らは同じクラスだった。
 4月になってもなかなか気温は上がらず、急に冬に戻ったみたいに寒くなったりした。
 結局3学期のほとんどを入院していたカヲル君は、退院して家には帰っているのだけれど大事を取って休んでいる。去年の事もあるからなおさらかもしれない。放課後に寄ると、もう家にいるのは飽きたとぼやいていた。
 進級してまだ1度も一緒に登校していない。どこかまだ馴染めないクラスの中で、僕は早くカヲル君が出てこないかなあと思っていた。

 年末くらいからこっち、カヲル君の調子はあまり良くなかった。食事が十分にに取れないようだと、なんとなく聞いていたけれど、それを僕は寒さのせいだろうと簡単に考えていた。なによりもカヲル君はいつも笑っていてくれたから、僕は何の心配もしていなかった。

 僕は、無理をしてくれているのだとさえ、気づかなかった。

 気温が少しずつ上がってきて、それでも朝の気温の低いときとかは休んだりしながら、少しずつカヲル君は登校を始める。
 天気のよい日が続けばカヲル君も毎日登校してきていた。でもその日は学校には来たものの、僕が見ても顔色は悪く、元気もあまりなかった。

「無理しちゃダメだよ」
「大丈夫だよ」

 放課後、カヲル君が図書室へ寄りたいといい、僕らはいつもより遅く帰った。日が暮れてくると風はまだ冷たい。カヲル君ちで夕飯をごちそうになることになっていたから、僕らはバス停から少しの距離を歩いた。

 カヲル君が咳込む。

「風邪じゃないの?」
「大丈夫だよ。温かくしてるし」
「早く帰ろう」

 カヲル君ちの前で、カヲル君は門に手をつくとしゃがみこむ。

「大丈夫?」

 咳込むように少し喉が鳴って、変な音がした。

 ゴボッと赤黒いものがカヲル君の口から溢れた。ビタビタと押さえた手から零れて落ちる。カヲル君が咳込むように動くたびにゴボゴボッと出てくる。
 僕は一瞬、何が起こったのかわからなかった。その赤黒いものが何かわからなかった。まるでお腹で飼っていた生き物を吐き出しているように見えた。その生き物は僕の手や服にも掛かり、それは生臭い様でいて金属臭もするもので、僕は自分の手をしばらく眺めてから、やっと声が出た。

「カヲル君!」

 吐血しているのだとわかっていたわけじゃない。ただ何とかしたくてカヲル君の背中を擦ったけれど止まる様子はなく、それどころかその吐き出した物で息ができていなのか、小さく痙攣し始める。
 僕は慌ててカヲル君の家に飛び込む。

「カヲル君が、カヲル君が吐いて、た、大変なんです!」

 おばさんが出てきて悲鳴を上げる。

「カヲル、カヲル、あ、ああああ、きゅ、救急車、救急車呼んで!」

 僕はそれを聞いて中へ取って返し119番を廻す。後で、よく119番がすぐ出てきたなと思った。

 電話の相手に何をどういったのかよく覚えてはいない。でもとにかく早く来てくれとだけ喚いていたような記憶はある。カヲル君の出血は止まらず、救急車が来てもまだ吐いていて、辺りは血の海と呼んでもいいような状態だった。カヲル君は真っ青で、痙攣も止まっていない。思わず僕もおばさんと一緒に救急車に乗っていた。

 病院ではリツコさんが待機していてすぐに処置にかかった。僕もおばさんもカヲル君の血で真赤だったけれど、その時はそんなことは目にも入っていない。看護師達が足早に通り過ぎていくけれど、血まみれの僕らを気にする人はいなかった。

 どのくらいの時間が経ったのか、リツコさんが来て言った。

「とりあえず、急場はしのぎました。出血も何とか止めましたし、輸血をしていますからこれで持ち直すはずです」

 おばさんはそれを聞いて力が抜けたのか、床に崩れ落ちるように座り込んでしまった。

「とりあえず着替えましょう」
「あの、あの、主人に、連絡を、」
「そうですね。こちらからしておきますので、お母さんは休まれて下さい。こちらへどうぞ」

 おばさんを支えてリツコさんは歩き出し、途中で僕も呼んだ。

 おばさんをどこかの病室へ連れていって後を看護師に任せると、リツコさんは僕を病室ではない部屋へ連れていってくれた。そこで着替えを渡される。もたもたと着替えたあと、呆然としている僕に、温かいコーヒーを渡して座るように告げた。それを受け取って、しばらく眺める。腕から熱が伝わって体が溶けたみたいにやっと口を開いた。

「カヲル君、本当に大丈夫なの?」
「ええ、とりあえずはね。応急処置だけどすぐにどうこうという事はないわ。だからそれを飲んだら一度帰りなさい。送らせるから」
「でも」
「大丈夫。また明日くればいいんだから」
「明日?」
「明日になっても大丈夫よ」

 そういってリツコさんは少し微笑んでくれた。その笑顔に少しだけ僕は安心して、小さく肯いた。

 翌日、学校をサボって病院へ行った。カヲル君の意識は戻っていなかった。ベッドサイドには沢山の点滴がぶら下がっていて、心電図のモニターとか酸素マスクとか、とにかく何だか沢山のものがカヲル君を取り巻いていた。出血が多すぎて、あまり良い状態ではないのだと、おじさんから聞かされた。

 カヲル君いつこんな状態になってもおかしくなかったんだと、僕はその時になってやっと自覚した。それまではカヲル君の状態がこんなに酷いものだとはわかっていなかった。病気だとは思っていたけれど、辛そうだなと思う事はあったけれど、それがこんな風な「現実」になるのだとはわかっていなかったのだ。

 つい昨日まで普通に笑ってくれてたから。

 「死」というものの匂いがする気がして、正直僕はもうカヲル君を見ていたくないと思いもしたけれど、そんなことができるわけもなくて、眠っているカヲル君を見ていた。何も変っていないのに、カヲル君の命が薄くなっていくのがわかるようだった。

 それからは学校を休んで病院へ行った。僕は特別に、カヲル君の側にいることが許された。

「手を握ってあげててくれる?」

 おばさんとリツコさんに言われて、僕はずっとカヲル君の手を握っていた。カヲル君の出血は完全には止まっていないらしく、ずっと輸血がされているのに、肌はどこか透けるように薄く、冷たかった。白いのだけれど、どこか微妙な色調が混じっていた。それは以前からあった徴候だったのかもしれないけれど、愚かな僕には今まで見えていなかったんだと思う。
 カヲル君の瞳が開かれることはほとんどなかった。時折ぼんやりと天井を見ていたけれど、呼びかけても何の反応もない。そのうちに再び眠るように閉ざされる瞳は、僕をとても不安にした。

 それから暫く、変わらない時間が過ぎていった。相変わらずカヲル君は眠っていたけれど、僕はずっと側にいた。見ているのがとてもとても辛かったけれど、側にいた。
 何日かたって、やっと出血が止まったようだった。それで目を開けている時間が少しずつ長くなって、名前にも反応してくれるようになった。それでも話すことはできないようで、唇は少し動くのだけど、声が出ない。何か言いたそうにしているカヲル君に、僕は相変わらず手を握ることしかしてあげられないでいた。

 それからまた少ししてやっと、擦れるような声がカヲル君の口からこぼれる。小さな小さな声。僕が握る手はまだ力が入らないらしく握り返してはくれないけれど、少しだけ指を曲げて僕の手を握るような形をして、ゆっくりと言葉を紡いでくれた。

「ごめんね、びっくりしただろうシンジ君」
「うん、正直ね。カヲル君、まだ無理に話さないでよ」
「無理はしてないよ。シンジ君ずっと付いていてくれただろう?明日は、学校へ行かなきゃね」
「いいよ。もう少しカヲル君の側にいるよ」
「でも、僕の分も授業、聞いてもらわないと」
「どっちかって言えば僕の方が教わる立場なんだけどね」

 そういうとカヲル君は少しだけ笑った。だから僕はちょっとだけ安心してしまった。とても離れがたかったけれど、それで僕は帰ろうと思った。

「じゃあ、また明日ね」
「うん」
「・・・・・・シンジ君」
「何?」
「ありがとう」
「僕、お礼を言われるようなことしてないよ」
「ついててくれたお礼だよ」

 笑ったカヲル君の顔は、すっごくきれいだったけど、どこかすごく遠く感じた。そして僕は半ば無理矢理ドアを閉めた。

 次の日、僕はとりあえず登校した。父さんにも叱られたし、本当は病院へ行きたかったのだけど、カヲル君にノートとらなきゃ、と思ってがまんした。

 3時限目に電話だと呼び出された。

 おばさんからの、電話だった。

 早退して病院へ走る。病室には、前以上に物々しい器械に繋がれたカヲル君と、部屋の隅で泣きながらそれを見ているおばさん達がいた。
 よく見なければわからないくらいの微かな息をしているカヲル君。死んでると言われても疑わないかもしれない。
 もう、
 もう後が見えているのだと、わかってしまった。
 意識もない。たくさんの、本当にたくさんの点滴や輸血がされていたけれど、もう、たぶん、効果は期待できない。ただやらなければ、直ぐに死んでしまうから、少しでもその時間を先送りにする為だけになされている事だ。

 もうカヲル君は死んでしまう。

 ドラマのように最後に意識が戻る事もなく、少しずつ、カヲル君は死んでいった。

 病室のモニターが、僕にはその波形なんてわからないけれど、形が変わって、とても不規則になって、間隔が延びて、
 どんどん延びて、数字が減っていって
 唯の、線になるのを
 僕は、見ていた。

 リツコさんがカヲル君の胸を叩いて、一瞬だけ波形が出たけど、やっぱり一瞬だけで。
 リツコさんはカヲル君に近づいて、いろいろ確認して、時計を見て、

「お亡くなりです。なにも出来ませんで」

と言った。

 なんか変な感じだった。

 確かに心臓は止まったかもしれないけれど、カヲル君の生命は、まだその体に纏わりついているような気が、したのだ。
 あまりにもゆっくり死んでいくので、命の名残が見えているような。
 その、魂とでもいうような、もやのようなものを捕まえる事ができたら、カヲル君は生き返るのではないか、と思えた。
 だから、なのか
 涙は出なかった。

 それから僕らは部屋を出される。僕はなんとなくおじさん達と一緒にいられなくて少し離れたところから見ていた。
 そのうちに白いカバーの掛けられたストレッチャーが部屋から出てきて、どこかへ向かっていく。その後ろをおじさん達がついていく。僕は、そこから動かずに見送った。

 それからしばらくぼーっとそこに立っていたけれど、リツコさんが僕に気づいて僕を地下へ連れていってくれた。おばさんが廊下にうなだれていて、中には誰もいなかった。
 カヲル君の体は包帯で真っ白で、鼻に綿が入っているのが滑稽で、少し、笑ってしまいそうになった。
 そして、もう笑えないのだ、と思った。
 カヲル君が生きていれば笑い事なのに、

「変だよ、カヲル君」

 そう言って笑えばなんでもないことなのに、カヲル君は死んでいるから、これは笑い事にはならないんだと思ったら、

 急に、

 本当に急に涙が出てきてしまって。
 よく分からないものが僕の中で暴れて、涙は止まらなかった。
 悲しいのとも違う気がした。

 その後、カヲル君は取りあえず家に帰る事になって、葬儀屋の人が手際良く準備を進めていく。

「一度、帰っておいで」

とおじさんに言われて、僕は呆然としたまま家に帰った。
 何も変らない僕の家で、でも僕は何かが違っていて、現実感があるようでないようで、部屋でぼんやりしていた。

「寝なきゃ」

 間抜けな感じがしたけれど、何となく口に出して、僕はそのまま寝た。

 カヲル君は、夢にも出てきてはくれなかった。

 リツコさんから、少しだけカヲル君の話を聞いた。
 もう随分前から、体のほうはボロボロだったのだと。入院させたかったのだけど、カヲル君が拒否していたし、おじさん達もそれを良しとしていたので、外来のまま診ていたのだと。
 本人も、おじさん達も、リツコさん達も、こういう可能性は考えていたのだと。

「でもシンジ君には急なことだったでしょう。かなりショックだったのじゃないかと思って。渚さんも気にしてらしたわ」
「よく、わかりません。でもなんだか夢を見ているような気がしてて・・・・・・」
「ええ。それも正常な反応よ」
「なんだかズレているんです。うまく言えないけど、何かかみ合ってない感じがするんだ」
「感じ方は人それぞれだから、何をどう感じていてもいいの。ただ、辛いと思ったら声をかけてくれていいのよ」

 リツコさんの口から出るにしては妙に優しい言葉に、そんなことを言う人だとは思っていなかった僕は少しびっくりした。

 僕は、本当に健康だった。いつか自分が死んでしまうかもしれないというのは、人類が滅びるかもしれないというくらい遠い話で、必ず来る未来だけれど、実感できないものでもあった。カヲル君には、すぐ隣の事だったのに。

 自分の感情や考えてる事が少しずれているような感覚が消えない。カヲル君がもういないことがうまく僕の中に入ってこない。思い出すのは笑ってる顔で、確かに病気だって知ってたけど、病院で出会ったけど、血を吐いたのも見て死んでいくのも見たけど、まるきり他人事のようだ。悲しいのは自分で、カヲル君を悲しんでいるんじゃないと言う自分がいて、何故か普通に悲しむ事ができなかった。

 自分が何に引っかかっているのかわからない。わからないままで変だ。

 葬式のとき、クラスメイトが泣いていた。何人かが僕に何かを話し掛けたけれど僕は何も答えなかった。答えたくなかった。どうしてあの子達は泣けるのだろう。僕は泣けないのに。ただクラスメイトだったというだけで泣けるのかと思うと少し腹が立った。
 僕は、祭壇の遺影を見ても何とも感じなかった。その写真のカヲル君は笑っていたけれど、僕の知っているどんな笑顔とも違っていて、カヲル君じゃないようだった。読経や献花や一連の葬式の流れを見ながら、こんなことをして何になるんだろうと思う。
 若くして死んでしまって可哀相と思えばいいのか、あの世で幸せになってねと思えばいいのか、今度生れてくるときは健康でねとでも思えばいいのか、わからなかった。

 それからしばらく僕はあまり会話が出来なかった。話し掛けられてもちゃんと答えられなかった。どうしてこの人と話さなきゃいけないんだろう、と思う。そしたら答えられないのだった。それを皆はカヲル君の死のせいだと思っていたらしい。僕にはわからなかった。僕は本当にカヲル君が死んで悲しいのだろうか。

 一度だけ、僕は父さんに言った。
 思い出がバラバラで、そこら中に散乱していて、気が付くと目に入る。不意に訪れるそれがとても痛いと。
 父さんは
「時間が経てばそれはちゃんと整理されていく。引っ張り出してこないと見れなくなる。それが必ずしも良い事だとは言わない。
 ただ痛みが減っても忘れていくわけじゃない。片付いていく事が悲しくても、忘れたりはしないものだ」
そう言った。

 僕の心の一部はまだカヲル君の形を取っている。いつかこれが消える日が来るのかと思うと、このまま時間を止めてしまいたいくらいに嫌だった。自分だけが時間を流れていくのが、すごく嫌だった。

 それでも季節は過ぎて行く。カヲル君といられたのはたった1年だった。でも、すべての季節で何かしら思い出す事がある。何気ない、いつも通りの風景の中で、カヲル君といたと思う。

 時々、何かとてつもなく悲しくなって泣いたりもしたけれど、理由はわからなかった。

 1年が経って、どこかちゃんと過去になっているのを自覚して、僕は悲しくて泣いた。僕はカヲル君をひとりで置いて行ってしまうんだと、そう思った。

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