あれが事件なのか事故なのか、僕にはわからない。ネルフ本部の医療室で見たアスカはぼんやりとした表情で天上を眺めるだけで、僕が声をかけても反応はなかった。リツコさんは助けるのが遅すぎたと言った。僕は見ていただけで助けることさえできなかった。使徒の不思議な攻撃が始まってからのずっと、を僕は発令塔で見ていた。あれ以上の早さでアスカを救うことができた人がいたとは思えない。だから「どうしてもっと早く」とは思わなかった。けれど、このアスカの様子を見てしまうと、何かできなかったのかと思ってしまう。
結局アスカはそのままネルフに付属する病院へと移された。ダメージは一時的なものではなく、本格的な治療が必要だと判断されたんだと思う。病院へ搬送されてすぐに見舞にいった。目は開いているけれど何も見ず、呼吸はしているものの言葉はしゃべらず、食事すらしない。そんな状態が良くなるとは正直言えば信じることはできなかった。とりあえず治療は開始されたようだけど、僕が見る限り回復は芳しくない。
僕はほぼ毎日見舞に訪れている。まったく反応のない、瞬きさえしないアスカにそれでも話しかける。それしかできなくて、他にできることなんて思いつかなくて。看護師さんたちに”無理はしなくていい”とさりげなく言われたりもしたけれど、これは無理じゃなくて、僕のあせりとか焦燥とか言うものだと思う。
毎日見舞って、それでもアスカの状態はまったく変わっていない。少なくとも僕にはそうとしか見えない。いや、どちらかと言えばその顔は少しずつやつれてきている様にさえ思えた。必要な栄養分については点滴で十分に投与されていると聞いているけれど、それでも自力ではまったく食事を取れないためか、目の下の隈や皮膚のかさついたような印象は見るたびに酷くなっていくようだった。
看護師さん達が定期的に病室を訪れてはアスカの体を動かし、目薬を指し、点滴やモニターをチェックして行く。僕はただそれを眺めていることしかできなかった。
僕にできることはなかった。
今のアスカに対しても。そしてあの時のアスカに対しても。
今していることだって無意味な自己満足だと言う自分がいる。けれど、もし自分が訪れるのを止めたら、話しかけるを止めたら、アスカはもう二度と戻らないんじゃないかという気がどうしてもしてしまう。思いこみだと言われればそれまでだ。現実には僕の行動なんかにそんな力があるなんて思わない。それでも、何も出来なかった自分が少しでも必要とされているかのように錯覚する為に、自己欺瞞だと思いつつも続けていた。
学校へ行きたくないのもあって日中はアスカの病室に詰めている。初号機の凍結は未だ解除されていないから、初号機に搭乗しての訓練はできなかった。シンクロテストなどのエヴァを使わないテストは変わらず続けられているけれど、拘束時間はそう長くはない。朝病院へ行ってからテストを受け、それが終われば病院へ向かう。それがここ最近の僕の行動パターンになっていた。
ずっと病室にいるとはいえ、バカみたいにだらだらと話しかけ続けているわけじゃない。ぼんやりとパイプ椅子に腰掛けて窓の外を眺めたり、アスカの顔を眺めたり。時折そっとその手に触れてそろりと撫でたりもするけれど、特に何かをするわけじゃない。
そんな風にぼんやりしていると必ず思考は渦を巻いて暗い方へと落ちていった。アスカのこと、使徒のこと、エヴァのこと。そしてトウジのこと。
考えたくない。考えたくはないけれど、頭から離れもしない。
アスカの弐号機は今、フィフスチルドレンだと言う渚君が搭乗している。ミサトさんもリツコさんも、マヤさんさえもどうしてだかシンクロデータを教えてはくれないけど、それでもその様子を見ていれば彼が随分と良い成績を出しているのは間違いないと思えた。
綾波はアスカの見舞にはあまり来ていない。ここで顔を見たのなんて一、二度しかない。それでもそれを冷たいとは思わない。綾波はそういうタイプだとわかっているからでもあったし、比較対照としてしまう渚君の印象の方がひどかったからでもあった。
”君が病室で何をしているのか気になるから”と何度かいっしょに見舞に来たことがある。でも渚君はアスカの心配なんて欠片もしていない。病室の隅に座って僕を観察しているか、病院内をふらふらするか。ナースセンタで看護師さんと談笑していたこともあった。その笑っている顔を見た瞬間、フッと顔が熱くなって、たぶん腹が立ったんだと思うけれど、自分の感情が一瞬わからなくなった。そんな風になるのは随分と久しぶりな気がした。それでも渚君になにかを言うのは労力の無駄だと思えてそのままアスカの病室へと戻った。
毎日見舞って声をかけている僕の気持なんて、きっと彼にはわからないんだろう。というよりはきっとバカにしている。だったら来なきゃいいのにと思うのに、結構な頻度で病院に付き合う理由は僕にはまったくわからなかった。
初めて会ったとき、ピアノを弾いている彼を綺麗だと思った。まるで天使の様だと。
けれどその天使は印象が定着するよりも先に信じられない行動を取り続け、最初のイメージはもう粉砕されて残っていない。
変な奴、おかしい奴。感じ方や考え方がどこか人間離れしている。
「良く飽きないね」
そう声をかけられたのは病院に通い出して三週間ほどたった頃だった。
「君には関係ないだろ。飽きたんなら来なければいい」
突き放した言い方になってしまうのは仕方ないと思う。だってやっぱり腹が立つし。何を口にしてもいちいち癇に障るのは実はワザとなんじゃないかと最近思い始めていた。
「君を観察することに飽きたわけじゃないからね。面白いと思うよ。人間は皆君と同じなのかな。やっぱりこんな風に意味のない行動をするの?」
「意味がないかどうかなんてわからないだろ」
「ないよ。君が毎日来ても、声をかけても彼女は目覚めない。彼女のところには届いていないから」
「どういう、事だよ。なんでそんなことわかるんだよ」
「見ていればわかるだろう? 彼女の精神は暴かれた。むき出しで触れた外界は痛くて耐えられないからね、自分が沈める一番深いところに潜り込んだのさ。確かに脳自体が受けたダメージもある。けれどそういう物理的なものよりも精神的なダメージ方が強い。彼女は全てを拒否しているから、君が何をしても届きはしないよ」
「医者でもないくせに」
「医者じゃなくてもわかるさ。いや医者じゃないからこそわかる、かな。君だって本当はわかってるだろう? でも認めたくないんだ。それだけさ」
「……続ければ、届くかもしれないじゃないか」
それは彼の言っていることを認める言葉。わかっていたけど口にしてしまった。心の何処かで、届いていないんじゃないかとは思っていたから。
「まぁ、人間は奇跡ってやつを起こすらしいから、届くかもしれないけどね。僕は無理だと思うよ。それに彼女は自業自得だ。同情する余地はないね」
「何が自業自得なんだよ」
「自分の力を正しく理解できなかった。自分の持っているもの以上を望めば無理が出るのは当然だろう?」
「君はアスカの何を知ってるっていうんだ」
「彼女のデータなら見せてもらった。君のも知っている。ついでにファーストのもね。見ればわかるよ」
データなんかから何がわかると言うんだろう? そう思っているのが顔に出たのか、渚君はふうと肩をすくめた。
「君にもわかりやすいように喩えようか?」
子供を諭すような口調で薄く笑って言う。
「そうだな、君はアーチェリーとか、ボーガンとかって知ってる? あぁそれより和弓の方がいいかな?
彼女は遠い遠いところに的を置いていた。そこへ矢を飛ばす為には強く弓を引き絞らないといけない。ギリギリと弦が鳴り、腕は震え、構えているのが辛いほどに。
それでも届かないんだ。遠くにあるからね。だからもっと弓を引く。
引いて引いて、でも彼女の弓はそんなに強くない。だから耐えられずに弓は折れる。
折れて毀れた弓。それが今の彼女だ。
的を近くに置くか、もっと強い弓を持っていればこんなことにはならなかった。
あきらめることもしないで無理をした結果がこれだ。
身に過ぎた望みと力不足。それを自業自得って言うんだろう?」
学校の先生みたいに、数学の答えを解いたみたいに、さも当然という言い方をした。
言われた喩えはわからなくはなかった。無理をしたせいでおかしくなるというのはわかる。でもそれをアスカに当てはめることができなかった。彼女は力があった。エヴァだって僕よりもうまく動かせたのに。
「アスカは、力不足じゃないよ。シンクロ率だって良かった」
「良かった、ね。過去形だろう? 最近調子が悪かったのは君だって知ってることだ。彼女は自分の力を見据えることができなかった。自分の力が君より落ちると認めたくなかった。だからこんなことになった。違うかい?」
「アスカが僕より落ちる事なんてないよ。そりゃ確かに最近調子は悪かったみたいだけど、でもそんなことは誰にだってあることだ」
「君はバカなのかい? 一時的に調子が悪いのと実力が伴わないのは別だ。彼女は自分を正しく推し量れなかったから調子を崩した。彼女の力は君以下だ。それは間違いない。
まあ、自分の力を理解していないという点では君も同じか」
僕の力? 僕に何の力があるというのだろう。何もできないのに。エヴァに乗れるだけで、エヴァとシンクロできるだけでアスカを助けることもできなかった。
「君は逆だね。強い弓を持っているのに、遠くの的にだって矢を届かせることができるのに、構えることすらしていないんじゃない? いや、違うか。弓を持っていることにさえ気付いていない、かな? セカンドが羨望したものを持っているくせにもったいないね。彼女がそんな君を見て怒らないはずがない。セカンドが君を、君だけじゃないみたいだったけど、嫌っていたのはそういうわけかな。
まぁとにかく、君は気づきもしないみたいだけど、君は力を持っている。のに、君は何をしているんだい? こんな人形を見舞う暇があるなら、やらなきゃいけない事があるんじゃないのかな」
「人形って……それに初号機の事なら、あれは父さんが凍結していて……」
「そんなことじゃないよ。思った以上にバカなんだな。なんで君みたいのがサードチルドレンなのかわからないね。まったく無駄だよ。弐号機じゃなくて初号機を貰えればよかった。君なんかより僕の方が上手く使えるのに」
「確かに君の方がいいのかもしれないけど」
「使い方を知らない人間に道具を与えても無駄なだけだ。君は初号機を使っていない。初号機やエヴァンゲリオンというものをわかっていない。このままじゃ君だってセカンドの二の舞だね。壊れる前にエヴァから降りたら?」
渚君はさっきからずっと笑った顔でいる。綺麗だけど嫌な笑い方。腹が立つのに、言い返したいのに、それでも何を言ったらいいのかわからない。
一度噛んだ唇を精一杯開いて、無理矢理音にする。
「僕が気に入らないなら構わなければいいじゃないか。近づかなければ腹も立たないだろう?」
そうだ。放っておいてくれればいいんだ。構わないでくれればいい。そうしたら僕が何をしたって彼には迷惑をかけない。
「それができればどんなにか。僕だって好きで君に構っているわけじゃないよ。もしかして自惚れてる? 僕が自分の意志で君なんかに近づいているって。君を心配してこんな小言を言っているって?」
「そんなこと言ってないだろ」
「そう聞こえなくもないけどね。僕には僕の事情がある。腹が立っても君の傍から離れるわけにはいかないんだ。君がエヴァンゲリオンの、初号機のパイロットである以上はね」
「初号機のパイロットってことがそんなに大事なの」
思わず聞いていた。今までそんなこと疑問に思ったこともない。どのエヴァが重要なのかなんて聞いたことも気にしたこともない。ただ言われるままに乗っていただけで、最初から初号機だっただけで。
「初号機は特別なんだよ。君は知らないみたいだけど」
「どう特別なのさ」
「彼女だけが槍を必要とする」
「槍?」
それはあのとき綾波が投げた槍だろうか?
「ああそうか。君はそれも知らされていないのか。どうして誰も教えないのかな? まぁ君はただ乗っていればいいだけのパイロットみたいだけど」
ムッとした。
「君は全部知ってるんだ」
「全部ではないだろうね。僕に隠されている事実はあるはずだからね。道化を演じるつもりもないけど、無理かな? 僕は一人だし」
その瞬間だけ、渚君は悔しそうな疎ましそうな顔をした。それまでがずっと笑い顔だったから、妙に印象に残る。そんな歪んだ表情でも綺麗で何となく羨ましいと思った。男が綺麗でも仕方ないとも思ったけれど。
「そんな態度を取ってるから一人なんだよ。その偉そうな態度直したら友達だってできると思うよ。君、見た目は綺麗だし」
「へぇ?」
その意外という声色に余計なことを言ったかと内心舌打ちした。
「では、態度を改めたら僕と友達になってくれるのかい? 碇シンジ君」
改まった顔と声でそう聞かれると冗談じゃないように聞こえて僕は、一瞬真面目に考え込む。
友達。
トウジやケンスケみたいな?
そしたらきっとまた僕のせいで傷つけるんじゃないかな。
「友達は、無理だよ」
それはどちらかと言えば呟きに近かった。考えて口にしたんじゃなくて、ただポロっと零れただけだ。
「だったら僕は態度を改めなくてもいいってことだね」
「え? ちが、そうじゃなくて! 僕じゃなくたって友達になってくれる人なんて他にもいるだろう?」
「どこに?」
「え?」
何の含みもない普通の声で。
「どこに友達になってくれる人がいる?」
「え、が、学校とか」
「今はそれどころじゃないね。君だって行っていない」
「前に居たところとか」
「周りは大人ばかりだったから無理」
「今住んでるところの近所とか」
「僕は本部内に部屋を借りてるんだ」
「じゃあ、ネルフの人とか」
「君はネルフの人を友達と呼ぶの?」
「呼ばない、けど」
「だから僕は君にどうかと聞いている。少なくとも現状では見回しても他にいないんでね。セカンドは今友達どころじゃないし、ファーストは無愛想だ」
友達ってこんな風になるもんじゃないとも思うんだけど。
なんでこんな会話してるんだろう?
「君が勝手に思う分には自由だよ」
「そんなのは友達って言わないんじゃないのかい」
「でも僕は、無理だよ」
「無理ならそれで良いだろう? 僕も友達になって欲しいからと態度を変えるつもりはないし」
「だったら最初から変なこと聞くなよ」
「変なことだったかな?」
「友達になってくれるかなんて、変なことだろう?」
「そうかな」
「普通はそんな風に宣言して友達になったりしないと思うけど」
「そういうものなのかな。僕は知らないから」
本当に知らないといった風に言われて戸惑った。そして少し腹も立った。
「偉そうに何でも知ってるみたいに言ってたのに」
「君があまりに何も知らないからさ」
「友達の作り方くらい、・・・・・・」
そこまで口にしてハッとする。何を言う気だったんだ? 偉そうに。友達の作り方なんて、僕が一番口にできないだろうに。
「くらい?」
「何でもない。とにかく、僕には関わらないで欲しいんだ」
「だからそうはいかないと言っている。本当にバカだと認定するよ? 君が初号機のパイロットである限り、僕は君に張り付いていないとね」
「……だったら、少なくともここでは僕に話しかけないで」
渚君はしばらく黙った。僕を観察しているように思えた。僕の言うことなんて聞かないだろうと思ったけれど、でもアスカを心配している横で、彼と話をするのは嫌だった。
「いいよ、それくらい。僕は構わない。その代わり一緒にいるのはいいんだろ?」
のんでくれるとは思っていなかったので少なからず驚いた。そして、それでもやっぱりついてくるのかとため息をつく。
「嫌でも付いてくるんだろ」
「そうだね」
「好きにしたらいいよ」
そう言って背を向ける。置き去りにするつもりで歩いたけど、付いてきてるのはわかった。
得体の知れない新しい仲間。今はそれどころじゃないはずなのに、引っかき回されててる感じがする。
少し、イライラする。
珍しいかもしれない。他人なんて所詮”僕には関わらない人”だったのに。
彼がこの先僕に深く関わってくるということを、このときはまったく予想していなかった。
もう全てが終演へと向かっていて、彼が最後の登場人物だということなど、何も知らされていない僕にわかるはずがなかった。
物語の終焉で、僕の弓は毀れる。
アスカと同じように。
恐らく、彼の手によって。